愛媛の 山林 を知る, 木材 を使う How to sustainably use local wood in Ehime

愛媛県はみかんのイメージしかないかもしれないですが実は林業県です。ここで言う林業県の林業は建築用材としての丸太を育て、製材し、流通させる生業です。特にヒノキの 木材 の生産が強く、全国一位の生産量を誇っていた時期もあります。現在はそれよりは下がっていますが2022年で3位に入っています(令和4年木材統計より)。香川はそもそも山が少ないので林業が活発ではないですが、四国は徳島、高知も山間部が多く、温暖で降雨量が多いため木が良く育つ環境が整っています。愛媛の本格的な林業は明治以降にはじまります。育林体系を編み上げ高品質な丸太を育て上げてきた中予の山林、製紙業と結びついた東予の山林、広葉樹の薪林を中心に育ってきた南予の山林と、それぞれの地域の産業や地形の影響を受けて地域ごとで異なる発展を遂げてきました。

林業というかたちのはじまり

今日のような日本の林業の形態は実は江戸時代以降に定着化したもので、それまでは農業のように植林をして木々を育てるという考え方はなく、天然林を止め木(伐採をしない期間を持つ)をして管理をすることはしても、それ以上のことはすることはありませんでした。有名な写真家さんが、仏像や寺社建築は平安以前のものが良い、ということをおっしゃっていましたが、当時は製材や大工技術や道具が現代や江戸時代とは違ったということもありますが太い天然の丸太を豪快に使っているのが目につきます。日本の森林・林業史をまとめたアメリカ人日本史家のコンラッド・タットマンの著作によると近畿に生えていた主要な大木はその時期にほぼ全て伐り切ってしまったようで、それ以降の仏像や建築では木材をどうやって寄せ集めて一つの大きなものをつくるか?という技術を高める方向に進んでいきました。そうして省資源化の努力も江戸時代の人口増加による田畑の拡大と城下町の発展・大火には太刀打ち出来ず、その解決策の一つとして、造林・育林をするという方法が開発されて、当時発達した出版を介して造林の指南書が全国に普及していきます。(落葉や薪との関りも強かったので農書でも紹介されていたようです)

日本人はどのように森をつくってきたのか 著:コンラッド・タットマン p.18 図1:記念建造物のための木材伐採圏
引用:日本人はどのように森をつくってきたのか 著:コンラッド・タットマン p.18 図1:記念建造物のための木材伐採圏
日本人はどのように森をつくってきたのか 著:コンラッド・タットマン p.19 図2 近世末における育林技術の地域差
引用:日本人はどのように森をつくってきたのか 著:コンラッド・タットマン p.19 図2 近世末における育林技術の地域差

上浮穴地方・中予と高品質な木材を育てる林業

こうした流れは江戸期に愛媛でも部分的にははじまっていたようですが、本格的には明治のはじめに、松山市の大宝寺にいた井部栄範というお坊さんによってはじめられたとされています。吉野に近い高野山のお寺に師事していたため、吉野ですでに活発に行われていた育林による林業の存在を知っており、その環境に近い久万を林業の適地と定め、吉野から苗木を持ち込んで、山間部の経済策の意味も込めて造林に励んだようです。そうしてはじまった山林を次世代へ、そして次世代へと受け継ぎながら、複数の年代の木々が共存する複層林と呼ばれる山林のかたちを久万のなかのひとつのモデル(上浮穴地方の育林技術とその体系)として優良材、化粧丸太や無節柱材を搬出しています。こういった日本文化と密接に結びついた材はグローバルな需要があり流通するものではなく、また日本国内においても生活のなかから床の間があるような和室がなくなり、木の柱が現しとなる真壁構造の木造建築も、ミニマムでモダンなデザインを好む建築主・気密断熱を重視する国施策とそれに誘導される消費者、その要望を工務店の施工技術のばらつきのなかで実現するために大壁構造が採用されることが多くなることで、こうした化粧丸太や無節柱材が求められるシーンが少なくなっています。しかし、こうした山の職人さんたちの技術、そしてその技術が生み出してきた文化的景観を持続させることは、愛媛という地域を考える上で、現代において大事なことに思います。
木材というものが環境と強く結びついているだけでなく、その地域の文化とも強く結びついている側面を強く意識させます、木材のような材の均質性に乏しく個別性の強い素材生産の分野でグローバルな展開をするのか?ローカルな展開をするのか?を考える上でも大事なことに思います。合板や集成材はそうした木材の個別性を均質で工学的な利用を可能とした材にすることでグローバルに展開可能な商品として利用可能とする方法の一つと言えます。

上浮穴とはどのあたりまで含まれるか?と言われても愛媛の人でもなかなかイメージがしづらいのではないでしょうか。wikipedia情報で内子町小田あたりや、その南の大洲市や西予市の一部が含まれます。小田は小田深山の広葉樹主体の国有林の山林と、内子の蝋づくりへの燃料やはぜを供給していた雑木主体だったものが蝋産業の衰退後に上浮穴の育林技術によって高品質な丸太を供給する民有林の山林へと変わっていった歴史を持っています(小田地域は過去には銅山があったり、様々な山の生業が犇めいていたようで面白いです)。愛媛のなかでも他とは違う特徴を持っています。(えひめの記憶より

東予と産業と強く結びついた林業

東予の山林は産業と強く結びついていました。1960年の燃料革命前は燃料の主体は木材(薪・木炭)と石炭でした。もっと前の江戸時代はまだ本格的な石炭の利用がなされていませんでしたから産業に燃料は、ほぼ木材です。瀬戸内は古くから産業地帯として開発が進み、塩の製塩や砂糖の製糖、和紙の製紙、鉱山の製錬と産業によって山林は丸裸にされていきました。そうした傾向は明治・大正も続いていきます。燃料向けの山林と用材向けの山林では伐採のサイクルが異なります。樹木は若年の頃の方が成長速度が速く、どんどん大きくなります。また素早く大きくなる樹種と、ゆっくりと大きくなる樹種といった違い、そして多雨温暖か?少雨寒冷か?といった環境による違いも影響を与えます。また樹木の密度(単位体積当たりの重量)も燃料としての特性に影響を与えます。一般に広葉樹の方が密度が重い樹種が多く(針葉樹以外を広葉樹と呼んでいるので、実際には重いものも軽いものもあります)、密度が軽い方が素早く一気に燃え、密度が重い方が身が詰まっているので、ゆっくり、長く燃えます。そうした燃料としての特性の違いも山林の特性へと影響を与えていきます。燃料革命後の植林によって青々とした緑に覆われている現在の東予の山々は一時代前まではこのように燃料向けの山林であり、その圧力で多くの山々がはげ山になっていました。これは全国的に産業がある地域や人口圧力の高い地域では当たり前にあった状況で、こうしたはげ山だった当時の様子は林野庁のページに写真があります。(明治150年森林政策の歩み

南予と共有地としての薪炭林

宇和島の西側の鬼ヶ城山系は宇和島藩・吉田藩の藩有林だった地域であり、明治になり国有林となり樅や栂を主体とした用材や天然広葉樹林を利用した製炭業が盛んに行われた地域で1960年の燃料革命まで愛媛最大の製炭地域だったようです。天然林の伐採後はスギの植林が進みました。さらに東側の鬼北盆地以東の高知との県境である広見町や日吉村は戦後に燃料向けの山林として開発されていった地域です。こうした特性は森の国薪ステーションの取組みに引き継がれています。南予の燃料向けの民有林の多くは古くは共有林として集落で共同管理した山林を起源としたものが多く、私有化した後も共有林としての特性を人々が山林から離れる1960年代までは持っていたようです。薪林、山焼や茅場といった山林からの恵みが暮らしを支えていました。こうした日本の共有林のあり方は、コミュニティを主軸とした共有資源の管理に関する研究でノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムの著作でも紹介されています。共有地のあり方は人材も含め、循環型の自然資源を共同で管理する社会において、示唆に富んだ考えの一つだと思います。

愛媛の山と海が近いという立地条件は、道路や陸運が発達する前の時代、山からの木材の搬出を容易にし(すごく危険を伴いますが)、山と都市・産業とが結びつきやすい環境となっていたようです。そうした特性が王子造林(王子製紙の林業会社)のような大手を引き寄せる要因の一つとなっていたのでしょう。また林業労働者の多くはこの地域の気候的にも近い隣の四万十、土佐や安芸と高知の方から入ってきたようで、四国の横のつながりと愛媛の地域ごとの文化の違いの一つの特質が見えてきます。(愛媛のみかんも高知から吉田(宇和島の北側の地域)に入ってきたという歴史があります)

このように愛媛の林業と一口にいっても、地域によってその成立した歴史や地形、産業としての特性はそれぞれ個性的です。

日本の林業の世界での立ち位置

世界中の人類社会と森との長い歴史のなかで、このような植林をして山を育てるという発想を近代以前にした地域は日本の他では少なく、数少ない例としてドイツの林業が長い歴史を持って取り組んでいました。

官が主導したヨーロッパと、民が主導した日本

日本ではこうした造林・育林の活動が百姓を中心とした民間主体で行われていったことが特徴です。それに対してドイツでは行政官が主体でこうした造林・育林が行われていったようです。山は諸侯たちの狩猟の場であり、その山は林政官によっておこなわれていました。産業の発展とともに山が経営の対象となっていくに従って林政管によって持続的な投機の対象となって造林・育林が行われていきました。成長に長い年月を要した建築用材・高木林は林政官の存在を正当化する役割も果たしました。日本は先ほど書いたように百姓主体で造林・育林は進められました。その山林は諸侯の持ち物ではなく、そのほとんどが入会地・共有地であり、明確な管理者が曖昧ななか環境でした。
こうした違いは明治以降、官による統治が拡大してもなお、そのまま引き継がれているように思います。国家、その国家の後ろ盾を得ながら成長した諸国家のグローバル企業が国際的な立ち回りに強い傾向が多いのに対して、地方の中小企業はどうしても国際的な立ち回りに立ち遅れがちです。この一方で林業を持続させている造林・育林はそれぞれの地域環境に即した日々の取組みの積み重ねによってなされており、こうした現場へのアクセスは逆に国家やグローバル企業は苦手としています。こうしたスケールの異なる取組みを結びつけた上で持続的なかたちを目指してさまざまな林業地が取り組んでいます。

木と文化・文明 

ヨーロッパもまた人口増加と産業化の過程のなかで燃料や都市構造物、そして船舶で木材資源を伐り尽くしていきました。こうした木材資源の枯渇はハーフティンバーによる都市木造の木材の使い方に端的に表れています。ヨーロッパの民家の系統を北欧からドイツ都市部へ、スイスからドイツ都市部へと辿っていくと木材資源の枯渇が建築の形式にどのような影響を与えたのかが明確にわかります。日本では時代の経過のなかで一つの国の中に蓄積された木造建築の変化の過程が、ヨーロッパではより広範囲に国境を超えて散らばって蓄積されているのです。こうした違いは、国のなかの文化的差異を考える上でも重要な違いとなっています。

木材を消費していったのは都市建造物だけではありません、塩、砂糖、紙といった商品もまた燃料としての木材を膨大に消費していきました。そうした結果が塩が金と同等の価値を持っていたり、紙が金よりも1g当たりの価格が高いという状況に結びついていきます。多くの商品の大元に木材が強く関わっていたのです。これは日本もヨーロッパも似ています。そしてどの産業に結び付いていたのか?によって、どのような林業が発達するか?が変わっていきました。

近世において木材資源の枯渇への圧力が弱まるのは、燃料が木材から石炭へとシフトしたことが大きかったようです。またその間接的な影響で、船舶が木造船から鋼船へと変わったことも重要なポイントでした。化石燃料の時代になることによって、山林が守られたというのは、現在の視点から見ると皮肉な感じがしますが、近世の時代の一人当たりが使うエネルギー量(現代の先進国の1/10以下と推定されます)を以てしても、当時の人口しか山林は支えられなかったのだということを頭の隅においておく必要があると思います。同時に当時の竈は現代の薪ストーブの1/10以下の熱効率しかないことも知っておくべきだと思います。

森から生まれたサスティナブル という言葉 

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photo miyahata shuhei 久万の山林/複層林

ドイツの環境史研究の第一人者である歴史学者ヨアヒム・ラートカウはその著作「木材と文明」において、サスティナブル/sustainableという言葉が森や林業に起源をもつことを、多くの一般市民が知らないことを嘆いています。この言葉は森や林業における「用材の量の維持」という森林経営に関わる経済的な概念でした。そしてそれは人に森が関わることによって生まれる、森の新しい安定した生態系の維持を、その森からの恵みの世代を超えた維持を目的としていました。

これはドイツに限らず、日本の林業においても同じです。久万の林業家の岡新一さんのインタビューにて、このような言葉が書かれています。

「『林地は預かりものと思え』、とは、ずっと先祖から言われてきていることですね。自分自身のものと思ってしまうなと。たまたま私がこの家に生まれて、山を管理させていただくことになっているだけであって」

「若い頃は『自然と共生する』ぐらいの気持ちでしたが、だんだん歳をとって今は『自然に生かされている』という気持ちが強いです。本来、私どもが木を育てるのではないんですね。木が育つのをお手伝いさせていただくんですね。そうなるとやはり森林に関わることで、生かさせていただくということになるんではないでしょうか」

こうした特性はアメリカのような緩やかな勾配の森林環境における生産性の高い林業地においても、家族経営の小規模林業者が生き残り、流通を得意とする大規模林業者と生産を得意とする小規模林業者が共存するという林業の構造によく反映しているように思えます。林業はその土地の環境に制約される生業だと言えると思います。設備によって解決される領域以上に、土地の制約に対して人が寄り添い、その土地から恵みを手繰り寄せることが求められる領域が圧倒的に大きいのです。そうしなければ経営が最適化できずに、持続的な林業経営が成り立たせることが出来ない、そうした構造が大なり小なり世界中の林業地に存在しているということだと考えます。

こうした構造が、私たちが林業に対して、森に対して、自然との付き合い方の答えがあるのではないかと感じる、一つの要因のように思います。

瀬戸内の風景を特徴づける焼杉

沿岸部は海水からの塩害の影響で材の耐候性が損なわれやすく、金属やコンクリートではかなりデリケートに扱われます。それに比べれば木材は塩害の影響を受けにくく、優秀な素材の一つになりますが、それでも陸地よりも酸化しやすい環境は通常よりも厳しい環境であることには変わりありませんでした。そうした環境に対しての対抗策として、表面を焼き上げて炭化層をつくることで塩害による酸化反応を抑制し高い耐候性をもつ焼杉が重宝されるようになります。

古くは農民が自ら筒状に組んで、火をつけ煙突効果を利用して焼き上げていたようですが(愛媛県内でお年を召した方に聞くと子供の頃手伝わされたという話を普通に聞きます)、戦後に入ってからは全国的に工場生産を行うようになっていきます。それくらいの西日本を中心に需要が焼杉に存在した、ポピュラーな素材だったということだと言えます。

焼杉(直島)

工業化された焼杉 木材 生産のなかのスギ

現在の工場で生産される共栄木材さんの焼杉は、おもに集成材で使われるラミナーと呼ばれる板材を原材料に生産されているそうです。理由はラミナ―が板材のなかで生産量が多く、造作材と違って節などへのこだわりも少ないため玉石混淆となり価格が安いというところにあるようです。焼杉の場合も焼いてしまうので表面の節の表情の違いが目立たなくなり仕上がった時に、節の良し悪しが混ざったときの不自然さを避けることができるので、こうした材を利用することができるのです。瀬戸内で伝統的に使われてきた焼杉は共栄木材さんによって、現在では海外へと輸出もされています。

ラミナ―は大体36㎜程度の厚みがあり(集成材の層をなしている一つの層の厚さを測っていただくとわかります)、この厚さは通常の板材で使用されている12㎜や15㎜といった厚さ、それより厚い20㎜や30㎜といったものよりも厚いです。そのため流通規格に合わせるために半分くらい一度削いで、焼杉として焼き上がった時に12㎜や15㎜となるように調整して製品化されています。要するに、世の中の慣習に合わせるために、無駄な作業や資源が発生しているということになります。さらにこの削いだ分は廃棄物となっていますので山林が持っていた経済的価値も失うことになっています。こうした規格・単位が流通性を高め、木材消費を高める一方で、規格外のものが流通する機会を奪うこと、それは同時に障壁として文化を守るものでもあることは両方とも理解する必要があります。

工業的木材資源サイクルに即した分厚い焼杉

風と火と農家住宅のプロジェクトでは、建築主さん、共栄木材さん、工務店さんにご協力頂きこのラミナ―をそのまま焼くことで分厚い焼杉をつくりだし(30㎜程度の厚さになります)、建物としては厚みが増す分耐候性を高め、木材業者にとっては手間を省きながら木材資源の経済価値を最大化できるという、生産側と消費側がwin-winの関係を築くための実験的試みを行っています。当初課題として挙げられていた、厚みを増した板材と窓枠の納まりも問題なく納めることができたので、実験としては成功でした。もし通常よりも耐候性が求められる部位で焼杉を使う場合は、このラミナ―をそのまま焼く焼杉を試してみてください。

風と火と農家住宅 西立面 夕日
風と火と農家住宅 南外観 青々した田んぼと母屋
風と火と農家住宅 焼杉製造風景

木材 の部位 と 特徴

人の身体に皮膚・筋肉・骨や血管などがあるように、樹木にも色々な器官が存在します。一番外側を覆っているのが樹皮という耐候性のある層で、神社などの屋根材に使われる檜皮葺はヒノキの樹皮を使ったものです。そのすぐ内側が 細胞分裂を繰り返し成長をつづける繊管束形成層(環状分裂組織)で、鹿などが好んで食べるのがこの若くて柔らかい部分です。その内側にいわゆる白太と呼ばれる辺材部分。こちらも中心部に比べると柔らかく、耐候性に劣るので建築では構造部分や外回りに使われるのではなく、仕上げ面をつくる造作材などに使われます。そして移行材と呼ばれる辺材から心材へと変化していく部分があります。辺材から心材に変わると赤味を帯びた材に変わり、防虫効果や香りなどの成分をもつようになります。どのような成分を持つかは樹種ごとに異なり、木材の特徴に大きく影響する要素となります。この心材成分が一番濃いのが移行材の部分だと言われます。そのため木桶や木樽を作っていた頃はこの移行材部分を使ったものが最上級とされ、水を入れたり出したりしても耐候性の高く香りが高い桶や樽が作られていたそうです。移行材の内側が心材と呼ばれる樹木の芯・骨を形成する部分で、この部分の細胞は生命活動を止めているそうです。そうすることで純粋に自身の構造部材としての役目を果たして枝葉をより広く伸ばしエネルギー生産性を高めながら、生きるためのエネルギー消費を最小限に抑える工夫をしているのです。なのでこの部分が腐ると樹木としては非常に脆くなり困るため、防虫効果などをもつ成分を持つことで環境に対抗しているのです。そして中心に髄と呼ばれる柔らかい部分があり、最初の成長期の栄養貯蔵庫の役目を果たしています。

樹木の構成。中心から髄、心材、移行材、辺材、繊管束形成層、樹皮とそれぞれに役割の異なる器官が同心円状に重なる。

製材の歴史 人 と 木材 の関わり方

樹木の部位ごとに特徴があるように、製材の歴史のそれぞれの技術にも特徴があります。基本的には技術が発達すればするほど、自然特性を断ち切り、より人為的に自由に素材を扱うことが出来るようになります。
日本の製材の歴史は「打ち割り製材法」という楔を打ち込んで木の繊維方向に割るシンプルな方法からはじまります。スギやヒノキのように伸長で真っすぐな樹種の利用が多かった日本では弥生時代から鎌倉時代までの長い期間は行われていました。木の繊維を壊さずに割ることが出来るため、木のそれぞれの特性を最大限生かすことが出来ます。この時代の建築構法は製材技術がまだ未熟であったので丸太やこうした割られた木材を使った、木の特性に強く依存したものでした。
それが大鋸を使った製材方法が14世紀に中国から伝わることで、製材技術が飛躍的に高まります。これは2mほどの鋸を二人掛かりで縦挽きする方法で、木の繊維を断ち切ることで製材する方法でより自由な形状の木材を効率的に製作することが出来るようになっていきました。建築構法の分野では和室の原型となった書院建築が登場しはじめるのがこの頃です。建築の変化の背景に、こうした技術の変化もまたありました。
そして江戸時代になり植林が本格化していく19世紀には製鉄・鍛冶技術が発達し様々な鉄器が鍛冶職人によって作られて労働生産性を高めていきます。製材道具もまたその一つで前挽大鋸が普及します。これはそれまで二人掛かりで行っていた製材作業を一人で行えるようにし、江戸や大阪の町の建築を支えていきます。

弥生から鎌倉まで続いた打ち割り製材
打ち割り製材法
室町時代に中国から伝来した大鋸製材
大鋸製材法
江戸時代に普及した前大鋸製材法
前大鋸製材法

そして明治に入り日本にも機械製材の流れが入ってきます。はじめに水力を利用した製材の普及が進みます。打ち割り製材や大鋸製材もそうでしたが製材技術はどちらかというと遅れて入ってくることが多かったようで、水力を利用した機械製材はドイツでは14世紀には水力製材所の言及が見られ、16世紀にはかなり普及をしていたようです。機械化によって生まれた製材所の登場は木材をまちへ近づけ、山林の主導権をまちへと近づけていきました。そして電力の普及によって立地条件の制約が軽減され、自動車の普及とともに輸送面での制約も軽減されていきます。さらに合板や集成材の普及によって木材の持っていた自然特性の制約から解放され、工業的な知識に基づいた木材利用の道が拓け、機械製材はコンピューター制御による多品種生産を可能とする時代へと進み、現代に至ります。こうした合板や集成材の登場と機械化・コンピューター制御による製材業の工業化、似た傾向で言えば製紙業の工業化の進展とグローバルに取引される丸太の木材量の上昇は密接な関係にあり、経済の主軸が製造から流通・取引へと移るなかで、日本の商社が東南アジアの熱帯雨林で森林破壊をしたことを忘れてはならないでしょう。
そうした歴史もあってか、自然志向の人たちから集成材や合板は悪者のように扱われる傾向があるように思いますが、この工業的な知識をもって木材を扱うという意識が芽生えた先で、現在の無垢材を利用した技術や石場建てのような伝統構法を改めて採用できる環境が整っていることも理解すべきに思います。

木材 の部位の特徴 と 木取り

大鋸の普及以降、丸太からは様々なかたちで木材が切り出されていきました。こうした樹木の特性に合わせて丸太の原木から木材を製材していくことを木取りと言います。腕の良い製材所は発注されている木材に合わせて出来るだけ無駄がないように木取り図を考えます。特に日本の真壁構造の伝統建築はそうした無駄を最小限に、樹木を最大限に活用するための工夫が随所に存在します。それは前述のように江戸時代にそもそも木材が不足していて貴重な存在であり(逆に人力は溢れていたので手間はいくらでも掛けられたので)、無駄を出来るだけ省く手間を掛けることは経済面でも資源保護の面でも有効な手段となっていました。現在では様々な工業製品が溢れて、人材も色んな産業で奪い合う状況なので、江戸時代のように木材を中心に建築を考えることは簡単ではなくなっています。

木取り

背板を有効に使う

木取りのなかで丸太の弧の部分は背板・三日月と呼ばれ、角材を取ることが難しく(丁寧な製材所さんは、そこから薄い板材をしっかりと搾りだして、より小さな背板・三日月が生まれています)、最終的には割り箸の原料になったり、チップ化されて製紙やバイオマスエネルギーとして利用されています。最近は社会のなかで割り箸を使う機会も減っているので、ほとんどがチップへと向かっているようです。

炭素固定の観点から考えた場合、伐り出された丸太の出来るだけ多くの部分が、出来るだけ長く使われることが望ましいです。それはチップになり燃料として燃やされれば蓄えていた炭素はCO2/二酸化炭素として再び空気中へ還っていくことになるので、そのタイミングを先延ばしすることが固定の効率のUPにつながります。こうした視点に立ったとき、背板がバイオマスエネルギーに使われるということは、木材資源を最大限に活用するという観点から非常に大事なことですが、もしその前に少しでも長い時間、別の用途で利用できるとすれば、さらに資源活用度を高めることにつながります。

納屋 みずと木とひ のプロジェクトは、そうした木材の資源活用度の最大化への寄与を目指したいという建築主さまの想いに応えたものになります。

四面無節の柱材 を 育てる

林業のなかで特に難しいのが四面無節の柱材をつくることだと言われています。木材の節とは樹木の枝葉が成長と共に幹に吸収された結果、樹木が成長すれば自然と生まれるもので、成長の証のようなものなのです。そうした枝葉を節が出ないように丁寧に伐り落として、幹を成長させて、枝葉の跡/節を内部に閉じ込めて表面に出てこないように柱材用の樹木を育てていくことで無節の面が生まれます。この際、全ての枝葉を落とすと樹木が光合成をして栄養をつくりだすこと、水を根から吸い上げること、呼吸をすることが出来なくなるため、その樹木が育っている環境に合わせて、樹木がキレイな柱材へ成長を続けるのに必要な枝葉をその時々で見極めながら作業を行っていくのです。山の中で何百本もの大きな樹木の盆栽を毎日つくり続けるようなイメージでしょうか、非常に多くの手間がなされて、無節の柱材が生まれてきます。その作業を四面すべてで行い、意図的に作り出すのですから、本当に大変な作業です。四面無節の柱材をつくる山師の方たちは、山林で育っている樹木の一つ一つの見分け、成長過程を記憶しているというのは嘘ではないでしょう。

こうした四面無節の木材の価値を最大限に高めるための技術は育林の部分だけではありません。こうして丁寧に育てられた樹木を伐採する際の技術、その大きな丸太を山から搬出する技術、搬出された丸太を製材して風合いのある木目を丸太の中から切り出す技術、そうして製材された木材を建築の中に据え付けるための施工・設計の技術。こうした山から、それを使う街までの一貫した技術のリレーがあって、はじめて、こうした四面無節の柱材は活かすことができるのです。

伝統的な真壁構造の木造建築が主流ではなくなり、床の間も生活のなかから見なくなってきて、こうした四面無節の需要も限られたものとなり、技術のリレーの糸も僅かなものとなってきています。

表面には出てこない柱材の節
柱材の内側に節を隠す
無節の 木材 をつくるための丁寧な枝打ち

山と街をつなぐ、梺業

愛媛県内子町の武田林業さんは 伐らない林業 を掲げて、「まち・ひとと山の間である「梺」にたち、林業と人びととの接点をつくることで“林”業を“下”支えする「梺業」」をテーマにされています。そうしたまち・ひとと山の間にあるショールームの一つのかたちとして、うごくショールームを、里山・山村の脚である軽トラックを利用して製作したいというご依頼を頂きました。

うごく木のわ 軽トラックを使った木のモバイルショールーム

動くショールームを製作したいというご依頼を検討するにあたって、改めて林業、木材そして木のことを勉強し直すなかで、心材という樹木の中央部を構成する材の存在が強く意識しました。これは武田林業さんの商品のなかに赤勝ちの無節の杉板材があったこと、そしておじいさまが四面無節のヒノキの柱材を育てていた林家さんだったことに由来する「アノトキノヒノキ」というヒノキ成分を含有した消臭ミストを商品としてお持ちであったことも一つの理由です。
そして梺業として内子町内の様々な樹種の木材を扱っていらっしゃることも大事なポイントでした。内子町小田地域は上浮穴地方の四面無節の柱材をはじめとした高品質なヒノキ材を育林する技術と、広葉樹林主体の国有林の天然林を伐採していた技術が交わっている場所で

心材(赤身)はそのまわりの辺材(白太)に対して、各樹種に特有の成分を多く含んでいるという特徴があります。樹木の色の成分や香り成分、防虫成分もそうです。樹種によるそうした違いがわかるよう、樹種の特徴に従ってスギ、ヒノキ、クリ、ケヤキ、クロモジと複数の樹種を使っています。

うごく木のわ」のプロジェクトは、こうした山の人びとが育て上げた木材の自然特性を通して、山と街をつなぐお手伝いをするものです。

うごく木のわ

林業とは地域に根ざして、その地形・環境そして木々と向き合い続けることで成り立つ生業です。それゆえにどうしても閉鎖的になりやすい生業だと言えると思います。製品・商品になるために何十年と掛かるという特徴は信頼関係が非常に重要な役目を果たすので、そうした閉鎖性は地域の環境にも地域の社会にも良い塩梅の生業を持続させるための手段ともなっていました。しかし、そうした特性がグローバル化の過程で社会が商業主義の色合いが強まるなかで、流通側の力が強まり、山のことを知らない人間が山へ大きな力を持って介入するケースが増えていきました。東南アジアやアマゾンの森林破壊はそうした山林のことに無知な流通側の介入の結果でした。

日本の山林はそうした国内外の市場から見て価値の低い(容易に木々を育て搬出することができない)ものとされたがゆえに、青々とした姿を取り戻している一方で、そうした市場へとアクセスする術・主導権を持つ術を失っていっています。地域に向き合い続ける林家さんたちの想いをつなぐ、梺業や木材業の役割は今後もますます重要になっていくのでしょう。