秩序と模倣すること 自然現象と生物進化とテクノロジーの関係

ものごと/現象をもう一度、再現すること。真似ること。コピー/模倣すること。

これが世界/秩序-リズムを作り出すための基本的な条件だと考える。

世界は「もの」と「もの」のあいだに関係「こと」をつくりだすことで、生まれてくる。

■物質の現象のリズム

太陽が海水を暖めて、水は水蒸気となり軽くなり上空へ向かい、冷やされて再び水となって雲となり、やがて地球の重力に耐えられなくなり、雨となって大地に降り注ぎ、川となって海へ戻る。この水循環は、蒸発して発散することなく、冷却して氷となって動かなくなることもなく、適切な熱の吸収と放散を繰り返し、水を地球へと引き付ける条件を地球と太陽の関係が作り出してくれることで、何度も同じように水が空と大地のあいだを行き来するこの現象を成立させている。

物質同士の関係性から生み出される、繰り返される現象、が秩序-リズムをつくりだす。現象と現象が重なり合うことで、新しいリズムが生みだされ拡張していく。地球の内部から供給されるエネルギー、太陽から注がれるエネルギー、そして星々からもたらされた物質たちが様々なリズムを保つことで、ここに留まり続ける。物質レベルでの現象のリズムが世界の基礎を作り出した。

■生物の活動のリズム

地球上に生物が現れることで、リズムが拡張・細分化されていく。それまで不可能だった物質の組合せ/関係性の持続が可能となる。新しい関係性の出現はそれまでの関係性にも新しい変化をもたらす。例えば植物の登場はそれまでの地球上の空気の構成を劇的に変え、防寒具のように地球を覆っていた二酸化炭素CO2濃度は劇的に減少し寒冷化を引き起こし、代わりに引火性・反応性の高い酸素O2を増やすことで生物の身体への負担を高め絶滅へと追い込み、岩石などの地質の風化を促進し、さらに光合成によって酸素と合わせて地面から吸い上げた水を放散することで、雨を降らせて水は岩石を海へと運び循環のリズムを早めた。

生物は自らの生存のために、自らの身体が、コロニーが化学工場の役割を果たし、循環のリズムを早めたり、遅くしたりして、環境を改変していった。生物の歴史もまた、化学工場の歴史であり、環境改変の歴史なのである。

■ヒトの活動のリズム

生物の中からヒトが登場すると、秩序がさらに拡張・細分化された。文化の登場はそれまでの生物とは異なり、個体ではなく、社会という協働する集団単位での行動の重要性を高めた。言語の登場はその文化の伝達に大きく貢献した。言語そのものも、その協働のための習得のしやすさ、伝達のしやすさによる淘汰圧で洗練されていった。狩猟採集、農業はそれまでに構築された物質や生物の秩序のセットに新しい関係性を付け加えていった。狩猟採集はオオカミの家畜化=イヌなどのヒトに従順な家畜という存在、そしてクリなどの食用に関わり合いの強かった樹木の栽培種の可能性を切り開き、狩りは地形や気候、火などの現象を活用し様々な種の動植物を絶滅にも追いやった。農業は家畜化や栽培種の開発をさらに押し進め、地形そのものを人為的に改変し、気候を読み、自分たちの活動と連動させることで、その関係性のバリエーションをさらに多様化させていった。

商工業・科学が発達すると、その伝達やバリエーションの多様化はさらに爆発的に増えていった。それは数が増えると関係性の数が爆発的に増えていく、という単純な理由もさることながら、物事を系統立てて整理し、見えない秩序を可視化していく術が高まっていった。

■物質/生物/社会 の三つのレベル

19Cのフランスの社会学者ガブリエル・タルドは著作「模倣の法則」のなかで、普遍的反復の三形態として、次の三つを示した。

「波動/物理的反復、生殖/遺伝的反復、模倣/社会的反復」

物理レベルの模倣(反復される波などの現象)から生物レベル(遺伝子による反復)、そして社会レベルの模倣(流行などの反復)である。反復する単位の均質性は物理レベルが高く(原子や分子とエネルギーの連携)、生物レベルはその中間に位置し(高分子の配置、細胞、器官の連携など)、社会レベルが低い(ヒト個体間の細胞や器官、精神の連携によって生まれる文化活動の連携など)。その違いが可変性の違いとなって現れる。物質の反復が一番均質であるがゆえに、一番不変性が高く、他の二つのレベルの反復の基礎をなしている。生物レベルは生殖を通して反復を行う。その進化のメカニズムの一旦を担う、突然変異の仕組みが示すように、適度なエラー/可変性そのものが重要な要素として組み込まれている。コピーエラーを許容する可変性が環境の変化によるエラーを許容する柔軟性へとつながっている。社会レベルでは、生殖という特定の機会に限られていた反復を、学習という生涯の中でかなり広い機会に反復を行うことを可能にしている。そのため、それまでにない伝達速度で内容は社会のなかを駆け巡る。その一方で学習・伝達のたびにエラーが入り込む余地を与え、さらに高い可変性を有している。文字や道具、機械などを通して、反復する内容の保存を行うことで、内容の喪失を防ぐようにしているが、生成と喪失が繰り返すことで状況を維持する特性が三つのレベルの中でより顕著に現れる。例えば、オリジナルをコピーが90%までしか再現出来なかったとすると、10世代いかないうちに半分以上の内容は失われてしまう。この劣化を食い止めるためには、オリジナルを超える絶えまぬ生成とその伝播が必要となる。そのためには相互につながりあった大きな集団が理想的だ。情報技術の発達(ソフトでもハードでも)の価値はこういう部分にあると思われる。

■模倣すること(社会的学習) と 生き残ること

ジョセフ・ヘンリックは著作「文明がヒトを進化させた」の中で、様々な事例が紹介される。その中の一つにドイツのライプツィヒにある進化人類学研究所のエスター・ヘルマンとマイケル・トマセロが、チンパンジー106匹、オラウータン32匹、ドイツ人の子供105人に行った空間認知、量概念、因果関係把握、社会的学習の四つの領域の能力を比較する実験を行った結果、ヒトの幼児と類人猿を比較した場合、幼児がずば抜けているのは社会的学習だけで、空間認知、量概念、因果関係に関する能力はほぼ同等であることが示されている。

1845年のイギリス海軍のフランクリン隊によるカナダ北極圏諸島を通って西ヨーロッパと東アジアを結ぶ北西航路の開拓の失敗の事例をあげ、社会的学習の重要性を示している。一例として、北極圏に住むイヌイットは立木を利用して、カリブー狩りに用いる反った複合弓をつくる。材料となる流木は、隊員たちが野営していた場所でも手に入ったものだったが、近代化された105人のイギリス隊員の頭には、流木の利用法を思いついた者はいなかった。その他にも、イグルー(かまくら)の作り方、北極圏で真水を得る方法、アザラシの狩り方、カヤックの作り方、サケの捕り方、防寒着の作り方など、膨大な文化的ノウハウを思いつく者はいなかった。ヒトが環境で生きていくためには社会的学習を通して、文化を身につけて、環境に適応していく必要があることが、はっきりと浮かび上がる。それは自然環境もそうであるし、社会環境においてもそうである。

イヌイットのカヤック

北極圏は社会的学習の重要性を示すドラマに尽きない。1820年代のあるとき、グリーンランド北西部で暮らすポーラーイヌイットで疫病が流行し、豊かな知識をもつ高齢者がおおぜい亡くなった。その結果、代々受け継がれてきた文化的技術が突如失われた。例えば、動物を狩るための弓矢を作れる人がいなくなった。イグルーの入口と居室とをつなぐ防寒性に優れたトンネルの作り方もわからなくなった。そしてカヤックを作れなくなったことで、他のイヌイット集団からこれらの文化的技術を学び直す機会を失った。人口が減り続けるばかりだった1862年、偶然グリーンランド沿岸を旅しているバンフィン島で暮らすイヌイットが彼らと遭遇し、再び文化とつながることが出来、バンフィン島スタイルを模倣することで、失っていた文化的技術を取り戻していった。日常生活の基盤をなす、当たり前に目の前にあった技術ですら、その技術をになっていた人々が突如いなくなると、発明の母である「必要」に迫られても、ヒトは対処が出来なくなる可能性を示唆している。

日本の地方都市での職人不足は慢性化している。もはや産業の持続性は伝統工芸の専売特許ではない。建築で言えば宮大工以外の大工さんたちが、プレカットによる機械での製材が進み、自らの手で手引きして組み立てることが出来ない人が増えてきた。高断熱化と機械換気・エアコンによる空調管理が進み、敷地条件に即した通風計画を考えられない人が増えてきた。私たちは将来に向けてなにを残していくべきかの選択を迫られている。

■テクノロジーと現象

ブライアン・アーサーは著作「テクノロジーとイノベーション」において、テクノロジーの発展が直線的に進むものではないことを指摘している。そして、無線通信がなければレーダー通信は開発されなかったかもしれないことを上げ、中間的難易度の要求を実行出来るようにならないと、複雑な要求が実行できるようにならないことを指摘している。これは生物の眼の進化がいくつものステップを得て進化していったことと似ている。同時に、生物進化が種というセットでの更新しか出来ないのに対して、テクノロジーが全く異なる別分野のテクノロジーを試すことが出来るという違いを強調させる。

彼の視点でもう一つ面白いのが、「テクノロジーは全て自然現象をヒトの目的に合わせてチューニングして利用することで成立している」、「テクノロジーはテクノロジーの組合せによって成立している」という部分である。この二つのことが示しているのは、片方でテクノロジーは自然に強く規定され依存している、と同時に、その発展・強化は非常に人為的な発想力と経済を含めた協調によって進めることが可能になっているということである。「人間は本来自然の中に存在するのであって、”信頼”しているのは自然であり、テクノロジーではないからだ。 …それでも私たちは、テクノロジーが人間の未来を守ってくれると見なして、テクノロジーに”期待”している。つまり、本当はそれほど信頼してはいないのに期待だけは寄せている。テクノロジーとイノベーション p.271」 近代を得て、自然の深部に対する知識・テクノロジーが増え、進歩はヒトの手に全てが委ねられていたかのような錯覚に陥るが、現実はそうではなく、非常に多くのことが自然に規定された範囲内での操作であり、多くを依存しているのである。専門化によってテクノロジーは益々遠い世界のように遠き、人びとの手からテクノロジーは滑り落ちていっているように感じられるが、身近にあるその自然を構成している現象の兄弟によってかたちづくられているのである。わたしたちは決して、過去に戻る必要はないと思う。しかし未来へ進むには、人びとがより正しく、自然を理解し、テクノロジーを理解する必要があるように思う。

終わりに

物質の現象/自然現象が存在しているということは、そこになにかしらの関係性が存在しているということである。関係性はものごとを、世界を構築する。循環する時間が動き出す。

生物はその循環する時間に新しい関係性、世界を付与してきた、大きな世界のなかに小さな世界が織り込まれていく。

ヒトは新しい関係性の編集の仕方を生み出した。テクノロジーは循環する時間をさらに広げたり、縮めたりしながら、複雑な織物へと仕立て上げていく力を手に入れた。しかしヒトは気をつけなければならない。その編集力によって織物がズタボロに破れて、循環の輪が千切れて発散してしまわないように。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です