地方の 商店街 とはなにものか? the perspective of Japanese distribution
今、コンビニに社会インフラとしての役割が求められているということは?
満薗勇 氏による「日本流通史」、「商店街はいま必要なのか「日本型流通」の近現代史」によると、20世紀の日本の流通の歴史を見ていく上で 商店街 が非常に重要な役目を果たしていたことが指摘されています。そしてどの地方都市に行ってもよく見られるのだと思いますが、シャッター通り化した現在の姿になっていった過程のなかで、商店街が担っていたものがどのように他へ移っていき、またなにが商店街に残ったままになっているのか?という整理は重要な視点のように思えます。
例えば昨今のコンビニに対しての公衆トイレとしての機能、防災施設的な役割などの社会インフラとしての位置づけがなされていたりします。この手の地域課題を解決するための公益的機能は一昔までは、まさに商店街が果たしていた、もしくは果たすことが望まれていた部分が大きかったのではないでしょうか?
それは商店街が職住一体の家族経営の小規模商店の集積によって形成されていて、自治会のような組織と商店街組合が重なり合った関係にあり、経済的な主体と地域コミュニティの核としての主体が一つの枠のなかに共存していたことが大きいと思います。
それが現在コンビニへ求められる社会的要望があるのは、戦後の経済成長と流通の様々な改革や規制緩和のなかでスーパーやショッピングモールの登場によってシャッター通り化し、店舗機能が衰退していった先で、各事業者の高齢化や事業継承の断絶もあり地域コミュニティの核として機能も果たす力がなくなってきたことが背景にあると言えると思います。
地域コミュニティの核の不在 経済合理性と少子高齢化
この現在、コンビニに押し付けられている公益的機能は、経済学で「外部性」と呼ばれてきた市場経済取引のなかで価格に転嫁されずに社会側に押し付けてきたものが、行き場を失ってコンビニへ、かつコンビニ本部ではなく、各地域のコンビニオーナーへ押し付けられている、というのが正しい見方ではないでしょうか。
こうした外部性は大手ディベロッパーが行う大規模ショッピングモールを核とした複合開発などでは、店舗や住居の賃料のなかに入れ込むことで市場のなかに入れ込むことで処理をしたり、各自治体が補助金やボランティア活動などを使いながら行政と連携して福祉事業として解決している事例も多いと思います。
また事例は少ない気がしますがまちづくりコンサルのような専門職の方が自治体の方たちに雇われて解決に当たっている事例もあります(役割や価値づけが社会に浸透せずにいる感じはします)。
この外部性の代表格が家事・育児・教育として家庭が担っている「労働者としての人の生存と育成」であり、その負担があまりに家庭に寄り過ぎた結果としての先進国の少子高齢化という部分も大きいのではないかと個人的には感じています。そういう意味で、この商店街や自治体が担っていた公益機能がコンビニの方へと漏れ始めているという現状と、少子高齢化という現状というのは、似たようなところに根があるのではないか?と感じています。
地域資源の活用と共有された価値観
共的資源に関しての研究でノーベル経済学賞を受賞しているエリノア・オストロムは「コモンズのガバナンス」にて、共的資源/コモンズは私的財と公共財とのそれぞれの側面を併せ持っているということを述べています。
オストロムの研究したコモンズは漁場や山林や地下水、田んぼの水といった自然資源を管理する上で、政府・行政が中央集権的に管理するでも、個人が私的所有物としてそれぞれに管理するのでもない、第三の選択肢として、その中間に位置する規模の集団が試行錯誤しながら自ら構築し続ける管理制度(ルール)によって持続的に利用されてきたもので、その特質を経済学の観点から明らかにしています。
オストロムは商店街やまちづくりのような領域に触れてはいませんが、商店街の経済的活動と公益的な活動の両方が絡み合う姿は、共的資源/コモンズの有様に似た部分があるように感じます。オストロムは共的資源を管理・運営していく制度を構築していく上で大事なことの一つに、共有された価値観、の存在を挙げています。
商店街 の成立 と 都市部への人口の流入、地縁にもとづく所縁型組織
目的型組織 と 所縁型組織
自治体と商店街が重なりあった存在であるということからも推測ができるように、自治体や商店街はその土地・地域の地縁にもとづいて組織された「所縁型」組織として、 ディベロッパー の「目的型」組織と区別されます。悪く言うと、たまたまその地域に居合わせただけの存在であるために、共通の目標に向かって合意形成を図ることが難しいという特徴を持っています。
タウンマネージャー や まちづくりコンサルタント はこの難しい合意形成を図る生業としていますが、その役割が愛媛県内、松山市のような地方では上手く価値化されていないのが現状と言えるように思います。このあたりも施主に当たる自治体や商店街組合が、その特徴として、新しいことへの価値づけ・予算づけの合意形成が難しいという側面があるところも見逃してはならない部分に感じます。
しかし、そのように言われる「所縁型」組織の商店街も戦前・戦後高度成長期は団結してものごとに当たっていたと言われます。こういった状況はガスコンロでお湯に火をかけたとき(外部からの豊富なエネルギーがあるとき)には水が自然にぐるぐるとかき混ざる対流構造が生まれる、火を消すと(供給がなくなると)構造が消えてなくなる様子や、原始の生命が環境の力を借りて構造を獲得して複雑化していく流れと似ていると思います。
そうした観点で見ると、構造を明確に持った目的型組織の方が高等生物という感じがしますが、一方でコロナウィルスもそうでしたが生命とも何とも言えない下等生物?に怯えるわけですから、高低という表現に騙されずに、そうした構造や目的の有無や強弱が、そこで行われる活動にどのような影響を及ぼすのか?を考えることが大事な気がします。
目的型組織と所縁型組織のあいだの対立
こうした所縁型組織の課題は、商店街に限られたものではありません。農地が主体の郊外や里山もそうですし、過疎化が進む中山間部の多くの自治体も、目的を定めて組織化することをしない、もしくはその体力がない、地域がたくさんあるのではないかと思います。
それに対して都市部は目的を定めて組織化をしないと生き残れない環境になっていますから、環境が全然違います。こうした二つのタイプの組織の違いは日本に限った話しではないことはアメリカの大統領選挙などのはなしを見るだけでわかります、先進国全体で共通するテーマだと言えるのでしょう。
地域の来歴を知るもの が 少数になると言うこと
政治学者エリック・カウフマンの著書「WHITESHIFT-白人がマイノリティになる日」ではそうした地縁に基づく所縁型組織(本では保守派)と目的型組織(本ではリベラル派)の対立と、少子化と移民受け入れによる各国の「建国集団」が少数派/マイノリティになっていく社会のありようをまとめています。
アメリカやヨーロッパと違いアジアは地理的要因や伝統的な文化的・言語的要因、経済発展の歴史的要因によって、アジアは移民の問題が現在大きな問題になっていないので、意識しづらいですが、本の中で書かれる建国集団である白人の移民に対する反応(生まれや宗教や文化的な違いを評価にする地域意識の高い保守派と平等のもとの能力・能力によってもたらされた経歴を評価する国際意識の高いリベラル派)と 地方で生まれ育った人たちの移住者に対する反応は、かなり似通った部分があると思います。
私たちは少なからず自分たちの来歴を説明するために、選択的忘却と記憶によって、自分たちの来歴を説明するのに必要な情報をふるい分け、感覚による認識を単純化して統合しやすいように情報操作します。
そうするなかで、過去そして現在に自分たちの地域にやってきた多数の移民・移住者のことを無視しがちです。そのため現在のアメリカやイギリスやドイツのようなリベラルが高いコスモポリタニズム意識を持っている場合、移民が政治の焦点となる事態が生じてきます。世界で都市部に人口が集中する傾向が続くなか、リベラルな人ほど都市部に引きつけられていると考えられます。
そうした傾向が続くと相対的にリベラルな人が流出して残った相対的に保守的な人が地方に残ることで、地方と都市部の溝が時間の経過とともに広がっていきます。文化や地理・地政学的違いから可能性は低いと言われていますが欧米のポピュリストによる事態は日本においても訪れる可能性がないわけではない、ということだと思います。
地方では現状でも何十年も住んでいても、他の地域から移住してきた人はよそ者扱いされる地域もありますから、その立場が逆転しようとするとき(人口減少によって多数派が少数派になるとき)、移住者と地元住民のトラブルのニュースはそういった状況の一端であり、日本人同士のあいだも含め、似たような状況が今後、発生するのかもしれないと思うのです。
目的型志向が見失いがちなコミュニティのセーフティーネット
また本の中でなされる貧困層の白人と移民の違いのなかで、コミュニティによるセーフティーネットの有無が挙げられています。
移民たちはそれぞれの出身地や宗教などに応じた所縁型組織を形成して、セーフティーネットを張り、助け合うのに対して、労働者階級の貧困層の白人はそうしたコミュニティによるセーフティーネットが存在しないもしくは薄いということが指摘されています。
こうしたセーフティーネットも都市コミュニティがもつコモンズとしての資源の一つと考えられると思います。こうしたコモンズへのアクセス権のあるグループとないグループ、もしくはコモンズが豊かなグループと貧弱なグループでの資源管理の仕方の違いとも捉えられるように思います。
先日、事務所にトルコからインターン生を受け入れましたが、住民として海外からの目で見たときの日本の地方都市のハードル・障壁は移住者のそれをさらに高くしたものだと(受け入れる社会構造にほとんどなっていない)、仕事終わりの世間話から彼の日本での日常聞いているなかで実感しました。