内なる自然 変わらないヒトの身体と変化する人の社会

変化する人の社会

ヒトは特別な動物なのだろうか?

近代化/工業化以降、ヒトの集まりである”社会”は自然から独立した世界観を構築し、急激な自己の拡張を経験しました。他の動物にはない高度な知能をもって、さまざまな道具の発明をし、地球の資源を枯渇させようかと迫るくらいに繁栄を極めています。その一方で、その”社会”を構成する現在の”ヒト”は癌や生活習慣病やうつ病、自殺と呼ばれる肥満や糖尿、長寿、ストレス社会といったそれまでとは異なる生活スタイルから新たな問題が生じてきています。その原因の一つは、生物としての”ヒト”と社会としての”人”のあいだのギャップにあると考えます。

生物の”ヒト”は簡単には変化をしません。生物的特徴は遺伝子を通して淡々と親から子へと引き継がれてその特性は持続していきます。一方で社会はどんどん変化して、その速度を速めています。私たちは生まれてからその都度、社会的なことは、学習を通して一から身につけて学ぶ直さなければなりません。そして人の生存はその学習すべき文化に大きく依存し、社会の進歩とともにその学習すべき内容は膨大に膨らみ、専門分化されて、その全体像を把握することは難しくなっています。

われわれは身体は狩猟採集をしていた古代人のままなのに、知識・道具・環境は最先端の現代人というアンバランスな状態にあります。そしてその知識・道具・環境は生物としてのそれを大きく逸脱しています。

人類の歴史からみると、ヒトがいまのような集団で生活をするようになったのは、ほんの最近の出来事です。約20万年前に地球に最初の人類が現れて、狩猟採集をして生活していました。狩りは小規模のグループによって行われていたと推定されています。

その生活が大きく変わったのが農耕の登場です。現在の最古の農耕の遺跡は2万3千年前のものと言われています。そこからより大規模な農耕へと品種改良・技術革新を行い、紀元前5300年前にはメソポタミアにて灌漑施設による農耕が現れ、都市や国家が出現しはじめ、それまでの動くスタイルから農耕という定住スタイルが主流へとシフトしてきます。

農耕によって大量の食糧の供給が可能となることによって、それまでほぼ変わることのなかった世界の人口は急激に上昇をはじめます。食料供給の増加と非農業従事者(王族や軍人、職人など)の増加が互いを刺激し合うサイクルとなっていきます。定住によって生活を支える人口の割合が上昇を続けます。農業が始まり環境もまた大きく変わっていきます。森は切り開かれて、水路が通されて、新しい環境はそこに住まう生物種を変えいきました。農業を人類最大の自然破壊だと言う研究者もいます。生物が生きる上で少なからず環境への干渉が伴うことは認識すべきです。これは植物の登場が地球を大きく改変してしまったことからも分かる通りで、必ずしもヒトのみに適用される論点ではありません。

人類の長い歴史から見た時の農業の登場による急激な人口上昇は17世紀からはじまった科学革命・産業革命、国民国家の登場で新たな局面を迎えています。自然は恵みを届けてくれる精霊や死をもたらす悪霊のいる遠い世界から調査・計測され、探求されて分類される対象へと変わり、20Cの科学的な公衆衛生の発達によって人口は爆発的に増加をはじめます。そしてエネルギー資源とそれを消費できる社会システムが結びついた時にさらに生物としての姿を大きく逸脱したかたちへと変化してきています。

私たちが生活水準を維持するために処理すべきエネルギーは、約1万年前に集団的に都市コミュニティを形成し始めるまでの数十万年のあいだ、わずか数百Wのままでした。煮炊きを電気もガスも使わずに薪で行っている世界中の農村の数値も今なおこの程度の数値です。これが人新世の始まりで、そこから人間の代謝率は現在の先進国の3000W以上の水準まで着実に上昇してきました。しかしこれは単に地球全体の先進国の平均値に過ぎません。アメリカではほぼ4倍の11,000Wというとてつもない大きさで、これは「自然」の生物学的値の100倍以上です。これほどの電力は、質量が1000倍以上大きいシロナガスクジラの代謝率(生命維持に必要なエネルギー)にすら迫ります。

変わらないヒトの身体

ヒトをはじめ、生物のからだは、DNAと呼ばれる情報伝達ツールによって親から子へと受け継がれる設計図によってかたちづくられています。そして、その設計図はたまに生じるエラー/突然変異によってさまざまなテストが行われて、長い年月をかけて寄り良いものが集団のプールの中に残るように篩にかけられて、進化してきました。こうすることで細かい変動に対して安定した複製を可能とし、次世代へと確実に引き継いでいくことを可能にし、かつ長期的で持続的な変動に対して適応させていくことを可能にしました。

ポイントとなるのは、この長い年月をかけて、という部分でです。これは見方を変えると、ゆっくりとしか変化をしない。と捉えることができます。

脂肪を蓄えるように進化したヒトの身体 と 現代文化とのミスマッチ

大量のエネルギーを消費する”脳”が生まれる上で食事も大きな影響を与えています。火の登場はヒトに料理の可能性を切り開き、それは外部化した消化器官の役割を果たしました。料理によって消化に必要なエネルギーが節約されます。牛のような反芻動物は消化のために何時間もモグモグと咀嚼して、微生物の力を借りてようやくエネルギーを得ています。あまりに大変なので食べた後に寝るわけです。ヒトは料理によって、エネルギーも時間も節約出来るようになりました。進化とともに、機能を外部化した消化器官は、生ものをそのまま食べる能力が下がった変わりに、大量のエネルギーを消費できる脳とその脳を使って集団で行動する時間をもたらしてくれました。言葉が生まれ、集団で狩りをする能力が向上します。

脳を飢えから守る脂肪

動物の体脂肪率
ヒトは大半の哺乳類と比較して、脂肪が多い=体脂肪率が高い。それは飢えから脳を守るため。

ヒトの身体は”脳”の活動を止めないように、血液を供給し、エネルギーを貯蓄し常に燃やし続けられるように進化してきました。生物の中でも大量のエネルギーを消費する”脳”を持つヒトにとって、エネルギー貯蓄は非常に重要な課題となります。そのため実は腸も脳と同じように膨大なエネルギーを使い、酸素・燃料運搬と老廃物除去のために血液供給を必要とし、一億もの神経によって制御される第二の脳として活動しています。「人体600万年史 科学が明かす進化・健康・疫病 著:ダニエル・E・リーバーマン」によると、ヒトはこの膨大なエネルギー供給問題を腸が糖質を糖や脂肪に変換してエネルギーを蓄えることによって達成しています。脳そのものは消費するだけでエネルギーが全く貯蔵されていないため、身体の脂肪が糖がなくなったときのバックアップとして重要な役割を果たしています。ヒトの赤ん坊がまるまるとした身体をしているのは脂肪が脳へ安定してエネルギーを供給するためです。その脂肪を提供する女性も当然、エネルギー貯蔵庫の脂肪を蓄える必要があります。生物学の視点からみると人間は他の大半の哺乳類と比べると、異様に大きい脳を支えるために、異様なほど脂肪が多い=体脂肪率が高いという特徴をもった動物なのです。

狩猟採集時代には、必ずしも毎日豊富な食糧、特に肉にありつけるとは限りませんでした(食生活の1/3を肉が占めていたと言われています)、そのため採集によって得られる果実や木の実で補います、ほとんどが食物繊維で、デンプンとタンパク質もそれなりに豊富で、脂肪はほとんどないものです。ヒトは長期間のマイナス収支に耐える必要があったのです。仮に、体重を一定に保つ(エネルギー収支を維持する)ことが出来ないときでも、脂肪を燃やしていけば数週間から数か月は生存していけると言われています。脂肪は最も効率的にエネルギーを貯め込む手段の一つといわれます。1gあたりのエネルギー量は炭水化物やタンパク質の倍以上です。腸から取り込まれた糖は脂肪として圧縮されてエネルギー効率を向上させて貯えられているのです。

糖質を過剰摂取し、機械化で動かなくなる現代社会人

しかしそんな時代は遠い過去となっています。現代社会の多くの国では、毎日の食事にありつけることが当たり前になり(生物の進化史から見ると異例の状況)、さらに西洋諸国では自分が消費する以上のカロリーを長期にわたって取り続けるという自体になっています。狩猟採集から農業へとライフスタイルの変化が肉や果物・根菜主体の食生活から穀物主体の食生活へと変わり、壊血病(ビタミンC不足)、ペラグラ(ビタミンB3不足)、脚気(ビタミンB1不足)、甲状腺腫(ヨウ素不足)、貧血(鉄分不足)といった生活習慣病をもたらしましたが、産業化によるライフスタイルの変化によって、私たちはそれまでとは異なる生活習慣病に悩まされるようになっていきます。それは虫歯が農業の登場から現代までなくならないのと同じ身体的構造に対して過剰な糖質の接種に起因しています。

労働のかたちも変化しています。産業革命前までは筋肉を動かすことが社会の一番のエネルギー源だったのが、機械の力が社会に普及するにつれて筋肉を動かす機会は減少していって、現在では先進国の多くの人が椅子に座ったデスクワークをしています。私たちの身体をかたちづくってきた狩猟採集の生活に比べて、私たちの身体が日々の生活で消費するエネルギー量は明らかに減っています。その一方でデスクワークによる脳の疲労と複雑な共同作業によって精神的ストレスが上昇していく傾向にあります。過剰なストレスは満腹感を阻害し、高カロリーの食事を身体が欲するように促し、低運動量と高カロリーのマッチングが生まれてしまいます。現代社会で慢性化している睡眠不足はストレス状態からの解放を阻害し、マッチング状態がさらに維持されやすくなるのです。社会全体の構造が低運動と糖質の過剰摂取へと誘っています。

PAL:身体活動レベル
PAL:身体活動レベル、機械化とともに減少する日々の活動量/身体的消費エネルギー量

さらにその食事を作り出すためのエネルギーも急上昇しています。化学肥料を作り出すために大量のエネルギーが必要であること、さらにそうして生まれた穀物を工場のような畜舎で安い大量の肉を作り出すために、膨大な量を家畜たちが消費しているためです。食糧のかたちも変化しています。加工食品による食事が一般化している国々では、食品は糖と脂肪を大量に含む一方で食物繊維が取り除かれています。目的は、より美味しさを高め、日持ちを良くすることで、安価に効率的に経済的な消費を促進するためです。生産者は消費者の欲求に応え、消費がさらなる生産を呼ぶサイクルがこの傾向を持続させます。リーバーマンはこうした食品産業の状況を「いまや余計にお金を払って当分少な目の食品を買い求める人がいるという、なんともおかしな時代なのである。」と形容します。

進化と文化のミスマッチによってもたらされる生活習慣病

この食物繊維の取り除かれた食品加工品は、ヒトの身体(肝臓と膵臓)が追いつかないレベルで糖を供給することになります。本物の果物は食物繊維があることで、それが腸の内壁と果物を覆って、糖分を運搬するペースを遅くしつつ、食物が腸内を通過するペースを速めます。そうすると満腹感を得やすくなります。それに対して食物繊維が除かれた食べ物では、糖の割合が多く、さらに食物繊維という膜がないために急速に糖分が吸収されて血糖値を上げ、そうすると今度は身体は過剰にインスリン放出し、血糖値が急落することで、飢餓感を覚え、さらに高カロリーのものを欲してしまいます。

そもそも狩猟採集の時代には穀物をこれだけ食べる生活をしていませんでしたら、ヒトの消化器系は、そんなにたくさんの糖を一度に燃やすようにデザインされていないのです。燃やせない糖が脂肪として、古くからデザインされた身体システムによって、捨てるのはもったいない(捨てる手段が身体に備わっていない)、もしものためにと(最終手段として)貯えられていくのです。こうしたミスマッチによる悪循環が肥満や糖尿病、動脈硬化、脳出血をはじめとした現代の生活習慣病が現在も世界中で増え続けている原因となっています。現代の生活習慣病の特徴は繁殖=出産・生育に影響が少ないということで、その影響の大きな部分は高齢者になってからの健康寿命との関係が主となる。しかし子どもの肥満が世界で増えており、早い段階から肥満や糖尿病といった生活習慣病を患うことは体内の脂肪細胞を長い時間、継続的に発達させていくことになり、平均的な人よりも脂肪を蓄えやすくなります。子どもの肥満は、将来の大人の肥満のベンチマークとなっています。

伝統的な食文化がなぜ、伝統として、これまで各地域に根付いてきたのか ということには理由があるのです。それは進化と文化のミスマッチに対しての試行錯誤の結果残った上澄みなのです。

進化と文化の共進化と軍拡競争の場 としての 男女の性

恋愛や結婚といった男女の関係も進化と文化の交わる場所として重要な場所になります。特に本能的な心理が関係しているので、昔から社会のなかで様々なかたちで利用されてきた面もあります。こうした男女の関係は動物のオス・メスの関係を引き継いでいる部分と、社会の文化的な部分で修正や強化されている部分があり、両者の関係が重要です。そして男性と女性の性や恋愛・結婚に対しての進化上の認識システムは実は全然違います。そうした違いが、男女間、同性間のさまざまな競争の要因・動力源となり、進化も文化も促してきました。私たちの身体に備わった性と文化が形作る性のそれぞれを見ていきます。

進化の視点から見たときの男女の性に関する特徴の違い

「美の進化 著:リチャード・O・プラム」によると、こうした男女のパートナーに対しての認識の違いが、男女の身体的特徴の違いを進化させてきたと言います。男性が一般的に好む、女性の胸が大きく、腰回りがくびれて、お尻が大きいという身体的特徴は、類人猿と比較すると非常に特異な形状をしていることがわかります。特に胸が大きいというのは、類人猿では搾乳期に乳房が大きくなることはありますが、普段は大きくありません。もちろんヒトの女性も搾乳期に大きくなりますが、それ以上に普段から大きな胸を維持する進化上のメリットが存在したと考えなくてはなりません。

プラム氏の考えによると、子育てへの男性の参加が大きく関わっていると言われます。ヒト以外のオスは基本的に子育てに参加しません、そして発情期以外は男女の関係も乏しいです。未だに男性が育児に参加しないと揶揄されますが、動物たちのオスたちの行動を見ると、子育てというよりも、子殺しの事例、自分以外の遺伝子を受け継いだ子どもを殺して、メスを育児から解放し出産(発情期)へと促す行動を取ることが観察されることから考えると、ヒトのオスの身体に子育てをするという性質が本来的には備わっている言えると思います。ヒトのように子育てにも参加し、発情期以外でも性交が行われるという行動特性にシフトしていったことを考えたとき、男性を継続的に惹きつけ女性が出産・子育てで優位に立ち、子孫を残しやすかった。そしてヒトの言語の発達にともなう集団行動のスキルが向上するほど、たくさんの子孫がいることは生存上の優位にもつながったと考えられます。その時に女性が男性を惹きつける武器になったのが、現在の女性の身体的特徴である常に大きい胸や腰回りのくびれ、大きなお尻で、そうした特徴の女性が子孫を多く残した結果、現在の身体に進化してきたと推定されます。そしてそうした女性の身体表現を促したのは、男性の武装解除(暴力から平和へ)でした。自己家畜化と呼ばれる考えによれば、ヒトは家畜のように①野生種より小型になり、②顔が平面的になり、前方への突出が小さくなり、③雄雌の性差が小さくなり、オスが雄性を誇示しなくなり、④脳が小さくなる(処理能力は低下しない=効率的になる)といった特徴をもつように近縁の類人猿から進化したとされています。

社会的特徴・身体的特徴
外見から入っても、社会的特徴を重視するに至る、ヒトのパートナー選び
社会的特徴の選り好みが長期的なパートナーシップの選考基準となった

女性の身体の形状が美的要素として男性の選り好みへ強く影響するのに対して男性の身体はそうした美的な要素が明らかに少ないです。さらには角ばった男性的な顔立ち、筋骨隆々の男性的身体的形状は女性に一番好まれない傾向にあるというデータもあります。こうした女性の好みは、女性のパートナー選びにおいて身体的特徴よりも、ステータスや社会的特徴(ユーモア、親切、共感、思いやり、正直さ、忠誠心、好奇心、自己表現など)を重視した結果だと考えられます。女性の胸が常に大きいという他の動物に見られない特徴があるように、男性の性器が常に外に出ているというのも、実は他の動物では見られない特徴です。また陰茎骨という骨格がないという特徴を持っています。この進化上の理由ははっきりとは明らかになっていないようですが、機能的なものというよりは美的な観点(女性がパートナー選びのときに選り好みする要素)からの進化と考える方が筋が通っていると考えられています。このように男女のパートナー選びの特徴は身体的特徴に刻み込まれていると考えられます。

ヒト以外の動物のオスにも共通して言えること(ずっと継承されてきていること)ですが、進化上のオスの主目的は性交をして、自分の子孫を残すことにあります。そのため若い妊娠適齢期の女性を好む傾向があります。これは目的に対して合理的な戦略です。セックスを目的とする傾向は脳科学の観点からも明らかにされていて男性が一日のうちでセックスに自然と思いを馳せる回数・頻度は女性の二倍あり、性衝動の鍵を握るホルモンであるテストステロンの量は女性の10倍分泌されると言います。ただし西洋社会での調査結果では、生涯のセックスの相手の平均人数は男女差はほとんどないとされていますので、だから男性がたくさんの女性と浮気しているというという話しにはならないようです。男性が思っていても、相手が同意しないと基本的には成立しないので、社会的結果としては安心できます。また男性もお互いを知るようになると社会的特徴を重視するようになり、外見よりも自分が体験したパートナーに対する社会的知覚が、相手の魅力に関する判断に強い影響を及ぼすようになり、社会関係が魅力の評価に及ぼす影響の大きさに男女の差はなくなるようです。

他の動物は発情期(生殖・受胎に最適な若い年齢)にのみ若い妊娠適齢期のメスに性交を求めるわけですが、ヒトは発情期と関係なく性交を行いますので、この傾向は中年の男性や高齢の男性にも共通して見られます。最近の縄文時代の寿命についての研究(縄文時代人骨の古人口学的研究 長岡 朋人)では大体50歳程度なのではないか?と推定されています(以前は30歳程度と考えられていたのでだいぶ伸びてます)。石器時代はもう少し短かったでしょう。その観点から見たとき、このセックスを求める中年以降の男性たちというのは、身体の進化が想定していなかったイレギュラーな存在と言えます。こうした進化からみたイレギュラーな存在を文化が補完することが求められるのですが、それが上手くいかない状況がセクハラのような男女の衝突として表出しているといえます。

男性にステータスを求める女性の心理が家父長制を生み出した

家父長制の起源は子育てをする男性を好むという一見すると全く正反対にある女性の好みから端を発しているのではないか?という考え方があります。子育てに協力的な男性が女性に好まれるという傾向が、子育てに必要なリソース・資源を持っている男性が好まれるという方向へと強化されていき、リソース・資源がステータス・権力と結びついて、男性の同性間のパートナー獲得競争を激化していくことで、権力やリソースの集中が進み、家父長制の卵が生まれてきたのではないか?と考えられています。そして現代社会においてもセクハラをしやすい男性は権威やボスといった概念を前戯やベッド、デートといった概念と自動的に結びつけているという調査結果があり、中高年の男性管理職などが未婚の出産適齢期の若い女性にハラスメント被害を起こしてしまうという事態を招きます。これが家父長制という古い文化的な慣習の持続性の結果なのか?進化の上に獲得された心理の問題なのか?は明らかではありませんが、少なくとも男性の方が社会的にも性的にも女性より優位に立っているのは、生物的な進化の歴史だけからもたらされた必然的な結果とは言えません。その根にはこのような男女のあいだの共進化と軍拡競争が潜んでいます。

性に対する男女の意識の違い

男女の性に関する意識の違い

こうした男女の違いは、パートナーを他の異性から遠ざけ独占しようとする行動が、男性の場合は外見が魅力的な奥さんを持っている人ほど強く(女性は逆に外見が魅力的な旦那さんの場合ほど弱く)、女性の場合は収入が多い旦那さんを持っている人ほど強いという傾向があるという調査結果があります。また異性の同僚からセックスの誘いをもちかけられたらどう感じるか?という質問に対して、男性は67%が嬉しく感じると回答するのに対して、女性は63%が侮辱されたと感じると回答するという真逆の結果を出した調査結果や、「一か月で関係を持ちたい性的パートナーの人数は?」という質問を52カ国1万6288人にした調査で男性は平均で1.87人、女性は0.78人と2倍以上の開きがあり、かつ男性はパートナー以外の女性と性的関係を常に持ちたいという心理が働いている、もしくは抑えていることを示しています。

同性間の過剰競争を刺激する現代社会と男女の主導権争いの変化

女性のパートナー選びの価値基準が男性の同性間競争を激化させ文化制度へと発達していったように、男性の外見を重視するパートナー選びの価値基準もまた女性の同性間競争を激化させて文化を発達させていきます。衣装や化粧、香水など、男性を魅了するための様々なアイテムが開発され、消費されていきます。こうした傾向は現代社会において一方ではSNSや広告業界からの過剰な情報によってさらに競争は激化を極め、女性たちが美容や化粧品にコストを使えば使うほど、外見に関する女性の競争は激化します。この過剰競争は容姿・外見だけでなく、社会的性質についても言えるように思います。ドラマやバラエティー番組のタレントや俳優、youtuberやSNSのインフルエンサーはユーモアや自己表現、親切さや思いやりを様々な手段を通して示してくれます。私たちは男性も女性も高い基準を常に求められます。それはプロやセミプロのような人だけでなく、アマチュアであるパートナーを見る目にも影響を与えています。身の回りに存在しない幽霊に価値観を乗っ取られているようです。

もう一方では女性たちの経済的自立によって、男性たちへ過度に媚びを売らなくても良い状況が生まれ、女性側の価値基準を男性側へ強いることが可能な未来が開きつつあります。現代社会において女性が好む男性の外見が女性的・中性的な男性であり、所謂、男らしい男性ではない、というところにも、男女のあいだの価値観の違いをはっきりと示しているように感じますし、腐女子文化のような同性愛趣味も、こうした観点から見ると女性らしい文化のありようにも思えてきます。

豊かで超長期的な男女のパートナーシップと豊かで不確実な社会というミスマッチ

こうした女性が求む長期的なパートナーシップの達成が開かれていく一方で、現代社会のような長寿はこれまでの人類史上あり得ないことである、という事実は長期的なパートナーシップというものを絶対的なものから引きずり下ろします。

「進化は、50年続く幸せな結婚生活のために人間を形作っていない(有害な男のふるまい、進化で読み解くハラスメントの起源 著:デヴィッド・M・バス p.119)」

「現代の日本社会では、経済やビジネスの分野だけでなく、社会の様々な側面で機会コストが急速に増大しつつある。例えば夫婦関係についても、経済的な取引関係と同じように、同じ相手との間に安定した夫婦関係を続けていくことに伴う機会コストが増大し続けている。

もちろん安定した夫婦関係を続けることで得られる「取引コストの節約」は現在でも大きな意味をもっているが、それに伴う機会コスト―もっと良い相手と再婚できる可能性や一人で暮らした場合に得られる自由の喪失、等々―が急速に増大しつつある。そうなると、これから社会で成功するためには機会コストを上手く引き下げること、つまり自分にとっての有利な機会を逃さないようにすることが重要な意味を持ってくるだろう。(信頼の構造 こころと社会の進化ゲーム 著:山岸俊男)」

という言葉が示すように、これだけの長期間のあいだを、かつ現代社会のように不確定で変化に富んだ時代に、自分自身の社会的価値・価値観、そしてパートナーの社会的価値・価値観が変わらないと考える方が難しいように思います。戦後のキンゼイ報告において結婚生活において不貞をする人の割合が女性26%男性50%だったものが、近年ではその差が10%程度まで縮まってきているのは、そうした社会変化(長寿、女性の自立、社会の不確実性)をはっきりと示していると思います。これまでの倫理観からすると好ましくないと思いますが、離婚を安心して出来る環境、バックアップ・サポーターとしての異性・同性の親身な関係という選択肢・価値観に対して再考を迫る機会が訪れる可能性も0ではないように思います。性的関係を伴わないセカンドパートナーや同性愛者と異性の友情を示す言葉がさまざまな文化にあることは、そうした関係が昔から存在していたことを想像させる。特にパートナーとしても求められるあらゆる能力が競争にさらされている現在、社会が専門分化していったように、パートナーという役割もまた専門分化する可能性すらあるように思える。シェアハウスのような仕組みはある意味、そうした方向性の表れとも読み取れる。

公平さを重んじるよう進化したヒト 合理性によって価値づけする現代社会

チンパンジーの攻撃性の頻度はヒトの数百倍から数千倍、
オスからメスへの暴力は日常的に100%(ヒトは生涯で41-71%)

「善と悪のパラドックス 著:リチャード・ランガム」によるとヒトは自己家畜化の影響で攻撃性を弱め、性差の体格差を縮める一方で、知性を向上させ、言語を獲得していったとされています。攻撃性が弱まった傾向を示す調査結果として、チンパンジーとヒトの身体的攻撃の可能性の頻度を比べた調査によると社会分断とアルコールによって荒んだ集団とチンパンジーを比較した場合でさえ数百倍から数千倍の頻度でチンパンジーの方がそうした暴力が発生し、大人のメスの100%がオスから日常的に深刻な暴力を振るわれていることがわかっています(ヒトは41-71%の女性が人生のどこかの時点で男性から暴力をふるわれた経験があるという調査結果があります)。

ヒトは言語の獲得によって集団での連携が強まり、集団内、集団間での集団圧力・集団闘争が高まった
集団による暴力は闇討ちなど成功率の高い方法を感情的反応ではなく理性的に選んで実行される

言語の獲得によって「集団による狩り」が可能となり、その結果、感情的で集団に不和を生む暴君の虐殺が活発になり、「社会的評判」を重視する心理=公平性を重んじる心理が進化していったと考えられています。またこの集団による狩りの能力は同じヒトの他集団へも向けられることで、集団同士の暴力による殺害に割合は、霊長類よりもはるかに高くなっています。

こうした公平性を重んじる心理が備わっている原因の詳細は考古学的な世界の話しですので定かでない部分もあると思いますが、経済学のゲームを使った研究によるヒトとチンパンジーの行動特性の違いにはっきりと表れています。研究に使われたのは「最後通牒ゲーム」という「お金/資源の分配の仕方を提案する人」と「その提案の受諾・拒否を決定する人」に分かれて、決定する人が提案を受諾すれば提案に応じてお金/資源の分配がなされ、拒否すれば両者ともお金/資源は分配されない、というルールのゲームです。

チンパンジーとヒト_最後通牒ゲーム
チンパンジーの方が経済合理性・利己的な判断を追い求めることがわかる
ヒトは生まれながらに不公平に嫌悪し、公平さを求める性質があると推定される

ヒトがこのゲームをプレイする場合、分配の提案者から全体の約1/4以下の少額/少量の分配を提案(分配の提案者が3/4以上をもらう提案)をされた場合、ほぼかならず拒否を決定する結果が出ています。これは世界中で学生から狩猟採集民のような人たち、大人から子どもまで、行われたヒトがもつ傾向です。どんなに少額・少量でも受諾した方が得られるものが多いにも関わらず、自分の得るものを失っても不公平な分配を阻止するよう心理が働くようです。しかしチンパンジーは違います、不公平な提案をされたとしても、きっちり提案を受け入れ、自分の経済的利益を最大化する利己的な行動をしっかりと行います。私たちはこのように他の動物たちとは違い、独特な道徳感覚を、道徳的思考だけでなく、進化の過程で身につけた・身についてしまった、道徳の「感覚」を持っているのです。この道徳感覚・公平さを感じる取る上でで重要なものが「恥」です。

こうした道徳感覚・恥は、いわゆる「コミュニティ/共同体」と呼ばれる組織によって「コモンズ/共的資源」の管理をはじめとした制度運営に、進化の過程で身についたこの感覚を強化し、昔から活用されてきました。ノーベル経済学賞受賞者で公共経済学の専門家であるエリノア・オストロムの「コモンズのガバナンス」では、こうしたコミュニティにおいて、コモンズ/共的資源がどのように管理されてきたのか?を様々な調査事例を挙げながらその特徴を整理しています。そのなかで指摘されるのは明確な境界をもつ有限のメンバーのなかで、地域環境と調和しながら、自立した主体が相互に監視し合う・学び合う制度システムであり、迅速で状況に合わせて柔軟に対応する制裁・紛争解決手段を持ち、資源利用・管理の当事者たちが自らルールを定め、修正していく、自治組織の姿です。

コモンズのガバナンス_長期にわたって持続的な共的資源をめぐる制度設計原理
コモンズのガバナンス_長期にわたって持続的な共的資源をめぐる制度設計原理

こうしたコミュニティの姿は、以前ほど組織としては厳格さがなくなったり(境界が曖昧になったり)、目立ちにくくなっているかもしれませんが農山村の自治組織や消防団、地域の町内会や保育園や小学校などのママ友グループ、職場や学校のネットワークやOB会、同業者やファンクラブ、オープンソースやマニアやオタクなど、現代においても、社会をまわすための大小のほつれを補完しています。

「モラルエコノミー」の著者サミュエル・ボウルズは、そうしたコミュニティ/共同体の特徴を市場や国家と比較して、各個人が持っている私的情報の入手に見ています。市場や国家に比べて、コミュニティ内ではより多くの私的情報が個人的で永続的な接触関係を通した相互監視のなかで流通し、利用されています。市場はコミュニティに比較して、私的情報へのアクセスに限界がある代わりに、価格にもとづいてより広範囲との取引・交易を可能にできるという特徴を持ちます。国家は領土内という限定された領域のなかで軍や警察という強制力を持った法制度と大きな予算にもとづいて、社会活動を補完します。このようにコミュニティは市場や国家とは異なる立場で、法律や契約ですべてを規定することが難しい領域などに対して、もちろんすべてにではありませんが、関係者間の対立が小さくてコミュニティ関係者間で共通の規範を持つことが出来る状態であれば、利害の緩和や契約に対してのオルタナティブな規範を提供し対処することができるのです。コミュニティという組織・仕組みが今なお残り続けているのには理由があります。

コミュニティが市場や国家を脅かす、例えばストライキや不買運動、ヤクザやマフィアの活動、クーデターなどは今なお残るコミュニティの仕組みの一例でしょうか。「中央権力によって提供されていた安心が提供されなくなると、やくざやマフィアなどのコミットメント関係を基盤とした私的権力組織が、安心を提供することで勢力の拡大をはかるようになる。 (信頼と構造  こころと社会の進化ゲーム 著:山岸俊男)」とあるように、コミュニティが提供する安心は自然と人々が求めてしまうタイプのものなのです。

市場や国家がコミュニティを脅かす、市場を通した商品経済が農山村に浸透することでコミュニティの共的資源の活用基盤が崩れたり、出稼ぎや都市への就職などによって人の出入りが激しくなりコミュニティの境界が曖昧になったり、コミュニティの規範があったところに新たに別の法律を被せることで、規範の存在意義を掘り崩したりというケースも起こります。このように互いに補完し合う関係だけではなく、互いに対立して競合する場合もあります。そして往々にして国家や市場の力によってコミュニティ側が圧倒されて、先ほど述べたようにコミュニティがもつ私的情報へのアクセス力を失うことになり、社会活動の効率性が下がるという結果に行き着きます。こうした傾向は選挙などのテレビの報道の偏りなどで示されていると思います。SNSの発達によって私的情報の広範囲への発信が以前よりも容易になってきた結果、改めて公的情報(国家)、信頼できる商品情報(市場)、私的情報(コミュニティ)のそれぞれの情報の役割と補完性を考え直す必要に迫られているように感じます。

理想的な人を目指す学習・育児 と 多様な生物としてのヒト の あいだのミスマッチ

ヒトの生物的特徴は社会活動にも影響を与える。ヒトは学習によって他の生物が次世代へ生存方法を継承する遺伝にはない、環境への柔軟な適応を可能にしました。各環境にはその伝承すべき学習内容の方針が文化として取り纏められています。学習と文化によって大きな発展を遂げてきたヒトですが、人の社会が求める学習とヒトの生物学的特徴でずれが生じているように思えます。柔軟性を得る学習はその性質ゆえに、完全なコピーを次世代に残すことが出来ないという欠点をヒトは抱えています。学習によって生み出さえた技術は高度化し身体的能力よりも、知的能力がその重要性を増しています。学習によってその都度、次世代は学び直しをしなければならなりません。学習によって女性、子ども、お年寄りすべてに対して労働の門戸が開かれます。しかし社会が持続するために求められる学習の内容が高度化し過ぎて、学習のコストが釣り合わなくなり、出産が抑制され、少子高齢化という新しい問題を生み出しています。

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