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雨の少ない愛媛と香川の水の知恵のランドスケープデザイン

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湧水泉_模式図(断面) 河川の近くの地面を掘り下げることで、川底の帯水層の水を湧出させて、水を得る。

伊予/愛媛と讃岐/香川は全国的に見ても雨が少ない地域となっています。これは「雨が多い高知と雨が少ない高松 四国 の気候と地形と建築」で書いたように四国山脈の雨陰地帯となっていることが影響しています。西日本一の高さを誇る石鎚山をはじめとした2000m近い山々が四国を東西に長く延びていることで、この山々の壁が夏には南の太平洋からの湿った空気を抑えて、冬は中国山地という山々の壁が日本海からの湿った空気の壁となって、年間を通して降雨量が少なくなっています。
雨が多い土佐/高知に対して、伊予/松山や讃岐/高松と似たような降雨量帯の位置にある阿波/徳島は四国山地のあいだを縫って下る吉野川や勝浦川の河口に位置するため降雨量自体は多くないものの、利用可能な水は多いという水に恵まれた環境にあり(こうした特性が藍文化を育みました)、3階までの水道管からの直送を可能としています。山と海が近い四国の街のなかでも特異な存在です。そしてこの吉野川の上流部、四国の臍に位置する多雨地帯、高知県大川村の早明浦ダムを中心として開発された香川用水に香川県の水道使用量の半分は依存しており、香川県の戦後の人口増加は四国の中央部のダム開発に支えられているという現状があります。(水を多く利用する製紙業が盛んな愛媛県四国中央市も吉野川の恩恵を受けています)

四国のなかで人口が一番多い松山も毎年のように水不足に悩まされます。徳島が吉野川や勝浦川によって多雨地帯の水が運ばれてくるのに対して、松山はその多くを仁淀川によって高知側へ運ばれてゆくため(現在では面河川ダムによって送水され工業用水・農業用水として使われている)、その恩恵を十分に受けてきていないこと。そして水瓶となっている石手川が想定した人口を超える人口増加によって計画破綻をきたしていることによっています。そうした水不足への対応として水道の水圧が低めに設定され、3階以上の階への圧送には別途増圧ポンプをかませる仕様になっています。こうした努力の結果、政令指定都市・中核都市でもトップクラスの水道水の有効利用率、一人当たりの節水量(低い平均給水量)を誇っています。(愛媛県の水事情_愛媛県土木部

地表に降った雨を無駄なく使う知恵 ため池

ため池_台地池
谷を堰き止める台地池タイプ
ため池
盛土してつくる皿池タイプ

日本の降雨は年間を通して一定ではなく、梅雨から夏にかけて集中的に雨が降るという特徴を持っています。そのため、雨が降らない時期にも水を使えるようにする必要が出てきます。特に田んぼのように水を大量に使う作物の場合は水の確保が大変重要です。

飛行機で四国の上空へ飛ぶと眼につくのが無数のため池です。特に河川が短い香川県の各平野部、愛媛県の古くからの歴史がある北条や伊予市、東温市の平野部で目立ちます。灌漑用ため池として日本一の規模を誇る香川県まんのう町の満濃池は飛鳥時代に築造され、空海によって奈良時代に改修された歴史からもわかるように、非常に古くからある灌漑技術です。古墳などを造成していた土木技術から考えれば、かなり素朴な技術だったと考えて良いと思います。

ため池の種類 台地池 と 皿池

ため池は大きく二種類、谷を堰き止めてつくられる「台地池」と平らな土地の四方に堤防を築き上げてつくる「皿池」があります。前者は現在のダムと似たような考え方ですが、実はこちらの方が古くから行われてきた手法で、.満濃池もこの方法です。理由としては色々とあると思いますが、ため池の造営技術以上に新田開発の土木技術がまだ乏しかったため「皿池」のように水が少ない平地で作物を育てるというニーズが少なかったためではないかと思います。逆に「台地池」はそもそもの川の流れを堰き止めるので、もともと水の流れがある=水路供給網が少なからず存在する場所の水の無駄な流出を食い止めて、利用率を高めるので、古い時代に築かれたケースが多いのではないかと思います。

ため池:台地の際の谷を堰き止めた台地池
台地の際の谷を堰き止めた台地池
ため池:平地の池などの四方を盛り上げた皿池
平地の池などの四方を盛り上げた皿池

水のカスケード利用 親池・子池・孫池

「皿池」の数が大きく増加するのは新田開発が活発となってくる江戸時代からです。こうして増えていったため池たちは水路を通して結ばれてネットワーク化して、より水を無駄遣いしないように進化していきます。親池・子池・孫池と上流の田で使った水を下流で再び受けて、水をカスケード利用していくのです。

香川のため池
さぬきの航空写真(地理院地図):平野部にいくつもの青い粒/ため池が散らばり、水路を通して結びつく

コミュニティ資源を民主的に最大限に活用する仕組み 番水制

平六渇水と呼ばれる平成6年(1994年)の大渇水における香川での農家さんたちの節水努力によって、都市用水を維持した取り組みがミツカンの機関紙「水の文化」にて取り上げられています。当時はすでに早明浦ダムが完成して、香川用水によって給水がなされている状態にありました。しかしそれでもダムの水位は下がり、高松市は断水の危険へと追い込まれます。この危機を救ったのが農業用水であり、この水のコントロールを可能にしたのが番水制でした。これによって1日の給水は五時間給水をどうにか実現し、断水の危機を乗り切ったのです。

ミツカンの機関紙は富山和子さんと香川用水土地改良区事務局長の長町さんとの対談形式になっています。富山和子さんは「水田はダムである」という指摘を行ったことで知られる環境問題の評論家です。終始、都市と農業との関係で都市に対して厳しい声をあげています。

農家が水を都市へ分けるためには、各農家がよほど足並みを揃えて節水し、同時に、厳しい配水管理をそれこそ二十四時間体制で行わねばなりません。普通ならとても考えられないそうした苦労が、混乱もなく整然と実現できたのは、『慣行水利権(注2)に基づく配水ルール』という、その土地土地の水とのつきあい方の伝統を記憶していたお年寄りたちが、若い人たちに伝え、指導したからだったのです
残念ながらこういうことはマスコミも報道しません。かえって「水が都市へ回せたのは、農業用水が余っていたからだ」とさえ報道する始末です。
その根底には、いかにして農業用水を取り上げるかが、都市の水行政の戦前からの重要テーマだったのです。

田んぼ

世界でみられる番水制

番水とは田んぼへの給水を決められた時間毎に順番に行っていく仕組みのことで、そうすることで限られた水を公平に、無駄なく、分配していく方法です。一つのため池から給水される田んぼを3-5区域ほどに分けて、順番に配水していきます。このようなため池を使った灌漑システムは日本に限らず水の降雨量が年間のなかで偏りがある世界中の様々な地域で行われており、ノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムの「コモンズのガバナンス」でもスペイン・バレンシア地方の灌漑システムやフィリピンの棚田、スリランカのタンク(ため池)システムが取り上げられています。現在では水というと国などの行政が管理主体となっていますが、昔はそれぞれの水は各地域のコモンズ/共的資源として、各主体がそれぞれの責任を持って、気を配り合い、管理し、分け合っていきたのです。

配水を管理する池守りさん 水配さん

ため池の水の配水管理をする「池守りさん」がため池から各区域への配水する時間を管理し、その各区域には「水配さん」と呼ばれる水を分配する時間を管理する責任者がいて各区域に決められた配水時間内ですべての田んぼに水が供給されるように時間割を管理し、各区域にあるそれぞれの田んぼの責任者「田子」たちへ水を分配し、水配さんの監視のなか田子たちは自分の田んぼへ水を引き入れるための作業をしていきます。このように各ため池のなかでも細かく階層化がなされて水を無駄にしないことが徹底されています。渇水の際には、番水では順番に配水していく期間/時間を短くして、少ない水で出来る限り分配していきます。香川のため池では田んぼの一番高いと思われれるところに白い旗を立てて、その高さまで水が上がるまで(立てる場所を間違えると全体が水に浸透しない)配水し、最低限、田んぼを湿らせることで水を節約する方法を取っていました。

互いに気になる配水の様子

番水制は区域に配水される時間は決まっていますが、各田んぼに「いつ」配水される番が回ってくるか?はわかりません。後の番の田子さんたちは前の番が終わって自分の番が回ってくるのを様子を眺めながら待ちます。特に渇水の際には少しでも田んぼに水を多く入れたい、しかし自分より前の順番で長々と配水されたら、自分まで回ってこないかもしれない、という思いが、お互いの様子を伺い合う状況を強めます。エリノア・オストロムのコモンズ研究では相互に「監視」し合うことが、番水というシステムを持続させる大きな鍵であることを指摘しています。

配水権利を売買する配水権市場

香川では水ブニと呼ばれる、配水権利を売買できる仕組みが存在したようです。バレンシア地方の番水制でも降雨量の少ない地域では同じような水利権を土地の権利とは別に売買できる市場があったようなので、水の稀少性が高い地域/状況での共通点は興味深いです。

香川の平六渇水のはなしを聞くと、早明浦ダムのような行政主導の大がかりなシステムと、番水のようなコモンズとしてのシステムの双方が連携し合うことによって、お互いの弱点を埋め合う、より頑健なシステムが生まれることを感じます。

雨の少なさが生む麦の文化

うどん
讃岐うどん:DELISH KITCHEN

香川といえば、讃岐うどん、うどん県と全国的に有名です。そして、うどんの原料は小麦。「日本めん食文化の一三〇〇年、著:奥村彪生」によると、日本に小麦が入ってきたのは縄文時代中期以後とされています。大昔は都のあった奈良や京都などの関西が小麦の産地の中心でした。この頃に食べられていたのは手延べそうめんで、奈良県三輪のそうめんは今でも有名です。鎌倉時代になると中国から庖丁切りのめんが伝わってきます。当時の中国は技術発展で人口増加が著しく、より効率的に生産・調理可能な手法として「庖丁切りのめん」が発達して、禅などの鎌倉仏教などともに伝来し、これが冷や麦やうどん、そばへと発展・分化していきます。そうした歴史的経緯もあり、うどんもまた新仏教が定着している都市部を中心に酒の肴として食されていました。

つけ汁に薬味は水がキレイな日本独自の食べ方

こうした傾向が変わってきたのが江戸時代で、中期になると水田稲作に不利な水利の悪い地域が小麦の産地となっていきます。讃岐や伊予が小麦の産地として確立されていくのがこの頃です。釜揚げうどんのように茹でたうどんを桶に入れて、それをつけ汁に薬味を合わせて食べていたようです。こうした食べ方は中国の「庖丁切りのめん」にはなかったようで、日本で独自に発達したもので、そうめんの食べ方を真似たものと考えられています。こうした食文化が小麦の産地である讃岐で金毘羅さんという多くの参詣者で溢れる門前町で発達していきます。

江戸はつけ汁式、大阪はかけ汁式 違いは水のキレイさ

江戸ではつけ汁式のうどんが、大阪ではかけ汁式のうどんが発達していきます。江戸でつけ汁式が発達した理由は、そばが人気であったこと、そして谷戸地形からの冷たいキレイな清水が入手しやすかったことが関連していると言われます。それに対して大阪は河口の三角州に広がる街であるため清水に乏しく、衛生上の観点から、熱いかけ汁で食していたと考えられます。麺類は水との関りが深い食品です。

農村で食べられた味噌煮込みうどん

都市部から農山村へ石臼が普及するのも江戸中期頃と言われています。これによって百姓の労働食としてもうどんが浸透していきます。この頃は醤油は農山村では高級品でしたので味噌煮込みうどんのようなかたちのうどんが農山村では主流だったようです。うどん以外の粉食(そば、団子、饅頭、煎餅など)が農山村に普及するのも、このタイミングだったようです。

ため池がもたらすタンパク源 どじょう鍋

奥村彪生さんが本の中で、讃岐のうどんとして大きく取り上げているうどんの一つに、綾南町の「どじょう煮込みうどん」があります。どじょうはため池・ため池とため池、ため池と田んぼをつなぐ用水路に生息する、田んぼ・米づくりと密接に結びついた魚です。(先日、松山でも近所の田んぼの用水路で子供がどじょうを採って喜んでいました。)どじょうは川魚でありながら、臭みがないため、全国の水田農山村地帯で食べられていただけでなく、中国・韓国・ベトナムといった東アジアの食文化でもあるのです。どじょうを入れたうどんは関東、相模、東海、信州、中京でも見られます。やはり讃岐の綾南町と似て、内陸にあり、水資源が豊富ではない環境で大切な水を大事に使う、麦の文化と米の文化が重なりあった場所でした。

少雨の気候が育んだ麦味噌

愛媛県、広島県、山口県、の瀬戸内麦味噌、そして九州一帯の九州麦味噌と、通常の米麹ではなく、麹に麦をつかった独特の風味の味噌が、今でも調理に使われています。特に愛媛県の麦味噌は麦の使用する割合が高いようで、より甘い味噌に仕上がっています。個人的感覚では南予の方が麦味噌を好んで使っている割合が高いように感じます。

家庭でつくられていた田舎みそ、麦味噌

米でなくて、麦を利用している理由は、米の裏作で麦がたくさん作られる地域、焼畑農業で麦がたくさん作られる地域だったからだと言われています。春に県外から帰ってくると黄金色に輝く麦畑に目が奪われます。現在ではスーパーなどで味噌を購入するのが一般的だと思いますが、昔は「買った味噌を食べるのは家(嫁)の恥」とか「味噌作りができなければ一人前の嫁だとはいえない。」、また「味噌を作る女を嫁にもらえ。」ということが言われていたようですので(データベース『えひめの記憶』より)、多くの家庭で独自の麦味噌がつくられていたことを思い浮かべると、それだけ愛媛では麦は身近な存在である、ということを感じます。

地下に潜む水を掘り出す知恵

重信川沿いの湧水泉:東温市龍沢泉

花崗岩質の岩盤を基岩にもつ石鎚山系や高縄山系周辺の平野部は透湿性の高い真砂土が堆積しており、水が地下へもぐりやすくなっています。もともと少雨である気候に、こうした地質特性が加わることで、人口の増加した江戸時代の道後平野の田畑の水を巡る争いは大変なものでした。江戸時代の伊予郡砥部町麻生で起きた水争いが有名で、道後平野で調べるとたびたび出てきます。この場所はちょうど皿が峯連峰の山地が切れて道後平野が西南側(松前町・伊予市側)へ大きく広がる場所に位置するため、大きな河川がない重信川の水を松前町や伊予市へ向けて運ぶ上で最上流部に位置し、給水上の重要ポイントとなっていました。

水争いの解決策として生まれる赤坂泉

江戸時代中期の明和8年(1772年)の大干ばつで田んぼが干からびた松前町・伊予市方面の村々の代表が麻生の農民へ水を分けて欲しいと懇願にいきました。しかし冷たくあしらわれてしまいます。この麻生の水路は、松前町・伊予市方面へ給水するための水路(下流側)と地元の田へと水を運ぶ水路(上流側)が樋で交差するかたちとなっていました。その樋を、松前町・伊予市方面の農民たちが、冷たくあしらわれたことに対しての腹いせに壊してしまいます。これをきっかけに、両陣営が矢取川(現在の砥部町と伊予市を行政区を分ける川)を挟んで対峙する緊張関係が生まれ、死者が出る大乱闘に発展してしまいました。この水路・水争いには松山藩、大洲藩、新谷藩、そして幕府の天領の農地・農民が関わっており、死者が出たのが幕府の天領の農民でした。この紛争の解決のために幕府による裁判が岡山県の備中倉敷で4年を掛けて行われますが、誰が首謀者であるかがわからないまま時が過ぎて、長引く取り調べに疲弊だけが溜まっていきました。こうした現状に麻生の組頭であった窪田兵右衛門が決着のつかない裁判の打開策として、自らが首謀者であると、名乗り出ることで、裁判を終わらせ、処刑されます。こうした水争いもあり、窪田兵右衛門が処刑された年に領主は、松前町・伊予市方面への給水を安定させ、今後、このような水争いが起こらないようにするために、赤坂泉の工事を指示します。

地下水を掘り出す流式泉の仕組み

湧水泉_赤坂泉
砥部町_赤坂泉

砥部町の赤坂泉へ行くと、桜が立ち並んだ土手で囲われた、ちょっとした親水プールのような空間に驚きます。現在では遊泳禁止となっていますが、昔は水遊びをすることが許されていたようで、写真が探すと出てきます。利用者側のマナーの問題が大きいのでしょう、しっかりとしたルールを守った利用で、改めて水遊びができる状態になって欲しいと思います。

湧水泉_模式図(断面)
河川の近くの地面を掘り下げることで、川底の帯水層の水を湧出させて、水を得る。
河川の近くの地面を掘り下げることで、川底の帯水層の水を湧出させて、水を得る。

写真の土手の向こう側には重信川が流れていて、そのすぐ横を掘り下げることで、川底を流れる帯水層の水を表出させています。「森林飽和 著:太田 猛彦」によると、1960年代以降の輸入の木材の自由化以降の国内の林業の施業量の急激な低下によって、日本の山林は300年ぶりに青々とした状態にあると言われています。逆に煮炊きの燃料を薪に頼っていた江戸時代から戦後までは人口増加の圧力がダイレクトに山林へ伝わっていたため、多くの山々が松が生える禿山となっていました。そうした状態では山からの土砂の流出は大きくなり、特に風化のしやすい花崗岩質の地質地域では大量の土砂の流入によって、天井川と呼ばれる川底面が周囲よりも高くなることもしばしばでした。そのため流式泉の土手を触らずに水を地下から湧出させる仕組みは、当時の山と川の関係・防災の面から見ても、この地域に適したスタイルだったと言えそうです。

愛媛県東温市_龍沢泉 染み出る湧水_夏
三ツ沢泉
東温市_三ツ沢泉
三ツ沢泉_水温
東温市_三ツ沢泉の水温

道後平野以外の流式泉 善通寺の出水(ですい)

水文・土木の専門家ではないので、こういった手法が良く行われるものなのか?までは詳しくはないのですが、四国の瀬戸内海側に見られる地方色のある手法という印象を持っています。赤坂泉よりも重信川の上流部の東温市、西条市のひょうたん池、新居浜市、香川県では丸亀のものが有名です。赤坂泉よりも下流部の松前町、香川県の善通寺市はともに現在は大きな河川が中心部を通っていない三角州・扇状地の豊かな帯水層を持つ地域です。善通寺では出水(ですい)と呼ばれています。これらの地域でも泉を石垣や柴垣で固めて、利用してきました。飲料用を兼ねた利用だったためか、集落のなかに溶け込んでいて、流式泉とはまた違った趣の水と人との関りを見せてくれます。

大間の町並み(有明公園)
松前町大間の湧水(有明公園):©花旅記
永井清水_榎之木湧
善通寺市長井清水の榎之木湧水
西条市ひょうたん池
西条市ひょうたん池

水道の普及とともに、私たちの生活から井戸の姿は身近なところから消えていっています。松山市の資料を見ると、そのほとんどは現在、工業用水や農業用水といった産業用に使われています。行政区のなかに豊富な湧水源があり家庭用にも使われる地域は全国的にも稀です。

古井戸を活用した 風と水のあいだの家

「風と水のあいだの家」はそうした全国的にも稀な豊富な湧水原がある地域でした。そして、その湧水原の魅力を体感できることをお施主様も望まれていました。

周囲の湧水の水温を調査すると、30度を超える夏の日中でおよそ20度程度(最低計測値18.6度)、0度に近い冬の早朝でおよそ10度程度(最高計測値14.1度)を記録しました。年間を通して外気よりも安定した水温を保っていることがわかりました。この安定した水温の湧水を建物の周囲に水盤として張ることで、水盤の視覚的な心地よさとともに周辺熱環境を安定させることを考えました。

計画を進めていく中で敷地内にあった井戸が古いことがわかり、新たに採掘する必要が出てきたため、古井戸が余るかたちとなりました。この価値のなくなってしまった古井戸を建物の周囲の水盤の水源として有効活用し、新たなかたちを与えています。

風と水のあいだの家_水温調査
風と水のあいだの家_水温調査_夏
風と水のあいだの家_水温調査_冬
風と水の間の家 House of wind and water in the old town。松田祐介、studio colife3 池内健が設計した風と水の間の家のリビング ダイニングを水盤越しにみる。敷地外周部はポリカーボネイドの塀で囲われ、建物周囲を地下水の水盤に囲む。梁下のポリカーボネイドの垂れ壁は、この地域の卓越風を取り込む役割を果たす。新建築住宅特集2020年3月号掲載。
風と水の間の家(新建築住宅特集2020年3月号掲載) House of wind and water in the old town リビングダイニング
photo : shinkenchiku-sha

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