四国の多様な お祭り ・ 芸能 Diversity of Shikoku’s intangible culture and festivals
四国の 芸能 文化の多様性
一般的に地形や土壌の種類といった地理的・気候的な違いが大きい地域は環境が文化の同化を妨げ、多様性が高くなると言われています。国レベルで見たとき、インドやニューギニア、コーカサスなどの山岳地帯では同化が妨げられ多様性が高く、ユーラシア大陸の東と西の端の開けたヨーロッパや東アジア、北アフリカでは比較的同質な地域だとされます。世界のそうした常識からみると、日本は地形も土壌の種類も気候も多様で文化的な違いが地域ごとに大きくありながら、それでいて単一民族によって国家が形成されるという東アジアの特徴を備えた独特の文化環境が存在していることがわかります。(そうした多様性と統合性がコンビニをはじめとした独自の小売・流通の仕組みを築いてきてもいます)
そうした日本の各地域の独自性の特徴を見ていく上でも四国は素晴らしい参考例を提供してくれます。「四国 の気候と地形 雨が多い高知と雨が少ない高松 」でも書いたように四国山地を境に大きく気候が異なり、同時に地質的にも四国山地・中央構造線を境に大きく異なる姿をみせます(国土地理院地理院地図 参照)。
四国と言えば、お遍路さん、四国八十八ヶ所霊場のイメージで、一つの文化圏のように捉えてしまいがちですが、こうした地形や気候や地質の違いが、徳島の阿波踊り、高知のよさこい祭りと地域ごとに特徴を持ったお祭りや民俗 芸能 を育んできました。
里神楽、太鼓祭り/ちょうさ、浄瑠璃・歌舞伎、太刀踊り、阿波おどりの5つが他に比べて広く分布している民俗芸能しています。徳島の阿波踊りと高知・愛媛南予の太刀踊りは土着的なものが現在までも残り発展し、神楽、太鼓祭り/ちょうさ、浄瑠璃・歌舞伎は外からもたらされた文化が地に根付いて現在まで残ってきたものだと推定されます。阿波おどりはさらに外へ発信していっているものであります。近年では高知のよさこい祭りが戦後の経済復興の足掛かりとして企画され日本全国、世界へ広がっています。
四国の 民俗 芸能 の 歴史
年代でみると、江戸時代の中期から後期あたりに現在のようなかたちに発展していったことが見えてきます。これは町民や農民が自分たちの文化を持てるだけのゆとりが江戸時代の様々な技術改革によって成し遂げられたこと、行政区分などを通じて集団としてのまとまりが強く意識されたこと。そしてその受け皿としての芸術・文化サイドの戦国時代からの発展が大名/武士から町民・農民へと開かれていったことがあげられると思います。
里神楽 江戸時代中期頃
神楽も平安時代あたりからの祭礼から発展してきていると推定されています。出雲流神楽とよばれる系譜にあたり、出雲神楽は江戸初期に能楽の要素を取り入れて従来の神楽に演劇性を高めたものになります。詳しい伝来や起源ははっきりしないようですが、出雲から安芸・岩国を超えてきたのか?国東・高千穂の九州川から超えてきたのか?瀬戸内海を超えて愛媛から高知へと伝わっていき、現在のようなかたちになったのは、江戸時代頃ではないかと考えられているようです。広島安芸の神楽が出雲流神楽をエンターテイメント性を高めて発展させていったように、神話をはじめとする道徳性と踊りの娯楽性を一体とすることで、里の日々の活動に刺激を与える役割を果たしていたように思えます。
太刀踊り 江戸時代初期
太刀踊りはほかの芸能に対して起源がはっきりしませんが、400年前あたりと伝承されている事例が多く、やはり江戸時代初期が起源であると推定されます。はじまりの由来も平家の合戦や戦国時代の合戦が由来のもの、戦勝祝いや戦いの穢れを払うもの、タタリが原因となっていた地域に害をなす野獣の討伐由来のもの、そして五穀豊穣を願うものとバリエーションは様々です。合戦由来の祭りごとが祝いではなく穢れやタタリと結びつくのが非常に日本的なもののように感じる。島国で早くから高密度な環境で発展した里や村々が互いの環境を維持し合うために戦いの継続(報復の継続)を避けるための仕組みであったように思える。
太鼓祭り/ちょうさ 江戸時代後期(文政年間/1818-1830)
新居浜太鼓祭りが平安時代から祭礼が発展したもので、太鼓台(山車)が取り入れられたのが江戸時代後期、文政年間 (1818 – 1830)とされています。(wikipediaより) 松山の四角・七角の喧嘩神輿も元禄年間17C末に京都で神輿をつくらせたとありますので、荒々しい男祭りが江戸時代に瀬戸内海側の沿岸部で定着していったように推定されます。
浄瑠璃・歌舞伎 江戸時代中期~後期
浄瑠璃・歌舞伎が発展したのは江戸時代中期の大阪。義太夫節で知られる語り部/竹本義太夫と名脚本家/近松門左衛門とによって浄瑠璃は高い芸術性をもった人形劇へと昇華していきます。文楽の始祖/植村文楽軒がいた淡路島も古くから浄瑠璃が盛んで、淡路人形浄瑠璃の元祖上村源之丞(うえむらげんのじよう)座は、元禄6年(1693)、徳島城下で大規模な興行を行っているようです。(淡路人形座/淡路人形浄瑠璃の歴史より)徳島の農村舞台で最古と推定される坂州の農村舞台は江戸時代後期のものと目されており、徳島の里にも浄瑠璃の波が大きく押し寄せていたことがわかります。これらの農村舞台の多くが里の神社の境内に建っていることが多く、愛媛や高知の里神楽と同じように道徳と娯楽が表裏一体で存在していたように思われます。歌舞伎が大きく発展したのも名脚本家/近松門左衛門がいた江戸時代中期の大阪の元禄年間、芝居小屋としての舞台形式が洗練されたのが18Cの享保 – 寛政年間です。人が集まるところに娯楽ありと、お伊勢参りに次いで人気を博したこんぴら参りでも門前町では様々な興行が行われ、仮設の芝居小屋が建てられていたようです。その盛り上がりは江戸時代後期の1836年(天保7年)に金毘羅大芝居として結実します。(wikipediaより)
阿波おどり 江戸時代後期
阿波おどりは盆踊りの一種です。はじまりは戦国時代末期に徳島城の築城を記念して踊られた者とする説、念仏踊りからの発展とする説、勝瑞城(阿波国の戦国時代までの中心地)での風流踊りから発展とする説と所説あるようですが、鳴り物の一つである三味線が日本にもたらされたのは16C末になるので、基本的には江戸時代初期におおよそのかたちがまとまったと考えるのが良さそうです。吉野川の氾濫により稲作には適さなかった中流から下流域は藩の積極的な政策として藍栽培が奨励されていました。江戸時代後期の文化文政時代(1804-1830)から阿波は藍玉が人気を博したことから城下の経済活動も活況を呈して、阿波おどりの規模も大きくなっていき、現在の往還道へとくり出して進む練行型の踊りに変化していったと言われています。(阿波銀行/阿波踊りの歴史より)
四国 の 民俗 芸能 の分布
四国の地図に代表的なものをプロットしてみます。四国四県の県の境界とは必ずしも関係がないように見えてきます。大きな影響を与えているのは四国山地の尾根と瀬戸内海との地形的な関係、そして江戸時代の藩の区分/城下町との社会的関係であるようです。江戸時代は各藩ごとの自給自足経済を基本としたため、否が応でもそれぞれの独自の解決策が独自の文化を育む機運となりました。そして藩の境はやはり地形的な要素から決定されることが多かったのです。そうした藩の独自性が江戸後期になると物流が活発化して、江戸や大阪を中心とした商品経済に組み込まれていきます。これまで見てきたように江戸期に生まれた芸能の多くは、こうした経済交流にも大きく寄与して大きくなってきたのです。
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