四国の絹の生糸のために活用された保存状態の良い四つの風穴を中心に、四国の風穴と絹についてまとめてみたいと思います。
風穴とは山のなかで、夏に冷たい風/冬に温かい風が吹き出す洞穴です。穴のなかの温度差や気圧差によって空気が動き出して、この流れにのって中の冷えた/温まった風が吹き出してきます。
年間を通して10~15℃前後の冷蔵庫やクーラーのような風が吹き出してきます。まだ冷蔵庫が高価だった戦前の時代、風穴は野菜などの食料の保存などに使われました。
当時そのなかでも特に全国的に使用頻度の高かった使い方が、絹/シルクの糸を吐き出す蚕の卵=蚕種(サンシュ)を冷蔵保存することで、卵の孵化の時期を人工的にコントロールする、という使い方でした。
この時代、日本は絹の糸=生糸の生産量が世界一を誇り、換金作物として多くの農家に取り入れられていました。風穴の近くの養蚕に適した地域では遠方から山の中の風穴まで蚕種を保管しにきていました。
あまり知られていませんが四国は高品質の絹の糸をつくることで国内のみならず世界的に有名な産地でした。
天皇即位の儀式/大嘗祭に絹布/繪服を古くから献上してきた三河の赤引糸とともに愛媛の伊予生糸が戦前から御用糸として皇室への献上され、
1953年にはイギリスのエリザベス女王2世の戴冠式のドレスのための生糸を献上し、
国内の絹産業がすっかり衰退したバブル期以降もブラジルへ進出した藤村製糸が高級ブランドエルメスのシルクスカーフ向けの最高ランクの生糸を生産しました。
そんな四国の風穴と絹産業を、まずは風穴の仕組みから見ていきたいと思います。
風穴の仕組みを建築的観点から見てみる
風穴を研究されている澤田結基教授によると、風穴は洞穴タイプと崖錐タイプの大きく二種類に分かれます。
洞穴タイプは読んで字のごとくで洞穴(ほらあな)となっており、大きなものは人が歩ける洞窟のようになっており、日本では富士山の麓にある富岳風穴が有名です。
それに対して崖錐タイプは急崖などが崖崩れを起こしてできた円錐状に岩石の堆積物で人や動物は通れないけれども空気や水の通り道がつくられているものです。四国の風穴は二番目の崖錐タイプです。
空気を動かす煙突効果と大きな熱容量の岩石に熱を貯める蓄熱
天然の冷蔵庫・クーラーである風穴の仕組みは実は非常に建築的で、似たような仕組みが実際に現代でも建築に応用されていたりします。
具体的には次の2つの仕組みが組み合わさることで涼風をつくりだしています。
- 煙突効果
- 蓄熱
密度の違いで空気を動かす煙突効果
煙突効果とは、これも読んで字のごとくで煙突が煙をもくもくと吐き出す性質を説明するもので、異なる高さをつなぐ空気の道があるとき、
空気が密になっている方(気圧が高い・温かい)から空気が疎になっている方(気圧が低い・冷たい)へと空気が動いていく性質を表しています。
一般的には煙突の入口(低い方)が煙突の出口(高い方)よりも高さの差だけ空気の厚みが厚い=気圧が高いので、その圧力差によって下から上へと空気が流れる現象(上昇気流・ドラフト)を説明します。
密度には温度も関係する
入口側は地面が太陽で暖められたり、工場の窯などの火で熱せられたりして、空気が温かくなっているので、さらにこの気圧差が大きくなり、より強い空気の流れが生じます。
温度で上昇・下降する空気
風穴の場合は単純な煙突に比べると空気の流れが少し複雑で、季節によって周囲や内部の気温差が変動するので、上から下へ空気が流れたり、下から上へ空気が流れたり(下降気流・ダウンドラフト)します。
ざっくりしたイメージとしては外気温よりも風穴内の気温が高くなる冬などは普通の煙突と同じように下から上へ空気が流れて、
外気温の方が風穴内の気温よりも高くなる夏などは普通の煙突とは逆に上から下へ空気が流れます。
空気の温度を左右する岩石の蓄熱
この空気の流れの向きを決定するのが風穴内の岩石に蓄熱された熱です。
岩石は空気よりも重く体積当たりでたくさんの熱を貯えられるので、熱くなりにくく、冷えにくい物質です。
このため風穴内は外よりも一日の気温の変化、年間の気温の変化が少ないのが特徴です。その岩石を冬の冷たい空気、夏の暑い空気がじっくりと冷やしたり、暖めたりします。
そうすると季節が変わっても風穴内は寒いまま、暑いままという外気と風穴内の気温差、ズレが生まれます。
気温の岩石の温度のズレが空気を動かすエンジンとなる
この気温差がエンジンとなって空気の密度の差が生まれ、重い空気は下降し、軽い空気は上昇することで、風穴内に空気の流れを生みだします。
冬には下部から冷たい空気が取り込まれ風穴内を冷やして夏の涼風の準備をし、夏には上部から暖かい空気が取り込まれて風穴内を暖めて冬の上昇気流の準備をするサイクルが生まれているのです。
建築でも起こる空気の上昇下降
このような上昇気流・下降気流の切り替わりや物質への蓄熱は住宅やビルなどでも起こっている現象で、
空調の効き目を促進させたり逆に減衰させたりするので、建築のなかでは求められる使用用途に応じて計画のなかで気流の流れや熱の流れを気密/通風や断熱/伝熱で調整して、望ましい温熱環境へ整えていきます。
四国の崖錐タイプの風穴ができるまで
崖錐タイプの風穴は急な崖が崩壊して岩石が堆積することで出来ることは先ほど説明しましたが、では四国の風穴はどのようにしてできたのか?
その謎は瀬戸内の火山活動/石鎚山の火山活動で生まれた讃岐富士・伊予小富士や屋島・皿ヶ嶺の地質的特徴から知ることができます。高鉢山は讃岐七富士で一つで、上林の風穴は皿ヶ嶺連峰の中腹にあります。
二つの異なる地質が重なるキャップロック構造
この山々は地質学的にはビュート地形/キャップロック構造という特徴をもっています。世界的には西部劇などで登場するアメリカのモニュメント・バレーなどが有名です。
ビュート地形/キャップロック構造の特徴は上部に硬い岩質の地質、下部に柔らかい岩質の地質が重なる構成をしていて、
長い年月の風化とともに上の硬い岩質が残って、下の岩質が流れ去っていくことで、このような独立した山や丘が生まれていくことで生まれます。
石鎚山・四国山地の火山がもたらしたキャップロック構造
瀬戸内火山活動が活発だった1400-1500万年前は石鎚山から奈良の室生山地、愛知の鳳来寺山まで火山の列(火山フロント)が形成されていて、大陸の基礎である花崗岩地質の上に火山活動による溶岩が覆うことで、
硬い溶岩由来の安山岩と柔らかい大陸プレート運動由来の花崗岩が重なり、ビュート地形/キャップロック構造の条件が生まれました。
こうして生まれたビュート地形の上部構造がつくる急な崖がなにかの拍子に崩壊して、岩石が崩れ落ちて堆積することで風穴の条件となる崖錐が生まれます。四国の風穴は日本列島をかたちづくる時代の火山活動に由来しているのです。
愛媛県大成の風穴群
愛媛県久万高原のなかでも奥地の旧面河村の大成の石鎚山脈の一部に大成風穴群はあります。
面河は石鎚山の面河ルートへつながり仁淀ブルーで有名な仁淀川の源流である面河渓や石鎚スカイラインによって高知側からの石鎚山への玄関口である土小屋へと通じており、豊かな自然景観を堪能することができます。
標高がそもそも高いので夏でも松山との気温差が4-6℃近くあり現地を訪れたときも8月末の外気温が26-28℃程度でした(松山は32-34℃程度)。風穴へ行く前からすでに涼しいですし、川の水が本当に冷たいです。
大成の看板を目印に集落への道に入り大成神宮を越え風穴への遊歩道の看板前に駐車する。遊歩道は200m程度(徒歩5分程度)。簡単な山歩きできる状態が好ましい。
他三つの風穴が安山岩と花崗岩の地質構成であるのに対して、ここは変成岩で中央構造線の南側に位置する。
大成風穴のある場所は、昔から掘ると夏でも氷が取れる場所として知られており、日本の絹の生糸生産が本格化しはじめる1900年頃(明治30年代)から蚕種保存のために利用され、現在のようなかたちへと整えられていきました。
大成の風穴群という名前の通り、風穴は一つだけでなく三つあります。
1号風穴は上林の風穴のように地面を掘り込んで石組みで固めた構造のもの、
2号風穴は高鉢山の風穴のように前室の廊下がある構造で風穴の部屋が斜面に埋められた構造のものです。
最後の3つ目は温風穴となっており、他の二つの出口になるのか?別の風穴とつながっているのか?はわかりませんが冬に温風を吹き出す出口側となっています。
敷地内には科戸大神/級長戸辺命が祀られております。級長戸辺命は伊勢神宮の内宮・外宮にも祀られる、元寇の際に神風を吹かせた神様とも言われている風の神様です。
復元された覆い屋
大成の風穴を四国のほかの風穴と分ける特徴は復元された覆い屋です。
標高が高く積雪地帯である面河の大成はそもそも風穴の冷却能力が高いものと思いますが、覆い屋があることでその冷気を逃がさず、実際に当時の天然の冷蔵庫がどれほどの能力を持っていたのかを身をもって体験することができます。
地下を掘って涼風の通気層を利用した1号風穴
駐車スペースに車を停めて、風穴までの簡易な登山道を5分ほど登るとコンクリートブロック積みの1号風穴が見えてきます。
明治時代につくられた当時の覆い屋もコンクリートブロック積みであったかは不明ですが、内部空間の湿度や結露を考えると木造を現しで使うという発想はなく、高鉢山のように石積みで組まれていれば現存していたでしょうから、志保山のように土壁や版築壁でつくられていた可能性もありそうです。
入口が一つ設けられており、現在は扉がなく常開となっていますが、なにかしらの扉が本来は付いていたのではないかと思います。
内部は真っ暗で入口からの光でどうにか見えるという感じです。見学にはライトを持参した方が、出来れば置き型のものを複数もってくると内部の様子がよくわかるのではないかと思います。
天井は防湿シートと思しきものが張られていて、びっしりと表面に結露していました。
このあたりの仕様も当時はどうしていたか気になるところでした。冷気を逃さないようにするには気密が必要で、気密を取ると湿度の処理・結露水をどうするのか?天井面は悩ましく思いました。
施工性を優先した結果なのか、作業性を優先した結果なのか、風穴の石組みは2段になっていて、下部ほど強い冷気が溜まっています。ちょうど1段目が表土の厚み分で、2段目が風穴の岩石の堆積層になっているのかもしれません。
石組みの石はこのあたりで採れる変成岩と思われ、鉄分があるのか少し赤身を帯びていました。
石積みには丸太が掛けてあり、蚕種を保管する際の棚を設けたりするための下地として利用していたのかもしれません(単純に転落防止の意味合いで設置されているのかもしれませんが)。
風穴の表面温度は約8.5℃と冷蔵庫並みの冷却能力を誇っています。
斜面を切り欠いた半地下の構造物の2号風穴
こちらは1号風穴と比較して、大きな蚕種保管所となっています。
かたちは高鉢山のように前に前室のような廊下があるタイプで、高鉢山の風穴が廊下の石組みが斜面から飛び出していたのに対して、大成の風穴では廊下の石組みも半分斜面に埋まっています。上
部構造が大きいため石組みの内側に柱が落としてあります。
私が行ったときは入口の屋根?(本体とは分離した丸太を現しで掛け渡しただけのもの)が苔むして一部崩れていたり若干塞がれていましたが、潜れば入れました。
本体の躯体は常時湿潤状態で太陽光のない閉鎖空間なので外部ほどの腐食は見られません。
1号風穴が入口からの光が室内に入ってきていたのに対して、2号風穴では廊下が折れ曲がるので奥まで光がほぼに入ってこないので、こちらは本当にライトが必要です。
床は排水のために若干勾配が取ってありますが基本はフラットです。床は石が敷き詰められているので(もしくは床が堆積した岩石を整えた状態)、歩きづらいので注意してください。
暗くて写真が撮れていませんが、室温が7-10℃、表面温度5-8℃、周辺外気温26℃で、閉鎖性が高い分1号風穴よりもしっかりと冷却されていました。
温風穴については夏に行ったため、どこかは不明でしたが、こちらも斜面が石組みで保護してありました。冬の大成風穴はなかなか近寄りがたいですが、機会があれば温風穴探しをしてみたいと思います。
このように同じ四国の風穴でもその冷却能力が異なります。違いの鍵を握るのが熱交換と蓄熱、そして水の三態変化です。
風穴内の熱を出し入れする熱交換と蓄熱
水(液体)から氷(固体)、氷(固体)から水(液体)への状態変化が、冬の冷熱を風穴内に貯える
愛媛の上林や大成のような積雪地帯やそれに隣接する場所では、冬に風穴内部の気温が0℃を下回って氷がつくられて、天然の氷室(地下の地熱を利用して氷を保管しておく場所)が生まれている可能性が考えられています。
澤田結基教授によると冬に中部以北の風穴では氷がつくられている可能性が高いそうです。
皇室への絹糸の御用糸を古くから担当している愛知県稲武町では年間平均が12℃程度、冬の最低気温の平均(12-2月)が-3.3℃なので冬の最低気温の平均が0℃を下回っていれば、氷ができている可能性がありそうです。
四国の風穴に近い気象庁のデータで冬の最低気温の平均(1991-2020)を調べると、久万高原が-1.8℃、財田でおよそ1℃、多度津で3.3℃です。
実際に夏に行くと志保山の風穴(外気温30℃に対して、風穴の出口14.5℃)に比較して、高鉢山(外気温30℃:風穴10℃)や大成(外気温26℃:風穴7℃)、上林の風穴(外気温28℃:風穴5℃)とかなり低くなっていたので、
氷が出来ているか否か?というのが、風穴の冷房能力を左右するひとつの指標となるようです。
氷があった方が直観的に涼しそうというのは理解できますが、なぜ氷があるとないとで冷房能力に大きな差が生まれる原因をより詳しく知るためのヒントがゼロカーテン効果と呼ばれる水がもっている性質です。
冬の寒さを貯える水のゼロカーテン効果
水が氷に状態変化するとき、まわりに熱(エネルギー)を発散して結晶体としての結合を構成します(凝固熱)。逆に氷が水に状態変化するときは、まわりの熱を吸収して結晶体の結合を破壊して、溶けていきます(融解熱)。
最近ではこの仕組みは夏の首などに巻くクールネックリングによって日常のなかでも体感することができます。
こうした性質によって水から氷になるときは回りに熱を出して、なかなか気温が下がらず、氷から水になるときは回りの熱を吸収して、なかなか気温が上がらず、0℃付近を維持するようになることを、ゼロカーテン効果と呼びます。
水は他の物質と比較して、この凝固熱や融解熱が大きいため、より長い期間ゼロカーテン効果が生まれやすいという特徴があります。
このため一度、氷が風穴内につくられると氷が溶けにくい状態が続き、さらに厚い地面や樹木によって外気や太陽光から守られることで長期化していくことで、夏に氷の隙間を通って涼しい風が風穴から吹き出してくるようになります。
風穴から冷蔵庫へ
絹の生糸生産・養蚕が伸びていた明治時代は冷蔵庫やエアコンが社会に登場しはじめた時期でもありました。
世界中で天然の氷を北国から運んでいた時代
製氷工場が出来る前の冷蔵は氷によって低温を保つもので、函館の冬の池で氷を収穫し、氷室に貯蔵したものを日本全国に出荷していました。
アメリカでも19世紀から20世紀初めまでは北部の湖で氷を収穫したものを出荷していた時代があり(氷貿易-wikipedia)、函館の氷が全国へ出荷される前は医療用にアメリカから輸入していました。
製氷会社の登場
1889年(明治12年)に日本ではじめての製氷会社が東京にでき、天然氷よりも安価に氷がつくられるようになっていきます。
風穴や山中への氷室への氷の貯蔵に頼っていた愛媛にも1915年(大正4年)に宇和島に製氷会社ができます。
現在も西日本に唯一残る蚕種会社である愛媛蚕種が出石寺の山に氷庫をつくっていたのが山から下りて、保内町に工場を建てるのもこの頃からで、
氷を消費する八幡浜漁港に近接し、船で全国で蚕種を出荷できる立地は、蚕種経営に適していたようです(蚕種が支える養蚕の産業化より)。
明治期の日本の近代化は日米貿易による外貨が重要な役割を果たしました。その貿易の中心には絹の生糸がありました。
絹の織物生産は木綿/cottonに比べて機械生産化が難しく、職人的な風土と相まってヨーロッパでは手仕事の領域として残されていました。それに対して機械化を推し進めていたのがアメリカでした。
そこでは統一された規格・品質の原料=生糸が求められました。
大量生産のための絹の生糸の品質の統一と風穴
日本の生糸の生産量・輸出量が伸びて、品質のばらつきをなくす方向へとプレッシャーが高まれば高まるほど、蚕種の品質の安定の重要性が増していきました。こうして工業化のプロセスへ養蚕が組み込まれていくなかで風穴の養蚕への役割を終えていきました。
産業のかたち・生活のかたちが、私たちと自然との関係を定義づけていきます。
明治・大正に文化の基盤の多くを負っている現在の愛媛県にとって絹という当時の日本全国・世界に通じた素材を通して眺めることは、現在地を知る良いサンプルになるように思えました。
関連資料
香川県志保山の風穴
香川で養蚕は1877年(明治10年)と早い時期から東部の大川郡ではじまり、1882年(明治15年)には栗林公園に養蚕の技術指導所が設立されています。
ただあまり積極的な養蚕振興とはならずに、本格的な普及は1900年頃(明治30年頃)になってからでした。それでも全国的にみるとあまり普及はせず(総農家の12%が養蚕と、全国平均31%の半分に満たない数値)
そして東温市の養蚕と同じように1930年の昭和恐慌による生糸の暴落とともに衰退していきました。
香川で養蚕が普及しなかった要因として、養蚕のメインの時期である春蚕が冬小麦の収穫と被ることが大きかったようです。養蚕よりも麦作が重要視されたわけです。
1400万年前の安山岩の急斜面の崩壊によって生まれた風穴
吉津峠のガードレール内に駐車して、700m程度/徒歩15分程度
志保山の山頂まで登ると石組みに使った石の石切り場も見れる。
縦走すれば天空の鳥居/高原神社までいくことも可能
上部の急勾配の崖が崩壊して下部の緩斜面に堆積した崖錐(グレー部)に風穴がある
1400万年前の瀬戸内火山活動により崩落し堆積した安山岩で構成され、下部には地下水が流れていると考えられている
志保山のある三豊平野は明治-大正期に香川の養蚕が盛んに行われた地域の一つで、
日本の生糸生産・輸出が増加を続けていた1910年頃(明治40年代)に発見された志保山の風穴も養蚕の蚕種保存を目的に整えられ、現在もその石組みが残っています。
自然と一体となった斜面型の石組みの風穴
石組みの大きさは幅が約3.2m、奥行き約3.7mのおよそ6畳の広さをもち、斜面に対して手前側が半地下となって深さ1.3m、奥側の斜面を抑えている壁面が約4mの高さとなっています。
9月頭の外気温約29℃のときに風穴からの涼風の気温は約15℃、表面温度約14.5℃でした。
湿度90%以上の空気
外気の影響よりも風穴内の冷気の影響を強く受けている
日中はもっと風穴との気温差が出ると思われる
志保山に近い気象庁の多度津観測所のデータでは冬の最低気温の平均(1991-2020)が3.3℃と氷点下を上回っていることから、氷による冬の蓄熱効果が得られずに、他の風穴よりも吹き出す涼風の気温が高めとなっていると推定されます。
それでも真夏に気温差14℃の冷風は十分に気持ちよく、風室内から出たくなくなります。
高さ約4mの壁が迫る。斜面の勾配の急さを実感する。
立上りの一部が切り欠かれて入口となる。石積みの階段が当時の覆い屋内の湿度を物語る。
斜面に沿って設けられた片流れの覆い屋
現地の看板には覆い屋が残っていた頃の写真があり、斜面に対して片流れの屋根が浮かんでいる様子が印象的です。
石積みは近年の整備で補修をしているということなので、昔と今とでは積み方が異なるかもしれませんが、石工の職人の手が入っていたような印象をもつ角を整えた丁寧な石積みとなっていました。
最盛期は製糸工場も三豊にはあったそうですから設備投資として、しっかりとしたものを造成しようとしていたのかもしれません。
入り口前のスペースにベンチが置いてあり、座りながら涼風を感じられる
覆い屋がまだ健在で土壁の躯体の上に、斜面に沿って片流れの屋根が浮かんでいる
志保山の風穴は急斜面をそのままくり抜いた形状になっているため、他の四国の風穴よりも大地に入り込んでいくような感覚になるのが特徴的です。
覆い屋がないのは残念ですが、逆にないことで周囲の樹木が見え、自然の中に溶け込んでいくような気持ちになります。
半地下となっていることで、そうした自然との一体感が増しつつ、覆い屋がなくとも風穴からの冷気が石組み内とどまります。
志保山の風穴は駐車場から少し離れているので、心配な方はYAMAPなどで予習してから行くと不安にならずにたどり着けるのではないかと思います。
香川県高鉢山の風穴
高松空港や満濃池からほど近いところに高鉢山はあります。「綾上富士」とも呼ばれ、讃岐七富士の一つに数えられ、どういう基準で選ばれているのかわかりませんが、
富士山の富岳風穴、秋吉台の秋芳洞内の風穴と並んで高鉢山の風穴は日本三大風穴の一つとされています。
国道377号から綾川を渡って県道182号線、県道17号線に入り、八十八茶屋というそば屋さんのところにある看板を目印に高鉢山の風穴方面へと入っていきます。
現在は閉鎖されている高鉢山キャンプ場の一画にあり、周辺にはバンガローが残されています。そのため風穴の下に車を停めて歩いていくことができます。
駐車スペースが限られているので、当日の混雑状況を鑑みながら道路に停めるかたちになります。キャンプサイトの奥側で道路が転回用に広がっているので、そのあたりも考慮しながら駐車するのが良いです。
一応、道は悪いですがまんのう町側へも抜けることができ、有名な三嶋製麺所へ行くことも可能です。
駐車場から風穴まではすぐ近くだが、そこまでの道のりが看板や目印がほとんどないので、ナビを信じて突き進むのが吉と思われる
志保山と同じように1400万年前の火山活動によって形成されたものと推定されている。上に安山岩の硬い地質層をもつキャップ構造という上下で異なる地質層をもつのが特徴
高鉢山の風穴の仕組みについてー洞穴タイプか?崖錐タイプか?
高鉢山の風穴の仕組みについて現地の看板では
その仕組みは、高鉢山の東側「ごうろう」と呼ばれる岩肌の隙間から入った風が、山の中を通っていくうちに冷やされ、風穴からでてくるためと言われています。
と高鉢山の風穴の構造の説明がなされています。この考えから推定すると洞穴タイプの風穴が風穴の入口のある北西斜面から東斜面の「ごうろう」まで続いている、もしくは内部は岩石が堆積している風洞が続いているという、山のなかを天然のトンネルが通っているということになります。
1400万年前の瀬戸内火山活動がもたらした讃岐富士の地質的特徴:硬い地質の帽子をかぶったキャップ構造
高鉢山はほかの讃岐富士や愛媛県の興居島の伊予小富士と同じように1400万年前の瀬戸内火山活動のときにできたビュート地形/キャップロック構造をしており、
下部の脆い花崗岩の上に硬い安山岩が乗っかることで、上部が急斜面、下部が緩やかな裾野をつくることで富士山のような形状が出来上がっています。
ちょうど風穴の少し上の標高の場所で切り替わるようですので、トンネルがあるとしたら、この境界面のあたりでしょうか?
個人的には、この上部の安山岩の急斜面が斜面崩壊することで崖錐が形成されて、崖錘タイプの風穴が生まれたと考えた方が現実的な気がしています。
ちょうど風穴のある北西斜面と同じように東斜面の断面も安山岩の急斜面、花崗岩の緩斜面と二つをつなぐ崖錐と思われる中間の斜面によって構成されており、
これを「ごうろう」と呼んでいる可能性も十分にあるように思えます。
風穴からの冷気を逃さないようにする様々な工夫
上林の風穴や志保山の風穴の石組みが単純な矩形をしていたのに対して、高鉢山の風穴の石組みは前室のような廊下があり、そこを抜けて折れ曲がってから、メインの風穴の部屋へたどり着く平面構成となっています。
高鉢山の風穴には当時の覆い屋がない代わりに、簡易な木造の屋根が石垣の上に載せてあります。
当時に覆い屋の写真や図面が出てこないのでどのような覆い屋が建っていたのかはわかりませんが、
大成の風穴の復元された覆い屋をみると、前室となる折れ曲がる廊下まで屋根が掛かっているので、高鉢山の風穴の前室の廊下まで屋根が掛かっていた可能性が高いように思えます。
この前室があることで風穴の冷気が外へ漏れ出にくくしていると考えられます。
また外観として前室の石垣は見えますが、メインの風穴の部屋の石組みは土に埋もれて見えなくなっています。
これは土に埋めることで土の熱容量と土を断熱層として利用して外気の影響を抑えることが意図されているものと思われます。
さらに風穴の部屋は1mほど掘り下げられて半地下となっています。こうすることで下部に冷気を貯め、少しでも逃がさないように工夫がなされています。
冷気とは関係ないと思いますが、高鉢山の風穴の石組みは角が丸められているのが特徴的です。この配慮は内隅だけでなくて、外隅にも見られて外観に柔らかさを与えています。
角を丸くした方が空気の流れに無駄がなくなり良いですが、冷気を逃がしたくないこととは矛盾するので、狭い場所での物の出し入れなどへの配慮から、こうした工夫があるのかもしれません。
愛媛県大成の風穴群
愛媛県久万高原のなかでも奥地の旧面河村の大成の石鎚山脈の一部に大成風穴群はあります。
面河は石鎚山の面河ルートへつながり仁淀ブルーで有名な仁淀川の源流である面河渓や石鎚スカイラインによって高知側からの石鎚山への玄関口である土小屋へと通じており、豊かな自然景観を堪能することができます。
標高がそもそも高いので夏でも松山との気温差が4-6℃近くあり現地を訪れたときも8月末の外気温が26-28℃程度でした(松山は32-34℃程度)。風穴へ行く前からすでに涼しいですし、川の水が本当に冷たいです。
大成の看板を目印に集落への道に入り大成神宮を越え風穴への遊歩道の看板前に駐車する。遊歩道は200m程度(徒歩5分程度)。簡単な山歩きできる状態が好ましい。
他三つの風穴が安山岩と花崗岩の地質構成であるのに対して、ここは変成岩で中央構造線の南側に位置する。
大成風穴のある場所は、昔から掘ると夏でも氷が取れる場所として知られており、日本の絹の生糸生産が本格化しはじめる1900年頃(明治30年代)から蚕種保存のために利用され、現在のようなかたちへと整えられていきました。
大成の風穴群という名前の通り、風穴は一つだけでなく三つあります。
1号風穴は上林の風穴のように地面を掘り込んで石組みで固めた構造のもの、
2号風穴は高鉢山の風穴のように前室の廊下がある構造で風穴の部屋が斜面に埋められた構造のものです。
最後の3つ目は温風穴となっており、他の二つの出口になるのか?別の風穴とつながっているのか?はわかりませんが冬に温風を吹き出す出口側となっています。
敷地内には科戸大神/級長戸辺命が祀られております。級長戸辺命は伊勢神宮の内宮・外宮にも祀られる、元寇の際に神風を吹かせた神様とも言われている風の神様です。
復元された覆い屋
大成の風穴を四国のほかの風穴と分ける特徴は復元された覆い屋です。
標高が高く積雪地帯である面河の大成はそもそも風穴の冷却能力が高いものと思いますが、覆い屋があることでその冷気を逃がさず、実際に当時の天然の冷蔵庫がどれほどの能力を持っていたのかを身をもって体験することができます。
地下を掘って涼風の通気層を利用した1号風穴
駐車スペースに車を停めて、風穴までの簡易な登山道を5分ほど登るとコンクリートブロック積みの1号風穴が見えてきます。
明治時代につくられた当時の覆い屋もコンクリートブロック積みであったかは不明ですが、内部空間の湿度や結露を考えると木造を現しで使うという発想はなく、高鉢山のように石積みで組まれていれば現存していたでしょうから、志保山のように土壁や版築壁でつくられていた可能性もありそうです。
入口が一つ設けられており、現在は扉がなく常開となっていますが、なにかしらの扉が本来は付いていたのではないかと思います。
内部は真っ暗で入口からの光でどうにか見えるという感じです。見学にはライトを持参した方が、出来れば置き型のものを複数もってくると内部の様子がよくわかるのではないかと思います。
天井は防湿シートと思しきものが張られていて、びっしりと表面に結露していました。
このあたりの仕様も当時はどうしていたか気になるところでした。冷気を逃さないようにするには気密が必要で、気密を取ると湿度の処理・結露水をどうするのか?天井面は悩ましく思いました。
施工性を優先した結果なのか、作業性を優先した結果なのか、風穴の石組みは2段になっていて、下部ほど強い冷気が溜まっています。ちょうど1段目が表土の厚み分で、2段目が風穴の岩石の堆積層になっているのかもしれません。
石組みの石はこのあたりで採れる変成岩と思われ、鉄分があるのか少し赤身を帯びていました。
石積みには丸太が掛けてあり、蚕種を保管する際の棚を設けたりするための下地として利用していたのかもしれません(単純に転落防止の意味合いで設置されているのかもしれませんが)。
風穴の表面温度は約8.5℃と冷蔵庫並みの冷却能力を誇っています。
斜面を切り欠いた半地下の構造物の2号風穴
こちらは1号風穴と比較して、大きな蚕種保管所となっています。
かたちは高鉢山のように前に前室のような廊下があるタイプで、高鉢山の風穴が廊下の石組みが斜面から飛び出していたのに対して、大成の風穴では廊下の石組みも半分斜面に埋まっています。上
部構造が大きいため石組みの内側に柱が落としてあります。
私が行ったときは入口の屋根?(本体とは分離した丸太を現しで掛け渡しただけのもの)が苔むして一部崩れていたり若干塞がれていましたが、潜れば入れました。
本体の躯体は常時湿潤状態で太陽光のない閉鎖空間なので外部ほどの腐食は見られません。
1号風穴が入口からの光が室内に入ってきていたのに対して、2号風穴では廊下が折れ曲がるので奥まで光がほぼに入ってこないので、こちらは本当にライトが必要です。
床は排水のために若干勾配が取ってありますが基本はフラットです。床は石が敷き詰められているので(もしくは床が堆積した岩石を整えた状態)、歩きづらいので注意してください。
暗くて写真が撮れていませんが、室温が7-10℃、表面温度5-8℃、周辺外気温26℃で、閉鎖性が高い分1号風穴よりもしっかりと冷却されていました。
温風穴については夏に行ったため、どこかは不明でしたが、こちらも斜面が石組みで保護してありました。冬の大成風穴はなかなか近寄りがたいですが、機会があれば温風穴探しをしてみたいと思います。
このように同じ四国の風穴でもその冷却能力が異なります。違いの鍵を握るのが熱交換と蓄熱、そして水の三態変化です。
風穴内の熱を出し入れする熱交換と蓄熱
水(液体)から氷(固体)、氷(固体)から水(液体)への状態変化が、冬の冷熱を風穴内に貯える
愛媛の上林や大成のような積雪地帯やそれに隣接する場所では、冬に風穴内部の気温が0℃を下回って氷がつくられて、天然の氷室(地下の地熱を利用して氷を保管しておく場所)が生まれている可能性が考えられています。
澤田結基教授によると冬に中部以北の風穴では氷がつくられている可能性が高いそうです。
皇室への絹糸の御用糸を古くから担当している愛知県稲武町では年間平均が12℃程度、冬の最低気温の平均(12-2月)が-3.3℃なので冬の最低気温の平均が0℃を下回っていれば、氷ができている可能性がありそうです。
四国の風穴に近い気象庁のデータで冬の最低気温の平均(1991-2020)を調べると、久万高原が-1.8℃、財田でおよそ1℃、多度津で3.3℃です。
実際に夏に行くと志保山の風穴(外気温30℃に対して、風穴の出口14.5℃)に比較して、高鉢山(外気温30℃:風穴10℃)や大成(外気温26℃:風穴7℃)、上林の風穴(外気温28℃:風穴5℃)とかなり低くなっていたので、
氷が出来ているか否か?というのが、風穴の冷房能力を左右するひとつの指標となるようです。
氷があった方が直観的に涼しそうというのは理解できますが、なぜ氷があるとないとで冷房能力に大きな差が生まれる原因をより詳しく知るためのヒントがゼロカーテン効果と呼ばれる水がもっている性質です。
冬の寒さを貯える水のゼロカーテン効果
水が氷に状態変化するとき、まわりに熱(エネルギー)を発散して結晶体としての結合を構成します(凝固熱)。逆に氷が水に状態変化するときは、まわりの熱を吸収して結晶体の結合を破壊して、溶けていきます(融解熱)。
最近ではこの仕組みは夏の首などに巻くクールネックリングによって日常のなかでも体感することができます。
こうした性質によって水から氷になるときは回りに熱を出して、なかなか気温が下がらず、氷から水になるときは回りの熱を吸収して、なかなか気温が上がらず、0℃付近を維持するようになることを、ゼロカーテン効果と呼びます。
水は他の物質と比較して、この凝固熱や融解熱が大きいため、より長い期間ゼロカーテン効果が生まれやすいという特徴があります。
このため一度、氷が風穴内につくられると氷が溶けにくい状態が続き、さらに厚い地面や樹木によって外気や太陽光から守られることで長期化していくことで、夏に氷の隙間を通って涼しい風が風穴から吹き出してくるようになります。
風穴から冷蔵庫へ
絹の生糸生産・養蚕が伸びていた明治時代は冷蔵庫やエアコンが社会に登場しはじめた時期でもありました。
世界中で天然の氷を北国から運んでいた時代
製氷工場が出来る前の冷蔵は氷によって低温を保つもので、函館の冬の池で氷を収穫し、氷室に貯蔵したものを日本全国に出荷していました。
アメリカでも19世紀から20世紀初めまでは北部の湖で氷を収穫したものを出荷していた時代があり(氷貿易-wikipedia)、函館の氷が全国へ出荷される前は医療用にアメリカから輸入していました。
製氷会社の登場
1889年(明治12年)に日本ではじめての製氷会社が東京にでき、天然氷よりも安価に氷がつくられるようになっていきます。
風穴や山中への氷室への氷の貯蔵に頼っていた愛媛にも1915年(大正4年)に宇和島に製氷会社ができます。
現在も西日本に唯一残る蚕種会社である愛媛蚕種が出石寺の山に氷庫をつくっていたのが山から下りて、保内町に工場を建てるのもこの頃からで、
氷を消費する八幡浜漁港に近接し、船で全国で蚕種を出荷できる立地は、蚕種経営に適していたようです(蚕種が支える養蚕の産業化より)。
明治期の日本の近代化は日米貿易による外貨が重要な役割を果たしました。その貿易の中心には絹の生糸がありました。
絹の織物生産は木綿/cottonに比べて機械生産化が難しく、職人的な風土と相まってヨーロッパでは手仕事の領域として残されていました。それに対して機械化を推し進めていたのがアメリカでした。
そこでは統一された規格・品質の原料=生糸が求められました。
大量生産のための絹の生糸の品質の統一と風穴
日本の生糸の生産量・輸出量が伸びて、品質のばらつきをなくす方向へとプレッシャーが高まれば高まるほど、蚕種の品質の安定の重要性が増していきました。こうして工業化のプロセスへ養蚕が組み込まれていくなかで風穴の養蚕への役割を終えていきました。
産業のかたち・生活のかたちが、私たちと自然との関係を定義づけていきます。
明治・大正に文化の基盤の多くを負っている現在の愛媛県にとって絹という当時の日本全国・世界に通じた素材を通して眺めることは、現在地を知る良いサンプルになるように思えました。
関連資料
愛媛県東温市上林森林公園風穴
愛媛県東温市(松山市の東隣)にある風穴で、久万高原との境にある皿ヶ嶺の中腹あたりの急こう配から緩勾配へと斜面が切り替わるところにあります。
1500万年前の石鎚火成活動によって形づくられた皿ヶ嶺連峰の安山岩が崩壊して岩石が堆積した崖錐タイプの風穴です。
令和五年に国の登録記念物(登録有形文化財の史跡名勝版)に指定されています。
皿ヶ嶺のような台地状の地形は同じように1500万年前ごろの瀬戸内火山活動によって形づくられた香川県の屋島があります。
近くの駐車場から遊歩道で150m程度/徒歩5分程度、夏は近くでそうめん流しもやっている
上部の急勾配の崖が崩壊して下部の緩斜面に体積した崖錐(グレー部)に風穴がある
日本中で行われていた養蚕
東温市(前身の重信町)では1887年(明治20年)頃に養蚕がはじまり、1930年(昭和5年)の昭和恐慌(アメリカの世界大恐慌1929年が日本に波及したもの)で生糸の輸出先であるアメリカ経済が停滞し、生糸価格が暴落するまで積極的に行われていたとされています。
戦後も山間部で養蚕が再開しましたが、復活とはなりませんでした。
東西5m、南北4.3m、深さ2.4mの石組みの穴が設けられており、現在は存在していませんが養蚕の蚕種保存に使用していた頃には上部に覆い屋が存在していたものと思われます。
石組みにはびっしりと苔が生えて、常に涼風によって気温が下がり湿度の高い状態が保たれていることがわかります。夏には外気と風穴内の気温差によって霧や靄が発生して、神秘的な風景が演出されます。
石組みが設けられた時期ははっきりしませんが明治20年代から大正期(1900年前後)の生糸輸出が増加しはじめた頃に築造されたと推定されています。
香川の風穴と比較すると上林の風穴の石組みは比較的ラフに積まれているので、もしかすると養蚕農家たちが自ら積んだものなのかもしれません。
堆積している岩石からも吹き出してくる冷風
風穴はこの石組みだけでなく、その上部の堆積している岩石からも出てきており、他の風穴の石組みを組む前の状態がどのようなだったかを想像する上でわかりやすい事例となっています。
東温市の名勝調査報告書によると下部幅25m、上部幅約50m、奥行き約30mのかなり広い範囲で吹き出していることが確認されています。
上林の風穴では石組みだけでなく上部の堆積している岩石からも涼風が吹き出す。冷たい涼風によって苔の絨毯が岩石の上に広がっている。
風穴内は9月末に最高気温約10℃、2月中旬に最低気温約-1℃で、年間の気温差およそ11℃と外気温に対して安定した温熱環境を作り出されている。
上林の風穴は石組みの周りに柵が巡らされているので他の風穴のように内部に入ることができないですが、この堆積した岩石には側までいくことができるので、直接冷風が吹き出してくることを体感することができます。
この冷風によって周囲の気温が下がり湿度が高くなることで苔が繁殖して緑の絨毯がつくられています。
四国の他の風穴では石組み部のみで涼風が吹き出してきているので、このような緑の絨毯を見ることはできないので、石組みに注目しがちで、石組みだけ見て帰ってしまう人も多いですが、この堆積した岩石の風穴もぜひ体験してみて欲しいところです。
香川県志保山の風穴
香川で養蚕は1877年(明治10年)と早い時期から東部の大川郡ではじまり、1882年(明治15年)には栗林公園に養蚕の技術指導所が設立されています。
ただあまり積極的な養蚕振興とはならずに、本格的な普及は1900年頃(明治30年頃)になってからでした。それでも全国的にみるとあまり普及はせず(総農家の12%が養蚕と、全国平均31%の半分に満たない数値)
そして東温市の養蚕と同じように1930年の昭和恐慌による生糸の暴落とともに衰退していきました。
香川で養蚕が普及しなかった要因として、養蚕のメインの時期である春蚕が冬小麦の収穫と被ることが大きかったようです。養蚕よりも麦作が重要視されたわけです。
1400万年前の安山岩の急斜面の崩壊によって生まれた風穴
吉津峠のガードレール内に駐車して、700m程度/徒歩15分程度
志保山の山頂まで登ると石組みに使った石の石切り場も見れる。
縦走すれば天空の鳥居/高原神社までいくことも可能
上部の急勾配の崖が崩壊して下部の緩斜面に堆積した崖錐(グレー部)に風穴がある
1400万年前の瀬戸内火山活動により崩落し堆積した安山岩で構成され、下部には地下水が流れていると考えられている
志保山のある三豊平野は明治-大正期に香川の養蚕が盛んに行われた地域の一つで、
日本の生糸生産・輸出が増加を続けていた1910年頃(明治40年代)に発見された志保山の風穴も養蚕の蚕種保存を目的に整えられ、現在もその石組みが残っています。
自然と一体となった斜面型の石組みの風穴
石組みの大きさは幅が約3.2m、奥行き約3.7mのおよそ6畳の広さをもち、斜面に対して手前側が半地下となって深さ1.3m、奥側の斜面を抑えている壁面が約4mの高さとなっています。
9月頭の外気温約29℃のときに風穴からの涼風の気温は約15℃、表面温度約14.5℃でした。
湿度90%以上の空気
外気の影響よりも風穴内の冷気の影響を強く受けている
日中はもっと風穴との気温差が出ると思われる
志保山に近い気象庁の多度津観測所のデータでは冬の最低気温の平均(1991-2020)が3.3℃と氷点下を上回っていることから、氷による冬の蓄熱効果が得られずに、他の風穴よりも吹き出す涼風の気温が高めとなっていると推定されます。
それでも真夏に気温差14℃の冷風は十分に気持ちよく、風室内から出たくなくなります。
高さ約4mの壁が迫る。斜面の勾配の急さを実感する。
立上りの一部が切り欠かれて入口となる。石積みの階段が当時の覆い屋内の湿度を物語る。
斜面に沿って設けられた片流れの覆い屋
現地の看板には覆い屋が残っていた頃の写真があり、斜面に対して片流れの屋根が浮かんでいる様子が印象的です。
石積みは近年の整備で補修をしているということなので、昔と今とでは積み方が異なるかもしれませんが、石工の職人の手が入っていたような印象をもつ角を整えた丁寧な石積みとなっていました。
最盛期は製糸工場も三豊にはあったそうですから設備投資として、しっかりとしたものを造成しようとしていたのかもしれません。
入り口前のスペースにベンチが置いてあり、座りながら涼風を感じられる
覆い屋がまだ健在で土壁の躯体の上に、斜面に沿って片流れの屋根が浮かんでいる
志保山の風穴は急斜面をそのままくり抜いた形状になっているため、他の四国の風穴よりも大地に入り込んでいくような感覚になるのが特徴的です。
覆い屋がないのは残念ですが、逆にないことで周囲の樹木が見え、自然の中に溶け込んでいくような気持ちになります。
半地下となっていることで、そうした自然との一体感が増しつつ、覆い屋がなくとも風穴からの冷気が石組み内とどまります。
志保山の風穴は駐車場から少し離れているので、心配な方はYAMAPなどで予習してから行くと不安にならずにたどり着けるのではないかと思います。
香川県高鉢山の風穴
高松空港や満濃池からほど近いところに高鉢山はあります。「綾上富士」とも呼ばれ、讃岐七富士の一つに数えられ、どういう基準で選ばれているのかわかりませんが、
富士山の富岳風穴、秋吉台の秋芳洞内の風穴と並んで高鉢山の風穴は日本三大風穴の一つとされています。
国道377号から綾川を渡って県道182号線、県道17号線に入り、八十八茶屋というそば屋さんのところにある看板を目印に高鉢山の風穴方面へと入っていきます。
現在は閉鎖されている高鉢山キャンプ場の一画にあり、周辺にはバンガローが残されています。そのため風穴の下に車を停めて歩いていくことができます。
駐車スペースが限られているので、当日の混雑状況を鑑みながら道路に停めるかたちになります。キャンプサイトの奥側で道路が転回用に広がっているので、そのあたりも考慮しながら駐車するのが良いです。
一応、道は悪いですがまんのう町側へも抜けることができ、有名な三嶋製麺所へ行くことも可能です。
駐車場から風穴まではすぐ近くだが、そこまでの道のりが看板や目印がほとんどないので、ナビを信じて突き進むのが吉と思われる
志保山と同じように1400万年前の火山活動によって形成されたものと推定されている。上に安山岩の硬い地質層をもつキャップ構造という上下で異なる地質層をもつのが特徴
高鉢山の風穴の仕組みについてー洞穴タイプか?崖錐タイプか?
高鉢山の風穴の仕組みについて現地の看板では
その仕組みは、高鉢山の東側「ごうろう」と呼ばれる岩肌の隙間から入った風が、山の中を通っていくうちに冷やされ、風穴からでてくるためと言われています。
と高鉢山の風穴の構造の説明がなされています。この考えから推定すると洞穴タイプの風穴が風穴の入口のある北西斜面から東斜面の「ごうろう」まで続いている、もしくは内部は岩石が堆積している風洞が続いているという、山のなかを天然のトンネルが通っているということになります。
1400万年前の瀬戸内火山活動がもたらした讃岐富士の地質的特徴:硬い地質の帽子をかぶったキャップ構造
高鉢山はほかの讃岐富士や愛媛県の興居島の伊予小富士と同じように1400万年前の瀬戸内火山活動のときにできたビュート地形/キャップロック構造をしており、
下部の脆い花崗岩の上に硬い安山岩が乗っかることで、上部が急斜面、下部が緩やかな裾野をつくることで富士山のような形状が出来上がっています。
ちょうど風穴の少し上の標高の場所で切り替わるようですので、トンネルがあるとしたら、この境界面のあたりでしょうか?
個人的には、この上部の安山岩の急斜面が斜面崩壊することで崖錐が形成されて、崖錘タイプの風穴が生まれたと考えた方が現実的な気がしています。
ちょうど風穴のある北西斜面と同じように東斜面の断面も安山岩の急斜面、花崗岩の緩斜面と二つをつなぐ崖錐と思われる中間の斜面によって構成されており、
これを「ごうろう」と呼んでいる可能性も十分にあるように思えます。
風穴からの冷気を逃さないようにする様々な工夫
上林の風穴や志保山の風穴の石組みが単純な矩形をしていたのに対して、高鉢山の風穴の石組みは前室のような廊下があり、そこを抜けて折れ曲がってから、メインの風穴の部屋へたどり着く平面構成となっています。
高鉢山の風穴には当時の覆い屋がない代わりに、簡易な木造の屋根が石垣の上に載せてあります。
当時に覆い屋の写真や図面が出てこないのでどのような覆い屋が建っていたのかはわかりませんが、
大成の風穴の復元された覆い屋をみると、前室となる折れ曲がる廊下まで屋根が掛かっているので、高鉢山の風穴の前室の廊下まで屋根が掛かっていた可能性が高いように思えます。
この前室があることで風穴の冷気が外へ漏れ出にくくしていると考えられます。
また外観として前室の石垣は見えますが、メインの風穴の部屋の石組みは土に埋もれて見えなくなっています。
これは土に埋めることで土の熱容量と土を断熱層として利用して外気の影響を抑えることが意図されているものと思われます。
さらに風穴の部屋は1mほど掘り下げられて半地下となっています。こうすることで下部に冷気を貯め、少しでも逃がさないように工夫がなされています。
冷気とは関係ないと思いますが、高鉢山の風穴の石組みは角が丸められているのが特徴的です。この配慮は内隅だけでなくて、外隅にも見られて外観に柔らかさを与えています。
角を丸くした方が空気の流れに無駄がなくなり良いですが、冷気を逃がしたくないこととは矛盾するので、狭い場所での物の出し入れなどへの配慮から、こうした工夫があるのかもしれません。
愛媛県大成の風穴群
愛媛県久万高原のなかでも奥地の旧面河村の大成の石鎚山脈の一部に大成風穴群はあります。
面河は石鎚山の面河ルートへつながり仁淀ブルーで有名な仁淀川の源流である面河渓や石鎚スカイラインによって高知側からの石鎚山への玄関口である土小屋へと通じており、豊かな自然景観を堪能することができます。
標高がそもそも高いので夏でも松山との気温差が4-6℃近くあり現地を訪れたときも8月末の外気温が26-28℃程度でした(松山は32-34℃程度)。風穴へ行く前からすでに涼しいですし、川の水が本当に冷たいです。
大成の看板を目印に集落への道に入り大成神宮を越え風穴への遊歩道の看板前に駐車する。遊歩道は200m程度(徒歩5分程度)。簡単な山歩きできる状態が好ましい。
他三つの風穴が安山岩と花崗岩の地質構成であるのに対して、ここは変成岩で中央構造線の南側に位置する。
大成風穴のある場所は、昔から掘ると夏でも氷が取れる場所として知られており、日本の絹の生糸生産が本格化しはじめる1900年頃(明治30年代)から蚕種保存のために利用され、現在のようなかたちへと整えられていきました。
大成の風穴群という名前の通り、風穴は一つだけでなく三つあります。
1号風穴は上林の風穴のように地面を掘り込んで石組みで固めた構造のもの、
2号風穴は高鉢山の風穴のように前室の廊下がある構造で風穴の部屋が斜面に埋められた構造のものです。
最後の3つ目は温風穴となっており、他の二つの出口になるのか?別の風穴とつながっているのか?はわかりませんが冬に温風を吹き出す出口側となっています。
敷地内には科戸大神/級長戸辺命が祀られております。級長戸辺命は伊勢神宮の内宮・外宮にも祀られる、元寇の際に神風を吹かせた神様とも言われている風の神様です。
復元された覆い屋
大成の風穴を四国のほかの風穴と分ける特徴は復元された覆い屋です。
標高が高く積雪地帯である面河の大成はそもそも風穴の冷却能力が高いものと思いますが、覆い屋があることでその冷気を逃がさず、実際に当時の天然の冷蔵庫がどれほどの能力を持っていたのかを身をもって体験することができます。
地下を掘って涼風の通気層を利用した1号風穴
駐車スペースに車を停めて、風穴までの簡易な登山道を5分ほど登るとコンクリートブロック積みの1号風穴が見えてきます。
明治時代につくられた当時の覆い屋もコンクリートブロック積みであったかは不明ですが、内部空間の湿度や結露を考えると木造を現しで使うという発想はなく、高鉢山のように石積みで組まれていれば現存していたでしょうから、志保山のように土壁や版築壁でつくられていた可能性もありそうです。
入口が一つ設けられており、現在は扉がなく常開となっていますが、なにかしらの扉が本来は付いていたのではないかと思います。
内部は真っ暗で入口からの光でどうにか見えるという感じです。見学にはライトを持参した方が、出来れば置き型のものを複数もってくると内部の様子がよくわかるのではないかと思います。
天井は防湿シートと思しきものが張られていて、びっしりと表面に結露していました。
このあたりの仕様も当時はどうしていたか気になるところでした。冷気を逃さないようにするには気密が必要で、気密を取ると湿度の処理・結露水をどうするのか?天井面は悩ましく思いました。
施工性を優先した結果なのか、作業性を優先した結果なのか、風穴の石組みは2段になっていて、下部ほど強い冷気が溜まっています。ちょうど1段目が表土の厚み分で、2段目が風穴の岩石の堆積層になっているのかもしれません。
石組みの石はこのあたりで採れる変成岩と思われ、鉄分があるのか少し赤身を帯びていました。
石積みには丸太が掛けてあり、蚕種を保管する際の棚を設けたりするための下地として利用していたのかもしれません(単純に転落防止の意味合いで設置されているのかもしれませんが)。
風穴の表面温度は約8.5℃と冷蔵庫並みの冷却能力を誇っています。
斜面を切り欠いた半地下の構造物の2号風穴
こちらは1号風穴と比較して、大きな蚕種保管所となっています。
かたちは高鉢山のように前に前室のような廊下があるタイプで、高鉢山の風穴が廊下の石組みが斜面から飛び出していたのに対して、大成の風穴では廊下の石組みも半分斜面に埋まっています。上
部構造が大きいため石組みの内側に柱が落としてあります。
私が行ったときは入口の屋根?(本体とは分離した丸太を現しで掛け渡しただけのもの)が苔むして一部崩れていたり若干塞がれていましたが、潜れば入れました。
本体の躯体は常時湿潤状態で太陽光のない閉鎖空間なので外部ほどの腐食は見られません。
1号風穴が入口からの光が室内に入ってきていたのに対して、2号風穴では廊下が折れ曲がるので奥まで光がほぼに入ってこないので、こちらは本当にライトが必要です。
床は排水のために若干勾配が取ってありますが基本はフラットです。床は石が敷き詰められているので(もしくは床が堆積した岩石を整えた状態)、歩きづらいので注意してください。
暗くて写真が撮れていませんが、室温が7-10℃、表面温度5-8℃、周辺外気温26℃で、閉鎖性が高い分1号風穴よりもしっかりと冷却されていました。
温風穴については夏に行ったため、どこかは不明でしたが、こちらも斜面が石組みで保護してありました。冬の大成風穴はなかなか近寄りがたいですが、機会があれば温風穴探しをしてみたいと思います。
このように同じ四国の風穴でもその冷却能力が異なります。違いの鍵を握るのが熱交換と蓄熱、そして水の三態変化です。
風穴内の熱を出し入れする熱交換と蓄熱
水(液体)から氷(固体)、氷(固体)から水(液体)への状態変化が、冬の冷熱を風穴内に貯える
愛媛の上林や大成のような積雪地帯やそれに隣接する場所では、冬に風穴内部の気温が0℃を下回って氷がつくられて、天然の氷室(地下の地熱を利用して氷を保管しておく場所)が生まれている可能性が考えられています。
澤田結基教授によると冬に中部以北の風穴では氷がつくられている可能性が高いそうです。
皇室への絹糸の御用糸を古くから担当している愛知県稲武町では年間平均が12℃程度、冬の最低気温の平均(12-2月)が-3.3℃なので冬の最低気温の平均が0℃を下回っていれば、氷ができている可能性がありそうです。
四国の風穴に近い気象庁のデータで冬の最低気温の平均(1991-2020)を調べると、久万高原が-1.8℃、財田でおよそ1℃、多度津で3.3℃です。
実際に夏に行くと志保山の風穴(外気温30℃に対して、風穴の出口14.5℃)に比較して、高鉢山(外気温30℃:風穴10℃)や大成(外気温26℃:風穴7℃)、上林の風穴(外気温28℃:風穴5℃)とかなり低くなっていたので、
氷が出来ているか否か?というのが、風穴の冷房能力を左右するひとつの指標となるようです。
氷があった方が直観的に涼しそうというのは理解できますが、なぜ氷があるとないとで冷房能力に大きな差が生まれる原因をより詳しく知るためのヒントがゼロカーテン効果と呼ばれる水がもっている性質です。
冬の寒さを貯える水のゼロカーテン効果
水が氷に状態変化するとき、まわりに熱(エネルギー)を発散して結晶体としての結合を構成します(凝固熱)。逆に氷が水に状態変化するときは、まわりの熱を吸収して結晶体の結合を破壊して、溶けていきます(融解熱)。
最近ではこの仕組みは夏の首などに巻くクールネックリングによって日常のなかでも体感することができます。
こうした性質によって水から氷になるときは回りに熱を出して、なかなか気温が下がらず、氷から水になるときは回りの熱を吸収して、なかなか気温が上がらず、0℃付近を維持するようになることを、ゼロカーテン効果と呼びます。
水は他の物質と比較して、この凝固熱や融解熱が大きいため、より長い期間ゼロカーテン効果が生まれやすいという特徴があります。
このため一度、氷が風穴内につくられると氷が溶けにくい状態が続き、さらに厚い地面や樹木によって外気や太陽光から守られることで長期化していくことで、夏に氷の隙間を通って涼しい風が風穴から吹き出してくるようになります。
風穴から冷蔵庫へ
絹の生糸生産・養蚕が伸びていた明治時代は冷蔵庫やエアコンが社会に登場しはじめた時期でもありました。
世界中で天然の氷を北国から運んでいた時代
製氷工場が出来る前の冷蔵は氷によって低温を保つもので、函館の冬の池で氷を収穫し、氷室に貯蔵したものを日本全国に出荷していました。
アメリカでも19世紀から20世紀初めまでは北部の湖で氷を収穫したものを出荷していた時代があり(氷貿易-wikipedia)、函館の氷が全国へ出荷される前は医療用にアメリカから輸入していました。
製氷会社の登場
1889年(明治12年)に日本ではじめての製氷会社が東京にでき、天然氷よりも安価に氷がつくられるようになっていきます。
風穴や山中への氷室への氷の貯蔵に頼っていた愛媛にも1915年(大正4年)に宇和島に製氷会社ができます。
現在も西日本に唯一残る蚕種会社である愛媛蚕種が出石寺の山に氷庫をつくっていたのが山から下りて、保内町に工場を建てるのもこの頃からで、
氷を消費する八幡浜漁港に近接し、船で全国で蚕種を出荷できる立地は、蚕種経営に適していたようです(蚕種が支える養蚕の産業化より)。
明治期の日本の近代化は日米貿易による外貨が重要な役割を果たしました。その貿易の中心には絹の生糸がありました。
絹の織物生産は木綿/cottonに比べて機械生産化が難しく、職人的な風土と相まってヨーロッパでは手仕事の領域として残されていました。それに対して機械化を推し進めていたのがアメリカでした。
そこでは統一された規格・品質の原料=生糸が求められました。
大量生産のための絹の生糸の品質の統一と風穴
日本の生糸の生産量・輸出量が伸びて、品質のばらつきをなくす方向へとプレッシャーが高まれば高まるほど、蚕種の品質の安定の重要性が増していきました。こうして工業化のプロセスへ養蚕が組み込まれていくなかで風穴の養蚕への役割を終えていきました。
産業のかたち・生活のかたちが、私たちと自然との関係を定義づけていきます。
明治・大正に文化の基盤の多くを負っている現在の愛媛県にとって絹という当時の日本全国・世界に通じた素材を通して眺めることは、現在地を知る良いサンプルになるように思えました。
関連資料
風穴で保存された蚕のたまご=蚕種
次はこの風穴で保存されていた蚕のたまご=蚕種(サンシュ)についてです。養蚕という言葉を聞く機会もほとんどなくなり、絹/silkと関係のある言葉であることも知らない人も多いと思います。
なので何故?蚕種を保存する必要があったのか?というところを見ていきたいと思います。
一年に何回も繭を取って生産量を高めたい
蚕(家蚕)は絹を取るために家畜化・品種改良された虫で、人間の手がなければ生きていくことができません。
野生の蚕を野蚕と呼び、インドやアフリカなどでその繭から絹をつくっている地域があり、アニマルウェアネスの観点で注目を集めています。
日本の蚕は年に一度の世代交代が基本だった
昆虫は一年間のあいだに何度も卵を産んで世代交代のサイクルを繰り返すタイプ(家の中で何度も世代交代するチャバネゴキブリなど)と年に一度だけ孵化して成虫になり卵を産んで休眠するタイプ(こどもたちが大好きなカブトムシなど)がいます。
日本の蚕は年に一度か二度の世代交代をして、卵の状態で休眠しながら越冬して、春になって温かくなると孵化します。なので春に蚕を育てて繭を取る春蚕が一般的でした。
1か月に4回脱皮して繭へ
春に孵化した蚕は桑の葉を食べながら成長して糸を吐き出して繭をつくるまでの1か月のあいだに、およそ4回ほど脱皮をします。
繭になった蚕は、糸を紡ぐために釜茹でされて成虫になる前にそのまま死んでしまいます。昔はこの繭のなかの蚕を昆虫食の貴重なたんぱく源として食用していた地域もあったそうです。
孵化のタイミングをコントロールする催青
熱帯などの暖かい地域では越冬の必要がないため年に何回も繭が取れる品種の蚕が使われていますが、日本の四季がこうした養蚕の仕組みを必要としました。
そのなかで年に何回も繭を取ろうとすると、越冬している卵の冬眠期間を長くして、夏前や、秋に孵化が出来れば、春に限らずに繭を取ることが可能になります。
こうして生まれたのが低温下で卵を保存する技術と好みのタイミングで孵化させる催青という技術でした。タイミング調整に重要なのは温度と光の制御でした。
冬眠-孵化の周期のため繭の生産は限定的
孵化のタイミングを調整することでより多くの繭を生産可能になる。
孵化のタイミングがコントロールできることは出荷量のバラツキや品質管理の手間を抑える点でも有利でした。地域の蚕の卵が一斉に孵化すれば、繭になるタイミングも揃うので、生糸に製糸するタイミングも揃い、製糸工場の稼働も安定します。
催青環境に適していた風穴
こうした卵の保存には、春の訪れを卵が感じない、低温で安定していて、湿らない(同時に乾燥しない)、光が届かない、刺激のない静かなところが良いとされ、山中にある風穴は、自然条件のなかでこれらの要素を満たすには最適な場所だったのです。
風穴の基本的な仕組み・蚕種のことを理解したところで、四国のそれぞれの風穴をみていきます。
愛媛県東温市上林森林公園風穴
愛媛県東温市(松山市の東隣)にある風穴で、久万高原との境にある皿ヶ嶺の中腹あたりの急こう配から緩勾配へと斜面が切り替わるところにあります。
1500万年前の石鎚火成活動によって形づくられた皿ヶ嶺連峰の安山岩が崩壊して岩石が堆積した崖錐タイプの風穴です。
令和五年に国の登録記念物(登録有形文化財の史跡名勝版)に指定されています。
皿ヶ嶺のような台地状の地形は同じように1500万年前ごろの瀬戸内火山活動によって形づくられた香川県の屋島があります。
近くの駐車場から遊歩道で150m程度/徒歩5分程度、夏は近くでそうめん流しもやっている
上部の急勾配の崖が崩壊して下部の緩斜面に体積した崖錐(グレー部)に風穴がある
日本中で行われていた養蚕
東温市(前身の重信町)では1887年(明治20年)頃に養蚕がはじまり、1930年(昭和5年)の昭和恐慌(アメリカの世界大恐慌1929年が日本に波及したもの)で生糸の輸出先であるアメリカ経済が停滞し、生糸価格が暴落するまで積極的に行われていたとされています。
戦後も山間部で養蚕が再開しましたが、復活とはなりませんでした。
東西5m、南北4.3m、深さ2.4mの石組みの穴が設けられており、現在は存在していませんが養蚕の蚕種保存に使用していた頃には上部に覆い屋が存在していたものと思われます。
石組みにはびっしりと苔が生えて、常に涼風によって気温が下がり湿度の高い状態が保たれていることがわかります。夏には外気と風穴内の気温差によって霧や靄が発生して、神秘的な風景が演出されます。
石組みが設けられた時期ははっきりしませんが明治20年代から大正期(1900年前後)の生糸輸出が増加しはじめた頃に築造されたと推定されています。
香川の風穴と比較すると上林の風穴の石組みは比較的ラフに積まれているので、もしかすると養蚕農家たちが自ら積んだものなのかもしれません。
堆積している岩石からも吹き出してくる冷風
風穴はこの石組みだけでなく、その上部の堆積している岩石からも出てきており、他の風穴の石組みを組む前の状態がどのようなだったかを想像する上でわかりやすい事例となっています。
東温市の名勝調査報告書によると下部幅25m、上部幅約50m、奥行き約30mのかなり広い範囲で吹き出していることが確認されています。
上林の風穴では石組みだけでなく上部の堆積している岩石からも涼風が吹き出す。冷たい涼風によって苔の絨毯が岩石の上に広がっている。
風穴内は9月末に最高気温約10℃、2月中旬に最低気温約-1℃で、年間の気温差およそ11℃と外気温に対して安定した温熱環境を作り出されている。
上林の風穴は石組みの周りに柵が巡らされているので他の風穴のように内部に入ることができないですが、この堆積した岩石には側までいくことができるので、直接冷風が吹き出してくることを体感することができます。
この冷風によって周囲の気温が下がり湿度が高くなることで苔が繁殖して緑の絨毯がつくられています。
四国の他の風穴では石組み部のみで涼風が吹き出してきているので、このような緑の絨毯を見ることはできないので、石組みに注目しがちで、石組みだけ見て帰ってしまう人も多いですが、この堆積した岩石の風穴もぜひ体験してみて欲しいところです。
香川県志保山の風穴
香川で養蚕は1877年(明治10年)と早い時期から東部の大川郡ではじまり、1882年(明治15年)には栗林公園に養蚕の技術指導所が設立されています。
ただあまり積極的な養蚕振興とはならずに、本格的な普及は1900年頃(明治30年頃)になってからでした。それでも全国的にみるとあまり普及はせず(総農家の12%が養蚕と、全国平均31%の半分に満たない数値)
そして東温市の養蚕と同じように1930年の昭和恐慌による生糸の暴落とともに衰退していきました。
香川で養蚕が普及しなかった要因として、養蚕のメインの時期である春蚕が冬小麦の収穫と被ることが大きかったようです。養蚕よりも麦作が重要視されたわけです。
1400万年前の安山岩の急斜面の崩壊によって生まれた風穴
吉津峠のガードレール内に駐車して、700m程度/徒歩15分程度
志保山の山頂まで登ると石組みに使った石の石切り場も見れる。
縦走すれば天空の鳥居/高原神社までいくことも可能
上部の急勾配の崖が崩壊して下部の緩斜面に堆積した崖錐(グレー部)に風穴がある
1400万年前の瀬戸内火山活動により崩落し堆積した安山岩で構成され、下部には地下水が流れていると考えられている
志保山のある三豊平野は明治-大正期に香川の養蚕が盛んに行われた地域の一つで、
日本の生糸生産・輸出が増加を続けていた1910年頃(明治40年代)に発見された志保山の風穴も養蚕の蚕種保存を目的に整えられ、現在もその石組みが残っています。
自然と一体となった斜面型の石組みの風穴
石組みの大きさは幅が約3.2m、奥行き約3.7mのおよそ6畳の広さをもち、斜面に対して手前側が半地下となって深さ1.3m、奥側の斜面を抑えている壁面が約4mの高さとなっています。
9月頭の外気温約29℃のときに風穴からの涼風の気温は約15℃、表面温度約14.5℃でした。
湿度90%以上の空気
外気の影響よりも風穴内の冷気の影響を強く受けている
日中はもっと風穴との気温差が出ると思われる
志保山に近い気象庁の多度津観測所のデータでは冬の最低気温の平均(1991-2020)が3.3℃と氷点下を上回っていることから、氷による冬の蓄熱効果が得られずに、他の風穴よりも吹き出す涼風の気温が高めとなっていると推定されます。
それでも真夏に気温差14℃の冷風は十分に気持ちよく、風室内から出たくなくなります。
高さ約4mの壁が迫る。斜面の勾配の急さを実感する。
立上りの一部が切り欠かれて入口となる。石積みの階段が当時の覆い屋内の湿度を物語る。
斜面に沿って設けられた片流れの覆い屋
現地の看板には覆い屋が残っていた頃の写真があり、斜面に対して片流れの屋根が浮かんでいる様子が印象的です。
石積みは近年の整備で補修をしているということなので、昔と今とでは積み方が異なるかもしれませんが、石工の職人の手が入っていたような印象をもつ角を整えた丁寧な石積みとなっていました。
最盛期は製糸工場も三豊にはあったそうですから設備投資として、しっかりとしたものを造成しようとしていたのかもしれません。
入り口前のスペースにベンチが置いてあり、座りながら涼風を感じられる
覆い屋がまだ健在で土壁の躯体の上に、斜面に沿って片流れの屋根が浮かんでいる
志保山の風穴は急斜面をそのままくり抜いた形状になっているため、他の四国の風穴よりも大地に入り込んでいくような感覚になるのが特徴的です。
覆い屋がないのは残念ですが、逆にないことで周囲の樹木が見え、自然の中に溶け込んでいくような気持ちになります。
半地下となっていることで、そうした自然との一体感が増しつつ、覆い屋がなくとも風穴からの冷気が石組み内とどまります。
志保山の風穴は駐車場から少し離れているので、心配な方はYAMAPなどで予習してから行くと不安にならずにたどり着けるのではないかと思います。
香川県高鉢山の風穴
高松空港や満濃池からほど近いところに高鉢山はあります。「綾上富士」とも呼ばれ、讃岐七富士の一つに数えられ、どういう基準で選ばれているのかわかりませんが、
富士山の富岳風穴、秋吉台の秋芳洞内の風穴と並んで高鉢山の風穴は日本三大風穴の一つとされています。
国道377号から綾川を渡って県道182号線、県道17号線に入り、八十八茶屋というそば屋さんのところにある看板を目印に高鉢山の風穴方面へと入っていきます。
現在は閉鎖されている高鉢山キャンプ場の一画にあり、周辺にはバンガローが残されています。そのため風穴の下に車を停めて歩いていくことができます。
駐車スペースが限られているので、当日の混雑状況を鑑みながら道路に停めるかたちになります。キャンプサイトの奥側で道路が転回用に広がっているので、そのあたりも考慮しながら駐車するのが良いです。
一応、道は悪いですがまんのう町側へも抜けることができ、有名な三嶋製麺所へ行くことも可能です。
駐車場から風穴まではすぐ近くだが、そこまでの道のりが看板や目印がほとんどないので、ナビを信じて突き進むのが吉と思われる
志保山と同じように1400万年前の火山活動によって形成されたものと推定されている。上に安山岩の硬い地質層をもつキャップ構造という上下で異なる地質層をもつのが特徴
高鉢山の風穴の仕組みについてー洞穴タイプか?崖錐タイプか?
高鉢山の風穴の仕組みについて現地の看板では
その仕組みは、高鉢山の東側「ごうろう」と呼ばれる岩肌の隙間から入った風が、山の中を通っていくうちに冷やされ、風穴からでてくるためと言われています。
と高鉢山の風穴の構造の説明がなされています。この考えから推定すると洞穴タイプの風穴が風穴の入口のある北西斜面から東斜面の「ごうろう」まで続いている、もしくは内部は岩石が堆積している風洞が続いているという、山のなかを天然のトンネルが通っているということになります。
1400万年前の瀬戸内火山活動がもたらした讃岐富士の地質的特徴:硬い地質の帽子をかぶったキャップ構造
高鉢山はほかの讃岐富士や愛媛県の興居島の伊予小富士と同じように1400万年前の瀬戸内火山活動のときにできたビュート地形/キャップロック構造をしており、
下部の脆い花崗岩の上に硬い安山岩が乗っかることで、上部が急斜面、下部が緩やかな裾野をつくることで富士山のような形状が出来上がっています。
ちょうど風穴の少し上の標高の場所で切り替わるようですので、トンネルがあるとしたら、この境界面のあたりでしょうか?
個人的には、この上部の安山岩の急斜面が斜面崩壊することで崖錐が形成されて、崖錘タイプの風穴が生まれたと考えた方が現実的な気がしています。
ちょうど風穴のある北西斜面と同じように東斜面の断面も安山岩の急斜面、花崗岩の緩斜面と二つをつなぐ崖錐と思われる中間の斜面によって構成されており、
これを「ごうろう」と呼んでいる可能性も十分にあるように思えます。
風穴からの冷気を逃さないようにする様々な工夫
上林の風穴や志保山の風穴の石組みが単純な矩形をしていたのに対して、高鉢山の風穴の石組みは前室のような廊下があり、そこを抜けて折れ曲がってから、メインの風穴の部屋へたどり着く平面構成となっています。
高鉢山の風穴には当時の覆い屋がない代わりに、簡易な木造の屋根が石垣の上に載せてあります。
当時に覆い屋の写真や図面が出てこないのでどのような覆い屋が建っていたのかはわかりませんが、
大成の風穴の復元された覆い屋をみると、前室となる折れ曲がる廊下まで屋根が掛かっているので、高鉢山の風穴の前室の廊下まで屋根が掛かっていた可能性が高いように思えます。
この前室があることで風穴の冷気が外へ漏れ出にくくしていると考えられます。
また外観として前室の石垣は見えますが、メインの風穴の部屋の石組みは土に埋もれて見えなくなっています。
これは土に埋めることで土の熱容量と土を断熱層として利用して外気の影響を抑えることが意図されているものと思われます。
さらに風穴の部屋は1mほど掘り下げられて半地下となっています。こうすることで下部に冷気を貯め、少しでも逃がさないように工夫がなされています。
冷気とは関係ないと思いますが、高鉢山の風穴の石組みは角が丸められているのが特徴的です。この配慮は内隅だけでなくて、外隅にも見られて外観に柔らかさを与えています。
角を丸くした方が空気の流れに無駄がなくなり良いですが、冷気を逃がしたくないこととは矛盾するので、狭い場所での物の出し入れなどへの配慮から、こうした工夫があるのかもしれません。
愛媛県大成の風穴群
愛媛県久万高原のなかでも奥地の旧面河村の大成の石鎚山脈の一部に大成風穴群はあります。
面河は石鎚山の面河ルートへつながり仁淀ブルーで有名な仁淀川の源流である面河渓や石鎚スカイラインによって高知側からの石鎚山への玄関口である土小屋へと通じており、豊かな自然景観を堪能することができます。
標高がそもそも高いので夏でも松山との気温差が4-6℃近くあり現地を訪れたときも8月末の外気温が26-28℃程度でした(松山は32-34℃程度)。風穴へ行く前からすでに涼しいですし、川の水が本当に冷たいです。
大成の看板を目印に集落への道に入り大成神宮を越え風穴への遊歩道の看板前に駐車する。遊歩道は200m程度(徒歩5分程度)。簡単な山歩きできる状態が好ましい。
他三つの風穴が安山岩と花崗岩の地質構成であるのに対して、ここは変成岩で中央構造線の南側に位置する。
大成風穴のある場所は、昔から掘ると夏でも氷が取れる場所として知られており、日本の絹の生糸生産が本格化しはじめる1900年頃(明治30年代)から蚕種保存のために利用され、現在のようなかたちへと整えられていきました。
大成の風穴群という名前の通り、風穴は一つだけでなく三つあります。
1号風穴は上林の風穴のように地面を掘り込んで石組みで固めた構造のもの、
2号風穴は高鉢山の風穴のように前室の廊下がある構造で風穴の部屋が斜面に埋められた構造のものです。
最後の3つ目は温風穴となっており、他の二つの出口になるのか?別の風穴とつながっているのか?はわかりませんが冬に温風を吹き出す出口側となっています。
敷地内には科戸大神/級長戸辺命が祀られております。級長戸辺命は伊勢神宮の内宮・外宮にも祀られる、元寇の際に神風を吹かせた神様とも言われている風の神様です。
復元された覆い屋
大成の風穴を四国のほかの風穴と分ける特徴は復元された覆い屋です。
標高が高く積雪地帯である面河の大成はそもそも風穴の冷却能力が高いものと思いますが、覆い屋があることでその冷気を逃がさず、実際に当時の天然の冷蔵庫がどれほどの能力を持っていたのかを身をもって体験することができます。
地下を掘って涼風の通気層を利用した1号風穴
駐車スペースに車を停めて、風穴までの簡易な登山道を5分ほど登るとコンクリートブロック積みの1号風穴が見えてきます。
明治時代につくられた当時の覆い屋もコンクリートブロック積みであったかは不明ですが、内部空間の湿度や結露を考えると木造を現しで使うという発想はなく、高鉢山のように石積みで組まれていれば現存していたでしょうから、志保山のように土壁や版築壁でつくられていた可能性もありそうです。
入口が一つ設けられており、現在は扉がなく常開となっていますが、なにかしらの扉が本来は付いていたのではないかと思います。
内部は真っ暗で入口からの光でどうにか見えるという感じです。見学にはライトを持参した方が、出来れば置き型のものを複数もってくると内部の様子がよくわかるのではないかと思います。
天井は防湿シートと思しきものが張られていて、びっしりと表面に結露していました。
このあたりの仕様も当時はどうしていたか気になるところでした。冷気を逃さないようにするには気密が必要で、気密を取ると湿度の処理・結露水をどうするのか?天井面は悩ましく思いました。
施工性を優先した結果なのか、作業性を優先した結果なのか、風穴の石組みは2段になっていて、下部ほど強い冷気が溜まっています。ちょうど1段目が表土の厚み分で、2段目が風穴の岩石の堆積層になっているのかもしれません。
石組みの石はこのあたりで採れる変成岩と思われ、鉄分があるのか少し赤身を帯びていました。
石積みには丸太が掛けてあり、蚕種を保管する際の棚を設けたりするための下地として利用していたのかもしれません(単純に転落防止の意味合いで設置されているのかもしれませんが)。
風穴の表面温度は約8.5℃と冷蔵庫並みの冷却能力を誇っています。
斜面を切り欠いた半地下の構造物の2号風穴
こちらは1号風穴と比較して、大きな蚕種保管所となっています。
かたちは高鉢山のように前に前室のような廊下があるタイプで、高鉢山の風穴が廊下の石組みが斜面から飛び出していたのに対して、大成の風穴では廊下の石組みも半分斜面に埋まっています。上
部構造が大きいため石組みの内側に柱が落としてあります。
私が行ったときは入口の屋根?(本体とは分離した丸太を現しで掛け渡しただけのもの)が苔むして一部崩れていたり若干塞がれていましたが、潜れば入れました。
本体の躯体は常時湿潤状態で太陽光のない閉鎖空間なので外部ほどの腐食は見られません。
1号風穴が入口からの光が室内に入ってきていたのに対して、2号風穴では廊下が折れ曲がるので奥まで光がほぼに入ってこないので、こちらは本当にライトが必要です。
床は排水のために若干勾配が取ってありますが基本はフラットです。床は石が敷き詰められているので(もしくは床が堆積した岩石を整えた状態)、歩きづらいので注意してください。
暗くて写真が撮れていませんが、室温が7-10℃、表面温度5-8℃、周辺外気温26℃で、閉鎖性が高い分1号風穴よりもしっかりと冷却されていました。
温風穴については夏に行ったため、どこかは不明でしたが、こちらも斜面が石組みで保護してありました。冬の大成風穴はなかなか近寄りがたいですが、機会があれば温風穴探しをしてみたいと思います。
このように同じ四国の風穴でもその冷却能力が異なります。違いの鍵を握るのが熱交換と蓄熱、そして水の三態変化です。
風穴内の熱を出し入れする熱交換と蓄熱
水(液体)から氷(固体)、氷(固体)から水(液体)への状態変化が、冬の冷熱を風穴内に貯える
愛媛の上林や大成のような積雪地帯やそれに隣接する場所では、冬に風穴内部の気温が0℃を下回って氷がつくられて、天然の氷室(地下の地熱を利用して氷を保管しておく場所)が生まれている可能性が考えられています。
澤田結基教授によると冬に中部以北の風穴では氷がつくられている可能性が高いそうです。
皇室への絹糸の御用糸を古くから担当している愛知県稲武町では年間平均が12℃程度、冬の最低気温の平均(12-2月)が-3.3℃なので冬の最低気温の平均が0℃を下回っていれば、氷ができている可能性がありそうです。
四国の風穴に近い気象庁のデータで冬の最低気温の平均(1991-2020)を調べると、久万高原が-1.8℃、財田でおよそ1℃、多度津で3.3℃です。
実際に夏に行くと志保山の風穴(外気温30℃に対して、風穴の出口14.5℃)に比較して、高鉢山(外気温30℃:風穴10℃)や大成(外気温26℃:風穴7℃)、上林の風穴(外気温28℃:風穴5℃)とかなり低くなっていたので、
氷が出来ているか否か?というのが、風穴の冷房能力を左右するひとつの指標となるようです。
氷があった方が直観的に涼しそうというのは理解できますが、なぜ氷があるとないとで冷房能力に大きな差が生まれる原因をより詳しく知るためのヒントがゼロカーテン効果と呼ばれる水がもっている性質です。
冬の寒さを貯える水のゼロカーテン効果
水が氷に状態変化するとき、まわりに熱(エネルギー)を発散して結晶体としての結合を構成します(凝固熱)。逆に氷が水に状態変化するときは、まわりの熱を吸収して結晶体の結合を破壊して、溶けていきます(融解熱)。
最近ではこの仕組みは夏の首などに巻くクールネックリングによって日常のなかでも体感することができます。
こうした性質によって水から氷になるときは回りに熱を出して、なかなか気温が下がらず、氷から水になるときは回りの熱を吸収して、なかなか気温が上がらず、0℃付近を維持するようになることを、ゼロカーテン効果と呼びます。
水は他の物質と比較して、この凝固熱や融解熱が大きいため、より長い期間ゼロカーテン効果が生まれやすいという特徴があります。
このため一度、氷が風穴内につくられると氷が溶けにくい状態が続き、さらに厚い地面や樹木によって外気や太陽光から守られることで長期化していくことで、夏に氷の隙間を通って涼しい風が風穴から吹き出してくるようになります。
風穴から冷蔵庫へ
絹の生糸生産・養蚕が伸びていた明治時代は冷蔵庫やエアコンが社会に登場しはじめた時期でもありました。
世界中で天然の氷を北国から運んでいた時代
製氷工場が出来る前の冷蔵は氷によって低温を保つもので、函館の冬の池で氷を収穫し、氷室に貯蔵したものを日本全国に出荷していました。
アメリカでも19世紀から20世紀初めまでは北部の湖で氷を収穫したものを出荷していた時代があり(氷貿易-wikipedia)、函館の氷が全国へ出荷される前は医療用にアメリカから輸入していました。
製氷会社の登場
1889年(明治12年)に日本ではじめての製氷会社が東京にでき、天然氷よりも安価に氷がつくられるようになっていきます。
風穴や山中への氷室への氷の貯蔵に頼っていた愛媛にも1915年(大正4年)に宇和島に製氷会社ができます。
現在も西日本に唯一残る蚕種会社である愛媛蚕種が出石寺の山に氷庫をつくっていたのが山から下りて、保内町に工場を建てるのもこの頃からで、
氷を消費する八幡浜漁港に近接し、船で全国で蚕種を出荷できる立地は、蚕種経営に適していたようです(蚕種が支える養蚕の産業化より)。
明治期の日本の近代化は日米貿易による外貨が重要な役割を果たしました。その貿易の中心には絹の生糸がありました。
絹の織物生産は木綿/cottonに比べて機械生産化が難しく、職人的な風土と相まってヨーロッパでは手仕事の領域として残されていました。それに対して機械化を推し進めていたのがアメリカでした。
そこでは統一された規格・品質の原料=生糸が求められました。
大量生産のための絹の生糸の品質の統一と風穴
日本の生糸の生産量・輸出量が伸びて、品質のばらつきをなくす方向へとプレッシャーが高まれば高まるほど、蚕種の品質の安定の重要性が増していきました。こうして工業化のプロセスへ養蚕が組み込まれていくなかで風穴の養蚕への役割を終えていきました。
産業のかたち・生活のかたちが、私たちと自然との関係を定義づけていきます。
明治・大正に文化の基盤の多くを負っている現在の愛媛県にとって絹という当時の日本全国・世界に通じた素材を通して眺めることは、現在地を知る良いサンプルになるように思えました。

