地方の 商店街 とはなにものか? the perspective of Japanese distribution

今、コンビニに社会インフラとしての役割が求められているということは?

地域の中小企業に求められる経済的活動と公益的活動

満薗勇 氏による「日本流通史」、「商店街はいま必要なのか「日本型流通」の近現代史」によると、20世紀の日本の流通の歴史を見ていく上で 商店街 が非常に重要な役目を果たしていたことが指摘されています。そしてどの地方都市に行ってもよく見られるのだと思いますが、シャッター通り化した現在の姿になっていった過程のなかで、商店街が担っていたものがどのように他へ移っていき、またなにが商店街に残ったままになっているのか?という整理は重要な視点のように思えます。
例えば昨今のコンビニに対しての公衆トイレとしての機能、防災施設的な役割などの社会インフラとしての位置づけがなされていたりします。この手の地域課題を解決するための公益的機能は一昔までは、まさに商店街が果たしていた、もしくは果たすことが望まれていた部分が大きかったのではないでしょうか?それは商店街が職住一体の家族経営の小規模商店の集積によって形成されていて、自治会のような組織と商店街組合が重なり合った関係にあり、経済的な主体と地域コミュニティの核としての主体が一つの枠のなかに共存していたことが大きいと思います。それが現在コンビニへ求められる社会的要望があるのは、戦後の経済成長と流通の様々な改革や規制緩和のなかでスーパーやショッピングモールの登場によってシャッター通り化し、店舗機能が衰退していった先で、各事業者の高齢化や事業継承の断絶もあり地域コミュニティの核として機能も果たす力がなくなってきたことが背景にあると言えると思います。
この現在、コンビニに押し付けられている公益的機能は、経済学で「外部性」と呼ばれてきた市場経済取引のなかで価格に転嫁されずに社会側に押し付けてきたものが、行き場を失ってコンビニへ、かつコンビニ本部ではなく、各地域のコンビニオーナーへ押し付けられている、というのが正しい見方ではないでしょうか。こうした外部性は大手ディベロッパーが行う大規模ショッピングモールを核とした複合開発などでは、店舗や住居の賃料のなかに入れ込むことで市場のなかに入れ込むことで処理をしたり、各自治体が補助金やボランティア活動などを使いながら行政と連携して福祉事業として解決している事例も多いと思います。また事例は少ない気がしますがまちづくりコンサルのような専門職の方が自治体の方たちに雇われて解決に当たっている事例もあります(役割や価値づけが社会に浸透せずにいる感じはします)。この外部性の代表格が家事・育児・教育として家庭が担っている「労働者としての人の生存と育成」であり、その負担があまりに家庭に寄り過ぎた結果としての先進国の少子高齢化という部分も大きいのではないかと個人的には感じています。そういう意味で、この商店街や自治体が担っていた公益機能がコンビニの方へと漏れ始めているという現状と、少子高齢化という現状というのは、似たようなところに根があるのではないか?と感じています。
共的資源に関しての研究でノーベル経済学賞を受賞しているエリノア・オストロムは「コモンズのガバナンス」にて、共的資源/コモンズは私的財と公共財とのそれぞれの側面を併せ持っているということを述べています。オストロムの研究したコモンズは漁場や山林や地下水、田んぼの水といった自然資源を管理する上で、政府・行政が中央集権的に管理するでも、個人が私的所有物としてそれぞれに管理するのでもない、第三の選択肢として、その中間に位置する規模の集団が試行錯誤しながら自ら構築し続ける管理制度(ルール)によって持続的に利用されてきたもので、その特質を経済学の観点から明らかにしています。オストロムは商店街やまちづくりのような領域に触れてはいませんが、商店街の経済的活動と公益的な活動の両方が絡み合う姿は、共的資源/コモンズの有様に似た部分があるように感じます。オストロムは共的資源を管理・運営していく制度を構築していく上で大事なことの一つに、共有された価値観、の存在を挙げています。

商店街 の成立 と 都市部への人口の流入、地縁にもとづく所縁型組織

自治体と商店街が重なりあった存在であるということからも推測ができるように、自治体や商店街はその土地・地域の地縁にもとづいて組織された「所縁型」組織として、 ディベロッパー の「目的型」組織と区別されます。悪く言うと、たまたまその地域に居合わせただけの存在であるために、共通の目標に向かって合意形成を図ることが難しいという特徴を持っています。タウンマネージャー や まちづくりコンサルタント はこの難しい合意形成を図る生業としていますが、その役割が愛媛県内、松山市のような地方では上手く価値化されていないのが現状と言えるように思います。このあたりも施主に当たる自治体や商店街組合が、その特徴として、新しいことへの価値づけ・予算づけの合意形成が難しいという側面があるところも見逃してはならない部分に感じます。しかし、そのように言われる「所縁型」組織の商店街も戦前・戦後高度成長期は団結してものごとに当たっていたと言われます。こういった状況はガスコンロでお湯に火をかけたとき(外部からの豊富なエネルギーがあるとき)には水が自然にぐるぐるとかき混ざる対流構造が生まれる、火を消すと(供給がなくなると)構造が消えてなくなる様子や、原始の生命が環境の力を借りて構造を獲得して複雑化していく流れと似ていると思います。そうした観点で見ると、構造を明確に持った目的型組織の方が高等生物という感じがしますが、一方でコロナウィルスもそうでしたが生命とも何とも言えない下等生物?に怯えるわけですから、高低という表現に騙されずに、そうした構造や目的の有無や強弱が、そこで行われる活動にどのような影響を及ぼすのか?を考えることが大事な気がします。

こうした所縁型組織の課題は、商店街に限られたものではありません。農地が主体の郊外や里山もそうですし、過疎化が進む中山間部の多くの自治体も、目的を定めて組織化することをしない、もしくはその体力がない、地域がたくさんあるのではないかと思います。それに対して都市部は目的を定めて組織化をしないと生き残れない環境になっていますから、環境が全然違います。こうした二つのタイプの組織の違いは日本に限った話しではないことはアメリカの大統領選挙などのはなしを見るだけでわかります、先進国全体で共通するテーマだと言えるのでしょう。
政治学者エリック・カウフマンの著書「WHITESHIFT-白人がマイノリティになる日」ではそうした地縁に基づく所縁型組織(本では保守派)と目的型組織(本ではリベラル派)の対立と、少子化と移民受け入れによる各国の「建国集団」が少数派/マイノリティになっていく社会のありようをまとめています。アメリカやヨーロッパと違いアジアは地理的要因や伝統的な文化的・言語的要因、経済発展の歴史的要因によって、アジアは移民の問題が現在大きな問題になっていないので、意識しづらいですが、本の中で書かれる建国集団である白人の移民に対する反応(生まれや宗教や文化的な違いを評価にする地域意識の高い保守派と平等のもとの能力・能力によってもたらされた経歴を評価する国際意識の高いリベラル派)と 地方で生まれ育った人たちの移住者に対する反応は、かなり似通った部分があると思います。私たちは少なからず自分たちの来歴を説明するために、選択的忘却と記憶によって、自分たちの来歴を説明するのに必要な情報をふるい分け、感覚による認識を単純化して統合しやすいように情報操作します。そうするなかで、過去そして現在に自分たちの地域にやってきた多数の移民・移住者のことを無視しがちです。そのため現在のアメリカやイギリスやドイツのようなリベラルが高いコスモポリタニズム意識を持っている場合、移民が政治の焦点となる事態が生じてきます。世界で都市部に人口が集中する傾向が続くなか、リベラルな人ほど都市部に引きつけられていると考えられます。そうした傾向が続くと相対的にリベラルな人が流出して残った相対的に保守的な人が地方に残ることで、地方と都市部の溝が時間の経過とともに広がっていきます。文化や地理・地政学的違いから可能性は低いと言われていますが欧米のポピュリストによる事態は日本においても訪れる可能性がないわけではない、ということだと思います。地方では現状でも何十年も住んでいても、他の地域から移住してきた人はよそ者扱いされる地域もありますから、その立場が逆転しようとするとき(人口減少によって多数派が少数派になるとき)、移住者と地元住民のトラブルのニュースはそういった状況の一端であり、日本人同士のあいだも含め、似たような状況が今後、発生するのかもしれないと思うのです。
また本の中でなされる貧困層の白人と移民の違いのなかで、コミュニティによるセーフティーネットの有無が挙げられています。移民たちはそれぞれの出身地や宗教などに応じた所縁型組織を形成して、セーフティーネットを張り、助け合うのに対して、労働者階級の貧困層の白人はそうしたコミュニティによるセーフティーネットが存在しないもしくは薄いということが指摘されています。こうしたセーフティーネットも都市コミュニティがもつコモンズとしての資源の一つと考えられると思います。こうしたコモンズへのアクセス権のあるグループとないグループ、もしくはコモンズが豊かなグループと貧弱なグループでの資源管理の仕方の違いとも捉えられるように思います。
先日、事務所にトルコからインターン生を受け入れましたが、住民として海外からの目で見たときの日本の地方都市のハードル・障壁は移住者のそれをさらに高くしたものだと(受け入れる社会構造にほとんどなっていない)、仕事終わりの世間話から彼の日本での日常聞いているなかで実感しました。

日本の小売・流通の原型をつくった江戸時代

一般に日本の小売・流通は欧米に比べて製造者から消費者までの距離が長いと言われています。この長いというのは、その間に入る問屋さんなどが多い、ということを意味しています。この原因の一つとして、地域間の好みの差が大きい、ということが挙げられています。この好みの多様さが商品の集中化を妨げてスケールメリットが落ち、結果として、欧米などで見られる大型スーパーのような業態を全国展開で成立させることが難しくなり、多様な好みに精通している各地域の問屋さんたちの存在意義が継続し続けることになります。日本に住んでいると全くわからないですが、個人経営の小規模小売店が全国各地にこれだけ存続できているのは日本の大きな特徴だそうです(他に近いのが台湾や韓国)。商店街の成立、そして戦後からの食品スーパーの種類の多さやコンビニという仕組みもまた、こうした多様な好みをもつ日本の消費文化が創り出したものです。

江戸時代にではなにがあったのか?ということを見ていくと、そこにあったのは地方の藩ごとでの自給体制の確立を目指していました。藩ごとに自分のところで自分たちの暮らしに必要なものを基本は全部賄うものとして計画を立てていきますから、藩ごとであるもの、ないもの、共通するもの、しないものが出てきます。足らないものは、その土地に在るもので補いますから、少しずつ違いが強化されていきます。
ただ伝統工芸品をはじめとした手工業品、美術品、軍需品などは江戸・大阪・京都がやはり生産力で大きな力があり、全国的に大きな偏りがあったので、そうした奢侈品や貴重品は自国内で必ずしも生産行わず、江戸・大阪・京都から仕入れるというのが江戸時代の前期のころは一般的だったようです。しかし、そうしたものも無料でもらえるわけではありませんから、そのための資金が必要です。その資金づくりのために当時はお米が貨幣のような働きをしていましたから、米どころは米をそうした巨大市場へ供給し、米作りに不向きな藩は換金作物や換金用の商品を開発して、資金作りを目指していきます。こうした流れもまた藩ごとの特色を生み出すエンジンとなっていきます。

そうした動きが江戸後期になってくると、人口も増えて消費も生産も伸びて、技術も伸びていきますから、より活発になっていきます。江戸・大阪・京都が中心であることには変わりませんが、藩と藩ごとの交易がおこなわれる地方市場が重要な役割を果たしていきます。こうして流通が活発となってくることで需要と供給を結ぶための組織化が全国的に行われていきます。こうして全国的な需要と供給の情報を捉える問屋、その問屋へ商品を集める・問屋から商品を配る仲買が大きな役割を果たすようになり、生産者→仲買→問屋→仲買→小売→消費者という多段階に専門化されるように、産地、集散地、消費地を結ぶ流通が整備されていきました。このように江戸時代の自給体制をベースとした藩の経済体制をベースにした、全国的なつながりが、今日まで続いていると言うことになります。

1950年代の地域不燃化、1960年代のハード面整備、1980年代の社会的有効性

昭和の商店街としてイメージされるモルタル塗りの木造建築は、闇市の木造密集建築群に対しての不燃化からはじまります。1952年の耐火建築促進法、1961年の防災建築街区造成法と都市の不燃化を目指した政策が行われ、都市の防火建築帯(延焼を食い止める防火帯)として商店街が選ばれたのでした。そして1963年に中小企業基本法が成立し、中小企業の近代化を目指す政策が行われて、最近は少し消え始めているアーケードをはじめとした商店街の通りに対してのハード面の取組みが補助金投下とともになされていきました。こうした上り調子の時期は所縁型組織はその恩恵を受けようとまとまりをもって活動をしていたと言われます、共同の販促事業として商店街連合での売り出し・共同宣伝広告、特売日の設定、サービス券の交付などが主に行われていました。但し、共同仕入や共同配達といったよりお互いの事業・経営に深く関わる取組みの実施件数はあまり大きくなかったようです。このあたりは後ほど触れる目的型組織のショッピングモールのような形態との組織としての大きな違いであり、経済活動上の弱点であり、個々の商店の自由度の高さという強みを良く表している部分だと感じます。同時に個々の事業主の経営上の自由度を確保しながら、最低限の関係性・構造をもった自由度優先の組織として運営されているというポジティブな見方も出来ると思います。当然、企業・組織に対して経営活動の規模は小さいものにしかなりませんが、それで十分と感じられる事業者には魅力的な環境なのかもしれません。

全国商店街実態調査分析-1970年/経営合理化事業

(グラフ:日本流通史 著:満薗勇 p.237 図17-2 商店街で実施している共同事業(経営関係、1970年)より作成)

1960-70年代の個人商店の勢いは当時の消費支出の構成比にも明確に表れています。かつての商店街の活気を!という言葉を度々耳にしますが、この構成比を再び取り戻すということを考えると、どれだけのシェアを確保するための競争をしなくてはならないのか?と驚きます。もちろん、今と当時の人口は違いますし、一人当たりの消費も違います。但し、「2100年代は1970年代の松山市の街の姿? 人口統計から見ていく まちの過去、現在、未来」で書きましたが、少子化の流れで当時の人口に近づく日も近いことは気に留めておくべきことのように思います。

(グラフ:日本流通史 著:満薗勇 p.231 表16-7 購入先別にみた消費支出の構成比 より作成)

スーパーマーケットの登場・小売/消費の近代化と 商店街 の立ち位置の変化

1965年の東京商工会議所が作成した個人商店とスーパーに対しての印象のアンケート調査をみると、安くて品揃えが豊富なスーパーに対して、信用(信頼関係)があってサービスが良い個人商店という違いが見えてきます。これは現在でも同じような答えが出てくるのではないかと思います。この当時はこの違いの結果、一般小売店の方がスーパーよりも選択される機会が多かったということなのです。それが70年代、80年代を経て変わっていくことで、小売店よりもスーパーが選ばれるようになっていきます。それは消費者自身も信用を重視する所縁型の組織の一員から、能力を重視する目的型の組織の一員へと鞍替えをはじめていったと言えるのかもしれません。

1973年のオイルショックと高度成長期の終焉、そして日本の黄金期の1980年代はそれまでの生活のかたちが本格的に転換していく時代で消費社会の加速がさらに進みます。商店街や個人商店は1980年代初頭までスーパーと対等に渡り合っていたと言います。確かに私は1983年生まれですが、幼少期に母親が近くの八百屋に買い物に歩いて行っていたことを記憶してますし、気が付くとちょっと遠いスーパーへ自転車で買い物に出かけるようになっていたことを記憶しています。

消費者の意識変化だけでなく、60年代から80年代までのあいだにスーパーのチェーン店として需要の大きい商品を一括で仕入れてスケールメリットを生かす流通の仕組みが整っていったこと、そして食品スーパーの生鮮食品を扱うための技術革新が大きく進んだことも変化を考える上で大事なことだと思います。但し食品スーパーは日本の地域ごとの味の趣向の違いと鮮度への高い要求からの日持ちのリスクによってスケールメリットが働かせずらく、地域性が強く、大企業への集中度が低い構造的特徴を持ち続けています。地域の多様性の高さという日本の文化的特徴がこういったところにも効いてきているようです。また鮮度と味と地域いう日本人の食品に対する大きなテーマが見えてきます。
このように60年代から80年代は個人商店と大規模店舗のあいだの役割が明確に分化していった時代だったと言えると思います。このことはメーカー/製造業企業と大規模店舗とのあいだのパワーバランスの変化でもありました。メーカーが作り出していた優良店制度などで囲い込んでいた町の小売店を末端とした流通網がスーパーをはじめとした大規模店舗の販売力によって崩されていった時代でした。これはや90年代の本格的な車社会化や2000年の大規模店舗法の廃止によってさらに加速していきます。

1965消費者からみた商店の印象/個人商店とスーパーの比較

(グラフ:日本流通史 著:満薗勇 p.232 表16-8 消費者からみた商店に対する印象 1965年 より作成)

このように近代化された小売業のかたちとしてスーパーマーケットが台頭し始める1970年代を経て、1980年代は「経済合理性」のスーパーマーケットに対して商店街の「社会的有効性」が言われるようになります。現在コンビニへ押し付けられている役割は、80年代には明確な輪郭を帯びてきていたと言えるのかもしれません。
80年代、そして家庭の自動車保有率が80%を超えて車社会化が定着した90年代はバブルの崩壊もそうですがアメリカからの小売の近代化への圧力が強まり、規制緩和による近代化が進められ、「経済合理性」に対応できなかった商店街がさらなる衰退をはじめる時代でした。この「経済合理性」と「社会的有効性」は自由主義と福祉主義、市場と外部性、経済性と公益性など、さまざまな言葉でさまざまな分野で言い換えられながら使われる言葉であり、片方に寄り過ぎると、もう片方が引っ張ることでバランスを取る関係にあります。ですので人口増加時代に行われたことと、人口減少時代に行うべきことは別ですが、反面教師的に見習うべき部分があるように思えます。

コンビニエンスストアの登場

90年代から2000年代にかけてコンビニエンスストアが拡大が進展をしていきます。70年代にまだ残っていた大店舗法によって出店を阻まれていた地域へのアクセス手段としてコンビニエンスストアという小型店舗の多店舗展開というかたちは総合スーパー各社が事業展開をはじめていきます。1973年西友がファミリーマートを、1974年にイトーヨーカ堂がセブンイレブンを、1975年にダイエーがローソンを開店していきます。この頃は総合スーパー以外にも地域の中小の小売店・問屋から出発したコンビニがたくさんありました。例えば北海道のセイコーマートが酒屋問屋の丸ヨ西尾がそうです。フランチャイズ方式によって多店舗展開を実現していきました。

このフランチャイズ方式を支えたのが小売業の情報化でした。こうしてスーパーマーケットという大規模店舗からだけでなく、コンビニという小規模店舗からもシェアを奪われて、商店街が衰退をしていきます。商店街という場所を現在考える上で、それぞれの業態の特性を改めて考えてあげる必要があるように感じます。

コンビニがもっている多頻度小口配送を実現する配送システムとドミナント戦略と呼ばれる面としてエリアをカバーする地域集中出店方式は、最初に挙げた公益的機能を広域でカバーするのに適したインターフェイスとなりました。現在、公益的機能に対して、かつての商店街からコンビニへ移っている理由の背景には、情報の吸い上げからその処理、そして結果の実行までの一連のシステムや構造上の特性があることを理解することは大事に思います。(コンビニの情報技術を活用した小回りの利くシステムを見ていると、大手ハウスメーカーがスーパーや百貨店なら、中規模地場ハウスメーカーが目指しているスタイルがコンビニと類似するのがよくわかる気がします。)それと同時にそうしたシステムの一部として役割を引き受けている店舗の店主さんたちは必ずしも、公益的役割を担いたいために出店・営業をしているわけではないというギャップがそこに存在していることを、しっかりと理解すべきだと感じます。

(日本流通史 著:満薗勇 p.291 図20-4 セブンイレブン・ジャパンの情報・物流ネットワーク より作成)

コンセプトを定めた目的型のまちづくりとしてのショッピングセンター

90年代の車社会化、そして大規模店舗法の廃止を受けて拡大をしたのはコンビニだけでなく、家電や洋服の青山、ユニクロなどの衣料品、ドラッグストアといった専門量販店、そしてそれらが集う郊外ショッピングセンターもそうでした。商店街との対比で説明した通り、ショッピングセンターは経済計画性を考慮した目的型の組織です。ショッピングセンターは商圏規模に応じて以下の4つのフォーマットを最適配置するように出展計画がなされているそうです。

商圏人口5万人の生活必需品中心のネイバーフッド・ショッピングセンター
商圏人口10万~20万人の大型店と専門店で構成するコミュニティ・ショッピングセンター
商圏人口30万人以上のカテゴリーキラー専門量販店を集積させたパワーセンター
商圏人口40万人以上の2つ以上の大型店を100店舗以上の専門店モールで結ぶリージョナル・ショッピングセンター

こうした計画性のなかで特に商店街のような所縁型組織に見られにくい要素がテナント出展・営業のコントロールの部分ではないでしょうか。ショッピングセンターではディベロッパーがそうしたコントロールの権限を持ち、キーテナントが集客をしてくれる分 賃料を安く歩率を低く、一般テナントにはキーテナントが集客してくれる分 賃料は高く、歩率も高く設定し、ディベロッパー、キーテナント、一般テナントの共存共栄を目指します。
ディベロッパーの方の話を伺うと、キーテナントの誘致やテナントのセレクトにはかなり気を使うようです。センター全体への集客へ大きな影響を及ぼすので、色々な交渉が行われているみたいです。またセンターのテナントの新陳代謝、商品の新陳代謝も重要なコントロール要素になっています。売り上げをディベロッパー側が正確に把握できるシステムを敷いて、管理できる体制がショッピングセンター全体の質の担保につながります。逆の見方をするとテナント側はかなり強い管理体制下に身を置くことになります。

まちづくりコンサルのなかで、常に課題に挙がるのが、こうした経済性をどのように確保するのか?という部分ではないでしょうか?同時に経済性を追求し過ぎるととディベロッパーとの違いがどこにあるのか?わからなくなります。また商業機能がない、または衰退してしまっている地域では、ショッピングモールがまちおこしとなる救世主として捉えられ、その点でもまちづくりコンサルとディベロッパーの違いは曖昧になる点が多いように思います。
そのように考えたときに、先ほどのショッピングモールの4つのフォーマットに該当しないニッチなエリアがまちづくりコンサルの担うエリアだと言えると思います。そしてそのようなニッチなエリアの情報に精通しつつ、都市部含め他の地域のテナント情報を持っている・パイプがあるという特殊な能力が、この立場には求められると言えるように思います。

階層化していく商圏 シャッター通り化した 商店街 は住宅地へと進むべきなのか?

このように商店街にあるような個人商店からコンビニからスーパー、百貨店、大型専門量販店、ショッピングセンターまでの規模の大小から一般性/専門性の深度の多様さまで、それぞれの領域に対して最適化していく各業態とシステムがあり、その均衡によって生まれている構造が他の社会的要因とも絡まり合っているというのが、小売業の全体像であり、そのなかで地域社会・自治体のような組織とそれぞれの規模や業態に応じたかたちで接点を持っています。商店街を見ていると衰退が著しいと感じる個人商店ですが、欧米に比較して、こうした個人商店の数が圧倒的に多いというのは日本の小売りの特徴となっています。

後ろには企業があり組織のルール・マニュアルに従った行動を取りますが、実際に消費者と接しているのは企業の労働者であり/各地域で生きる生活者です。かつて商店街が持っていた優位性は経済性だけでなく、社会的有効性についても解体され分散していると言えるでしょう。そうだからこそ、企業の労働者と地域の生活者が一人の人間のなかに同居しているということを、そしてそのことを通して企業の倫理と地域の倫理の共存とはなにか?を地域と企業が対立するのではなく、共存するかたちを考えていく必要があると思います。そのためには商店街は自分たちのまちのアイデンティティ/来歴を改めて組み直していく必要があると思います。特に自力で立ち上がることが困難で、外の力を必要としている場所はそうだと感じます。

商店街はかつての栄光や、今の挫折に溺れすぎているように感じます。栄光の時代は今から考えると条件が恵まれすぎていたわけであり、その条件が時代と共に変化してしまったことを、すでに一般商業的最適地ではなくなったことを認識した上で、あくまで商業集積地として勝負するのか?それとも周囲と同じような住宅地へと還っていくのか?また別の道を選ぶのか?まちの構造/町割りはそう簡単には消えずに、過去の記憶を保存し続けます。それはかつての海であったり、池であったり、田んぼであったり、川であったり、そして旧道のような道もそうです、商店街もまたそのような過去の記憶として町のなかに保存/保蔵されてゆく存在となるのか?全国の商店街がかつての栄光の時代を生きた方々がすでに80代90代を迎え、新しい局面に差し掛かっていると思います。これは農地が農家の高齢化を迎え若年層の農業離れによる継承者不在の中、今後の農地の所有管理をどうしていくのか?大きな課題を突き付けられている現状と被ります。農地の方は政策面から各農地の継承の方向性を決定することが求められるようになっていますが、建築物に関してはまだそういった状況にはありません。流動化させることがすべて善とは思いませんが、継承の問題を考えたとき、病気の予防や早期発見ではないですが早い解決策の実行が求められます。人が高齢化しているように、建物もまちも高齢化しているのですから。

歩行者優先の街区形成という特徴であったり、商店街特有の都市構造というのがあります。同時にそれが地方における車社会化への障害となってきました。過去の遺物となった場所ではそうした特権制度を解除することも可能だと思います。同時に所縁型組織においては一度解除したものを改めて設定し直すことは非常に難しいであろうことを良く理解しておく必要があると思います。どういう町にしていきたいのか?という方向性を定めて、扱うべき問題と感じます。

そして改めてなぜコンビニが現在、社会インフラとして利用されるに至っているのか?ということは認識すべきことに思います。それを可能にする情報網・配送網をはじめとした具体的なインフラ・システムが存在していること、そしてそれを具体的にオペレートできるソフトやマニュアルが構築されていること、それらを継続できる経済的体力があること。欧米型の太くて短い流通が正義と思われたなかで、多店舗分散型の細かい情報伝達システムによる調整で成立させた、世界へ輸出される現代の日本型の流通システムなのです。もちろんすべてが完璧なシステムではないでしょう、コンビニ店主の過酷な労働環境、食品廃棄問題をはじめ改善していくべき点も多いでしょう、しかしなぜ日本でコンビニが生まれたのか?ということを知ることは、日本の小売の特性並びに、日本の多様な文化の特性を知る、一つの足掛かりとなることは間違いないでしょう。

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