林業を知る, 木材 を使う How to sustainably use local wood in Ehime

森林飽和 著:太田猛彦」によると、日本の山林は300-400年ぶりに青々と茂った状態になっているそうです。大きな変化となったのは1960年代に木材の輸入の自由化・燃料の石油化です。日本は東南アジアなどの木々を製紙産業のために乱開発をして生態系を崩壊させていった一方で、国内の木材は使われずに放置され続け、現在もパルプ用材・建築用材をアメリカやオーストラリアをはじめとした広々とした環境で行われる林業国からの木材に主軸がある状況には変わらずにあります。

燃料革命前まではほとんどの家庭は燃料を山林に依存していました。燃料の石油化=燃料革命は石炭や木炭に頼っていた暮らしのかたちを完全に終わらせてしまいました、その影響は里山と呼ばれている地域にまで及び、太田猛彦氏の言葉を借りれば、私たちが見ているのは「里山跡地」であって、その内実はかつての里山が持っていたものとは異なります。そのおかげで、山林の木々は伐られることなく成長を続け、現在のような青々とした状態になっているのです。わたしたちの山と里・まちの関係はこの100年程度のあいだに非常に大きく変わりました。この様変わりした関係性を正しく理解するためにも、林業について良く知る必要があると考えます。

愛媛県はみかんのイメージしかないかもしれないですが実は林業県です。ここで言う林業県の林業は建築用材としての丸太を育て、製材し、流通させる生業です。特にヒノキの 木材 の生産が強く、全国一位の生産量を誇っていた時期もあります。現在はそれよりは下がっていますが2022年で3位に入っています(令和4年木材統計より)。香川はそもそも山が少ないので林業が活発ではないですが、四国は徳島、高知も山間部が多く、温暖で降雨量が多いため木が良く育つ環境が整っています。

愛媛の本格的な林業は明治以降にはじまります。育林体系を編み上げ高品質な丸太を育て上げてきた中予の山林、製紙業と結びついた東予の山林、広葉樹の薪林を中心に育ってきた南予の山林と、それぞれの地域の産業や地形の影響を受けて地域ごとで異なる発展を遂げてきました。日本の林業の歴史を踏まえ、愛媛の林業のあり方を通して、わたしたちの山と里・まちの関係について見ていきたいと思います。

日本の林業のはじまり

今日のような日本の林業の形態は実は江戸時代以降に定着化したもので、それまでは農業のように植林をして木々を育てるという考え方はなく、天然林を止め木(伐採をしない期間を持つ)をして管理をすることはしても、それ以上のことはすることはありませんでした。有名な写真家さんが、仏像や寺社建築は平安以前のものが良い、ということをおっしゃっていましたが、当時は製材や大工技術や道具が現代や江戸時代とは違ったということもありますが太い天然の丸太を豪快に使っているのが目につきます。

著:コンラッド・タットマン 日本人は森をどのようにつくってきたか?

日本の森林・林業史をまとめたアメリカ人日本史家のコンラッド・タットマンの著作によると近畿に生えていた主要な大木はその時期にほぼ全て伐り切ってしまったようで、それ以降の仏像や建築では木材をどうやって寄せ集めて一つの大きなものをつくるか?という技術を高める方向に進んでいきました。

そうして省資源化の努力も江戸時代の人口増加による田畑の拡大と城下町の発展・大火には太刀打ち出来ず、その解決策の一つとして、造林・育林をするという方法が開発されて、当時発達した出版を介して造林の指南書が全国に普及していきます。(落葉や薪との関りも強かったので農書でも紹介されていたようです)

日本人はどのように森をつくってきたのか 著:コンラッド・タットマン p.18 図1:記念建造物のための木材伐採圏
引用:日本人はどのように森をつくってきたのか 著:コンラッド・タットマン p.18 図1:記念建造物のための木材伐採圏
日本人はどのように森をつくってきたのか 著:コンラッド・タットマン p.19 図2 近世末における育林技術の地域差
引用:日本人はどのように森をつくってきたのか 著:コンラッド・タットマン p.19 図2 近世末における育林技術の地域差

愛媛県の林業/上浮穴地方・中予と高品質な木材を育てる林業

こうした流れは江戸期に愛媛でも部分的にははじまっていたようですが、本格的には明治のはじめに、松山市の大宝寺にいた井部栄範というお坊さんによってはじめられたとされています。吉野に近い高野山のお寺に師事していたため、吉野ですでに活発に行われていた育林による林業の存在を知っており、その環境に近い久万を林業の適地と定め、吉野から苗木を持ち込んで、山間部の経済策の意味も込めて造林に励んだようです。

そうしてはじまった山林を次世代へ、そして次世代へと受け継ぎながら、複数の年代の木々が共存する複層林と呼ばれる山林のかたちを久万のなかのひとつのモデル(上浮穴地方の育林技術とその体系)として優良材、化粧丸太や無節柱材を搬出しています。

和室離れと需要の低迷 社会が支えていた山林

こういった日本文化と密接に結びついた材はグローバルな需要があり流通するものではなく、また日本国内においても生活のなかから床の間があるような和室がなくなり、木の柱が現しとなる真壁構造の木造建築も、ミニマムでモダンなデザインを好む建築主・気密断熱を重視する国施策とそれに誘導される消費者、その要望を工務店の施工技術のばらつきのなかで実現するために大壁構造が採用されることが多くなることで、こうした化粧丸太や無節柱材が求められるシーンが少なくなっています。

しかし、こうした山の職人さんたちの技術、そしてその技術が生み出してきた文化的景観を持続させることは、愛媛という地域を考える上で、現代において大事なことに思います。

木材・山林はローカルなものか?グローバルなものか?

木材というものが環境と強く結びついているだけでなく、その地域の文化とも強く結びついている側面を強く意識させます、木材のような材の均質性に乏しく個別性の強い素材生産の分野でグローバルな展開をするのか?ローカルな展開をするのか?を考える上でも大事なことに思います。合板や集成材はそうした木材の個別性を均質で工学的な利用を可能とした材にすることでグローバルに展開可能な商品として利用可能とする方法の一つと言えます。

上浮穴とはどのあたりまで含まれるか?と言われても愛媛の人でもなかなかイメージがしづらいのではないでしょうか。wikipedia情報で内子町小田あたりや、その南の大洲市や西予市の一部が含まれます。小田は小田深山の広葉樹主体の国有林の山林と、内子の蝋づくりへの燃料やはぜを供給していた雑木主体だったものが蝋産業の衰退後に上浮穴の育林技術によって高品質な丸太を供給する民有林の山林へと変わっていった歴史を持っています(小田地域は過去には銅山があったり、様々な山の生業が犇めいていたようで面白いです)。愛媛のなかでも他とは違う特徴を持っています。(えひめの記憶より

愛媛県の林業/東予と産業と強く結びついた林業

東予の山林は産業と強く結びついていました。1960年の燃料革命前は燃料の主体は木材(薪・木炭)と石炭でした。もっと前の江戸時代はまだ本格的な石炭の利用がなされていませんでしたから産業に燃料は、ほぼ木材です。瀬戸内は古くから産業地帯として開発が進み、塩の製塩や砂糖の製糖、和紙の製紙、鉱山の製錬と産業によって山林は丸裸にされていきました。そうした傾向は明治・大正も続いていきます。

建築用材向けの山林 と 燃料向けの山林という違い

燃料向けの山林と用材向けの山林では伐採のサイクルが異なります。樹木は若年の頃の方が成長速度が速く、どんどん大きくなります。また素早く大きくなる樹種と、ゆっくりと大きくなる樹種といった違い、そして多雨温暖か?少雨寒冷か?といった環境による違いも影響を与えます。また樹木の密度(単位体積当たりの重量)も燃料としての特性に影響を与えます。

一般に広葉樹の方が密度が重い樹種が多く(針葉樹以外を広葉樹と呼んでいるので、実際には重いものも軽いものもあります)、密度が軽い方が素早く一気に燃え、密度が重い方が身が詰まっているので、ゆっくり、長く燃えます。そうした燃料としての特性の違いも山林の特性へと影響を与えていきます。

燃料革命と山林の復活

燃料革命後の植林によって青々とした緑に覆われている現在の東予の山々は一時代前まではこのように燃料向けの山林であり、その圧力で多くの山々がはげ山になっていました。これは全国的に産業がある地域や人口圧力の高い地域では当たり前にあった状況で、こうしたはげ山だった当時の様子は林野庁のページに写真があります。(明治150年森林政策の歩み

愛媛県の林業/南予と共有地としての薪炭林

宇和島の西側の鬼ヶ城山系は宇和島藩・吉田藩の藩有林だった地域であり、明治になり国有林となり樅や栂を主体とした用材や天然広葉樹林を利用した製炭業が盛んに行われた地域で1960年の燃料革命まで愛媛最大の製炭地域だったようです。天然林の伐採後はスギの植林が進みました。

さらに東側の鬼北盆地以東の高知との県境である広見町や日吉村は戦後に燃料向けの山林として開発されていった地域です。こうした特性は森の国薪ステーションの取組みに引き継がれています。

集落の共有林としての山林

南予の燃料向けの民有林の多くは古くは共有林として集落で共同管理した山林を起源としたものが多く、私有化した後も共有林としての特性を人々が山林から離れる1960年代までは持っていたようです。薪林、山焼や茅場といった山林からの恵みが暮らしを支えていました。こうした日本の共有林のあり方は、コミュニティを主軸とした共有資源の管理に関する研究でノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムの著作でも紹介されています。共有地のあり方は人材も含め、循環型の自然資源を共同で管理する社会において、示唆に富んだ考えの一つだと思います。

海と山が近い急峻な地形がもたらしたもの

愛媛の山と海が近いという立地条件は、道路や陸運が発達する前の時代、山からの木材の搬出を容易にし(すごく危険を伴いますが)、山と都市・産業とが結びつきやすい環境となっていたようです。そうした特性が王子造林(王子製紙の林業会社)のような大手を引き寄せる要因の一つとなっていたのでしょう。

また林業労働者の多くはこの地域の気候的にも近い隣の四万十、土佐や安芸と高知の方から入ってきたようで、四国の横のつながりと愛媛の地域ごとの文化の違いの一つの特質が見えてきます。(愛媛のみかんも高知から吉田(宇和島の北側の地域)に入ってきたという歴史があります)

このように愛媛の林業と一口にいっても、地域によってその成立した歴史や地形、産業としての特性はそれぞれ個性的です。

1日本の林業、愛媛の林業 2日本の林業と世界の林業の類似点と相違点 3木材の部位と特徴

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