「京文化のREDBOOK」、「蚕の風ぐるま」のリサーチで調べた養蚕・絹産業についてのまとめです。
戦前は生糸(蚕の繭から紡いだ糸)の生産量が世界一だった日本ですが、戦後にアメリカで人工絹(ナイロン)が開発されて絹の消費がナイロンに吸収されていきます。
明治以降、大量消費向けの絹製品をつくるアメリカへの原料となる生糸を輸出して成長してきた日本にとって大きな方向転換となる出来事でした。
世界の絹産業はその後、中国が台頭して圧倒的な世界一の座を誇っています。その中国でも絹は紡績業・織物業のなかで僅かなシェアを占めるに過ぎず、多くは伝統工芸品や伝統民族衣装などの特別な素材として使用されているのが現状です。
culpediaさんの京都の伝統産業のリサーチでもお聞きしましたが、そうした伝統文化・無形文化財が絹で言えば人工絹を使わらずに絹を使い、こうした伝統工芸品や伝統的な衣装の技術を継承できる環境を整えること、
さらに言えばそうした無形文化財の方々がそうした環境を整えられるように、国や市民が無形文化財を支えることが、非常に大切であることを実感します。
絹産業は愛媛県も現在は生産量を大きく減産していますが、西予市のシルク博物館のキュレーターの方にお聞きすると伊勢神宮に奉納する役を務めたり、
イギリスのエリザベス女王の戴冠式のドレスに西予市の生糸が使われたり、世界的にも品質の高い生糸として名を知られているようです。
世界のなかの絹/silk

人と蚕が結びついて絹/silkが糸として使われはじめたのが紀元前3000年頃の中国と言われています(5000年ほど前)。
現在でも主要な繊維・糸として使われる綿/cottonが紀元前5000年頃のインドやメキシコ、羊毛が紀元前6000年頃のイラン/ペルシャともっと昔にはじまり、革や毛皮が先史時代(何十万年前)にはじまっているので、それらと比較すると新しい素材・手間と技術が必要な素材であることがわかります。
主要な産地の変遷を地図上にプロットすると絹(図上のピンクのエリア)はアジアに集中していることがわかります。高温多湿な環境が綿花・木綿や羊毛よりも絹が好まれる環境をつくったことや、中国の正装(漢服)の素材として古くから取り上げられたことがそうした文化を維持するきっかけとなったこと、という環境(感覚)と文化の両面から絹を選択する力が働いていたように思えます。
アジアには中国の漢服や日本の和服(着物)、韓国の韓服をはじめ、タイのチュッタイやベトナムのアオザイ、インドネシアのバティックと絹をつかった衣装を正装/formal wareとして使っていた伝統があります。
シルクロードという言葉があるように、絹は中国の主要な交易品としてユーラシア大陸の端から端まで運ばれていきました。
綿や羊毛の世界のなかに絹が加わっていくことで、ペルシャや地中海にも産地が形成されて、装飾的な利用に留まらず、ペルシャ絨毯やルネサンス期のイタリアの絹を使ったドレス、インドのムガル帝国期のシルクのサリーなどが生まれていきます。
こうした伝播の過程でも新たな産地が形成されて値崩れが起きるようなことがなく価値を保ち続けたのは、綿や羊毛に対して、養蚕の技術的な難しさや気候環境面・文化面での制限・相性が大きかったためだと想像できます。
こうしてみると、アジアの、日本の絹文化というのが独特なものだということがより一層みえてきます。
シルク文化を育む気候や地形
世界の主要なシルク産地とシルクの伝統産業はアジアのモンスーン地帯に集中しています。この地域は稲作地域のエリアと重なります。
蚕の好物である桑がモンスーン地帯のような高温多湿な環境に適していて、蚕の生育環境も寒暖差が激しい砂漠や草原のような環境ではなく高湿度によって気温が安定的なモンスーン地帯の方が適していました。
コメ文化と重なるシルク文化

シルクの産地とコメ文化をもつ地域を重ねてびっくりしたのはヨーロッパ・ペルシャ・アフリカのコメ文化をもつ地域とシルク産地が重なり合ったことです。
イタリアのシルク産業の中心地であるミラノを含むポー平原地域はイタリアの稲作の中心地でもあります。特にランディと呼ばれる独自の野蚕がいるマダガスカルにコメ文化もあることには驚きました。
日本からの移民によって養蚕が伝えられた南米ブラジルもまたスペイン・ポルトガルから伝わった米食文化が根付いてますので、コメとシルクのつながりの強さを実感します。
最近でも使うのかわからないですが「クワバラ、クワバラ」と幽霊や祟りに見舞われたときの台詞がありますが、これは桑原からきていると言われており、桑原を雷が避けるという伝承にもとづいたものです。文化人類学・民族学者の石田英一郎の桑原考(桃太郎の母に収録)では、中国の伝承が養蚕の技術の移入とともに伝わったものではないかと考えています。中国では雷に限らず霊験あらたか霊樹とした古い信仰があり、絹が古代から重要視されていたことが伺えます。雷との関係で言うと稲妻は雷が空気中の窒素を雨とともに地上に届け豊穣をもたらすという科学的にも根拠づけされている稲との関係にもとづいた言葉であり、中国をはじめヨーロッパやアフリカでも同じように雷と豊穣を結びつける伝承があります。
コメとシルクには不思議なことに雷を通した文化的つながりもあります。雷のもとになる積乱雲を発達させやすい熱帯やモンスーン地域ならでは、といったところでしょうか。気候と文化が相互に結びついています。
稲作のあいまに行われる養蚕

日本の絹産業の最盛期においてコメとムギと養蚕の組合せによって農業を営む農家が多かったようです。上図はざっくりしたコメ、ムギ、養蚕の年間スケジュールです。地域によって前後するのでその点は注意してください。
コメと養蚕はムギとの関係のように同じ土地の表作・裏作のような時間的相補関係ではなく、水田耕作に向かない勾配のある山際の土地や台地のような水に恵まれない場所を桑畑として利用する空間的な相補関係にありました。
水が集まる平地の稲作と水はけのよい傾斜地の桑

上図は江戸時代から明治時代に桑都と呼ばれた八王子の地形と絹産業の関係を表したものです。
この地域は侵食によって生まれた河岸段丘が特徴的な地域で、水田に向かない広大な台地を桑畑として利用し栄えた場所です。段丘の際に形成される谷津や低地が水田として使われ、水はけのよい水田に向かない場所は桑畑として利用されていました。
こうした特徴はイタリアやフランスの地中海側では果樹やオリーブのような換金作物とのバッティングによってアジアほど養蚕が浸透しなかった原因となっているようです。同様の傾向は日本でも見られ養蚕が衰退した後に長野などではリンゴ園になったり、愛媛でミカン園になったりタバコ畑になったりしています。
八王子で特徴的なのは山岳信仰と養蚕や町民の営みが結びついて山林保全の仕組みが明確化されているところです。これは杉苗奉納という仕組みとして今日まで続いています。
繭のセシリンを溶かしたり、撚糸の際に吸着させたり、染色したりと、絹産業にはきれいで大量の水が求められます。水道が普及していなかった時代において、こうした山林保全の仕組みは産地の持続性に重要な役割を果たしていました。
低地・谷津でつくられる主食のコメを中心に、台地の衣服の絹・麻(江戸時代以降には木綿も)、山林の住居のスギ・ヒノキとコメの文化が形成されています。
日本の伝統産業のなかでの絹
culpediaさんの「京文化のREDBOOK」のリサーチ結果を見たとき、絹を使っている伝統工芸の多さ、そして絹が危機に位置づけられている工芸の多さがすごく印象的でした。

染めやすく、軽く、吸湿性、断熱性に優れた繊維
西陣織や京友禅をはじめとした織物だけでなく、房ひもや撚りひもや組みひものような紐、三味線の弦や珠数・念珠玉の紐とそのバリエーションの多さにまず驚かされます。
こうしたバリエーションの多さは絹の文化的価値の高さが工芸品の価値を高めるために利用されているという側面もありますが、絹がもっていた機能性も重要で、染色性の高さは染物には欠かせませんし、吸湿性の高さ・軽さ・断熱性の高さは明確な季節をもつ日本をはじめとしたアジアの国々に適した素材でした。
最高級真綿布団と言われる真綿は解きほぐせなかった繭のことを指していて(真綿という言葉に惑わされて綿(木綿)だと誤認しますが違います)、その軽さと暖かさ(断熱性)を体感したことがある人には、こうした機能性は納得のものだと思います。そして絹がもっている繊維の長さは強い張力をかける三味線の弦にとっては欠かすことができないものです。
長い繊維、強度、弾力性が活かされた使われ方
絹は繊維の長さが他の天然繊維よりも圧倒的に長く、木綿(28㎜程度)や麻(2-25㎝)、羊毛(5-30㎝程度)などと違い一本の繊維が1㎞以上あるという特徴があります。
こうした長い繊維であるため合成繊維と同じデニール(d 9kmの長さで1gの重さをもつ糸の太さの単位)という単位が使われます。絹織物につかう場合は熱湯で沸かして溶かしてしまう外側のセシリンと呼ばれる保護膜を残して使うことでより強度を出すのが三味線の絹の弦の特徴です。
絹は天然繊維のなかで高い引張強度を持ちます(羊毛の約2倍)。こうした特徴ゆえに合成繊維が登場するまでは弓の弦や梱包用のひも、釣り糸、軍事用のパラシュートなどにも使われていました。
さらに弾力性のある繊維構造をもっているため、古くは、何層にも重ね防弾チョッキのような使われ方をしていました。木綿もまた同じように高い引張強度を持つ繊維構造をしていますが弾力性の有無で絹が使われていたようです(ちなみに現代の防弾チョッキも合成繊維による繊維素材が原料で出来ています)。
高い品質を求める伝統工芸
伝統工芸のなかで絹という素材が危機に位置づけられているのは、それだけ高い品質を求める傾向が強いことを示していると思います。こうした傾向は西陣織のような織物と京友禅のような染物の世界での現在の状況に対しての捉え方の違いに表れているように思えます。
染料と天然染料、化学染料
染物の世界の素材となる顔料・塗料産業は繊維産業以上に化学染料の開発が進展している領域です。
個人的な感覚として天然顔料というものが最終的な製品としての色に対しての選択肢の一つとして扱われている印象をもちます。こうした影響は絵画の分野からの影響やプロダクトや建築といった耐候性などの機能性と経済性がせめぎ合う分野など、さまざまな分野が塗料産業で結びあわされていることからも来ているのかもしれません。
織物と天然繊維、化学繊維
伝統産業の織物の世界も化学の力によって多くの合成繊維が開発され進展している領域ですが、
調査結果を見ていると合成繊維という選択肢がまず入ってきていないように感じます(レンタルの晴れ着などにはポリエステルやナイロンの混紡がありますから、変化してきていますが)。
世界の生糸生産の80%を中国産が占めている現在の状況で、近年まで中国産の絹を使うことも躊躇われていた状況だったと伺いましたので、絹の中でも品質を厳選していることがよくわかります。
生産スタイルと求められる品質

こう書くと中国産の絹の品質が悪いように聞こえ勝ちですが、世界シェアの80%を占めているということは、
それだけ産業化された織物工場での生産に向けられているということなので、大量生産向けの品質の揃った養蚕が行われていると捉えるのが正しいように思います。
こうした傾向は1930年代の日本の生糸生産が世界一位で80%を占めて、厳しい品質管理を経て、アメリカの大量生産型の絹織物工場へと輸出されていた頃のイタリア(高品質)と日本(中品質)と中国(低品質)の主力製品の違いや輸出先の違い、生産量の違いを考えればよくわかります。
現在の中国でも細かい品質のランク分けを行って、品質に応じた出口を設けているようです。
中国産の生糸が伝統織物産業において無視されてきたのは、大量生産向けの品質と伝統産業の品質が合致しなかったこと、そして伝統産業向けの品質の生糸を生産する養蚕農家が国内にまだ存在したことが理由です。
伝統工芸において絹が危機に位置づけられているのは、そしてそうした国内養蚕農家が消えていっている現状、その代わりの生糸を提供してくれる農家を世界から見つける必要もしくは育成や代替手段を検討する必要に直面しているという現実を示しています。
こうした事態は伝統工芸が古くから世界とつながっていたという事実と改めて世界と各国の伝統と位置付けられているものが、どのような関係をもつことが望まれているのか?ということを問いかけているように思えます。
産業化されていく絹産業 江戸時代の絹
このように産業化という過程においては、ただ大量生産できる機械があって製品がたくさん作れれば良い、という単純な話しではなくて、その機械へ投入される原料も、その製品を消費する人(文化)も、品質管理をされて揃える必要があります。
日本の絹産業が本格化するのは元禄時代の町民文化が花開いてからで、それまでは貴族や僧侶、大名のような一部の特権階級のもので、その多くも中国からの輸入品が多かったようです。(シルクはどのように世界に広まったのか 著:二神恭一・常爾・枝保 参照)

(参考:日本流通史 著:満薗勇 11頁 図1-3 江戸時代後期の地域間循環構造)
江戸時代は藩ごとの自給経済を幕府はしいていましたから、各藩が一つの国のように自立的な経済活動を営んでいましたが、その一方でやはりすべてを藩内で完結するのは難しく、お互いの得意分野を融通し合う物流体制が広がっていきました。
そうした物流が広がれば、そのための資金づくり(外貨稼ぎも、倹約も)が大切になります。輸入生糸が増大していた当時、養蚕は幕府も奨励するその手段で、日本中で養蚕が行われるようになっていきます。
元禄期以降は町民にも着物が広がっていき大阪と江戸という巨大な中央市場を中心に絹産業の産地形成が進みます。

シルクはどのように世界に広まったのか 著:二神恭一・常爾・枝保 図表Ⅷ-3参照
指南書を通して普及した養蚕、それを可能にした江戸時代の識字率
こうした養蚕の広がりを支えたのは、幕府の施策もありましたが、元禄時代から増えてきた養蚕の指南書でした。
こうした指南書の普及は当時の識字率の高さ=文化的な品質管理の高さを物語るものであり、養蚕に限らず、こちらも江戸時代から広がりをみせた植林でも同じように農業指南書によって全国的に広がっていったことが指摘されています(日本人はどのように森をつくってきたのか 著:コンラッド・タットマン 訳:熊崎実)。
日本の植林が世界に先駆けたものであったのと同じように、日本の養蚕指南書は19世紀にはフランス語訳がパリとイタリアのトリノで出版されています。

著者:上垣 守国年代:享和3(1803)年
こうした出来事を聞くと、日本人と日本語という単一民族・単一言語の島国という環境が産業化というものに対して、どれだけのアドバンテージがあったかということを認識させられます。
その一方で方言や藩体制がもたらした地域の固有性を持続させる長い物流をつくる問屋制といった山地が多い地形によって分断され育まれていった地方の独自性が同時に存在していた事実に驚かされるばかりです。
日本の絹産業のプロト工業化と八丁撚糸機
元禄期の町民への着物の広がりを支えたのは友禅染めで、それまでの先染めした糸を織って柄をつくっていた工程が、織った布に対して後から染めて柄をつくれるようになったことで、複雑な図柄を保ちながら手間を抑えることに成功します(合わせて刺繍などの豪華な意匠への幕府からの禁止令対策にもなっています)。
こうした後染め可能な絹織物にちりめん(縮緬)と呼ばれる微細な凹凸が特徴的な生地があります。
このちりめんを生産するのに撚糸という複数の糸をねじり撚り合わせて、一本の糸にする大事な工程があります。繊維の短い綿や羊毛ではこの工程で一本の長い糸にする工程でもあります。この撚糸という工程は長さだけでなく、太さやその風合いにも影響を与える大事な工程になります。
こうした大量生産に応えるために17世紀末から18世紀はじめにかけて西陣で開発されて全国に広がったのが、
八丁撚糸機と呼ばれる大きな車輪(八丁車)と並列に連結された複数の紡錘(糸を巻く心棒と撚りを生む回転力をつくる重りの円盤で構成される道具)が車輪を回すことで連動して回り、同時にいくつもの糸に撚りかけられる木製の機械でした。
同時代の中国で使われていた撚糸機は直列で連結されていたもので、西陣で参考にされた際に回転ムラをなくして品質の均質さを高めるために並列化されたと推定されています(江戸時代初期の八丁撚糸機開発と縮緬の発達 著:田辺義一 参照)。
民家と工場が一緒になっていた養蚕建築

こうした産業化へのプロセスは生産設備だけでなくて建築にも影響を与えていきました。養蚕はそういった建築の変化のプロセスわかりやすい例のひとつに思えます。
プロト産業化が進む以前の養蚕建築は冷暖房の手段は自然換気に任せられていました。こうした特徴を良く表している養蚕建築の一つが白川郷や甲州の兜造りのような合掌造りの大きな民家たちです。

南北に流れる川とその川が形づくった谷の向きに沿って、白川郷の合掌造りの民家は並びます。谷あいで太陽を求めたら逆の東西軸に向いた建物が並びそうですが、
ここでは風を重視した南北軸です。こうすることで谷の卓越風を取り込んで大きな屋根裏に安定した換気環境を整えることができます。
しかしこうした卓越風は地形や季節を選びます。産業化のプロセスは一年のうちでの養蚕の回数を増やす方向へと導き、養蚕建築はどうやって年間を通して、多くの地域で、安定した生産を整えられるか?という方向へと進みます。
産業化が進む養蚕建築_温暖育・清涼育・清温育
江戸後期になり生産量の増量のために温湿度管理法が開発されていきます。
1835年頃に炉によって蚕室を暖めてる、暖房によってより長い期間、養蚕可能にする温暖育という方法が生まれ、1879年(明治12年)に清涼育という自然換気に任せる手法が開発されます。
四方の窓が開け放てるようにし、越屋根や煙突を設けて通年を通して換気環境を整える方法を目指しました。1884年あたりまでに両手法は統合されて清温育として全国に普及します。

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イタリアやフランスの養蚕建築は石造りで1階を桑の葉の保管場所、2階を蚕の飼育所として使うのはアジアの養蚕建築と同じです。2階の蚕の飼育所には通風用の窓を多数設けていますが、
窓は大きくなくて断熱性を重視していることがわかります。
アジアの養蚕建築では暑さや湿気のコントロールが重要視されますが、ヨーロッパではどちらかと言うと寒さへの対応が重要視されているように思えます。
ヨーロッパの方がオリジナルだと思いますが日本の温暖育のように下階で火を焚き、2階の蚕室を暖める機構を備えています(日本酒製造などでも菌の生育環境を整えるのに火鉢を使ったりするので、そちらが由来かもしれません)。
19世紀には蚕種が日本からヨーロッパへ送られたりと前述のように養蚕指南書が翻訳されたりとグローバルに資源も技術もより素早く行き来していました。
繰り糸の農家からの分離 製糸場の登場、シルク産業にみる職人性
糸車や座繰機で農家が個々で行っていた手繰製糸が工場に集まって行うようになり、やがて機械化された製糸場へと行き着きます。日本では世界遺産になった富岡製糸場が有名です。
こうした製糸場の登場は綿/コットンなどの世界市場/植民地市場の形成が早かった繊維と比較して遅い時期に登場します。要因として挙げられているのは、綿に比較して取り扱いが繊細で機械化が難しかったという機能面と、
当時のヨーロッパでのシルク産業の中心地であったフランス・イタリアの職人風土が機械化に強く抵抗したことが挙げられています。
こうした産業特性はクラフト的生産方式としてマイケル・J・ピリオとチャールズ・F・セーブルによってイギリスやアメリカの大量生産型の生産方式と比較されており(第二の産業分水嶺_同じような比較は渡邉雅子氏によって経済原理のアメリカ・イギリス型と政治原理のフランス型として作文法/論理性の違いが指摘されています_「論理的思考」の文化的基盤)、ヨーロッパのなかにも異なる価値観が共存していることがわかります。
イギリスのシルク産業はフランスからの17-18世紀のプロテスタント移民と屑シルクが特徴です。繊維の長さの話しで出てきたように、シルクは他の天然繊維にはない長さをもっています。
しかし製糸の過程で切れてしまったり、外側のキビソという硬い部分、玉繭のように二匹の蚕による二本の糸が絡んで上手く紡ぐことができない繭が数%混ざります。こうした綿のように短くなった糸を品質を選り分けて紡績することで製品化します。
19世紀にイギリスの絹産業は自由貿易化の流れの中でフランスの絹によって淘汰されていきます。そうしたなかフランスより先んじていた綿産業で培われたマスプロダクション・産業化の技術が絹と結びついて生き残っていったのです。

床面は少し高めに設定されており半地下にし、換気を調整できるようにしてある。

公会堂の機能を満たしながら、産業用の合理的な平面計画・断面計画となっている。
世界の80%の生糸生産を誇る現代中国においても製糸・織物工業の工場化が進む一方で、養蚕は個々の農家が行う体制となっています。ただし最終的な品質に大きな影響を与え管理が難しい最初の稚蚕の時期(卵から生まれて7-10日程度、2回目の脱皮まで)は共同飼育をしたり、熟練の養蚕農家さんが預かったりして、集約化をはかる地域もあるようです。こうした仕組みは戦前の日本においても見られて愛媛県にも残っています。
そこでは地域の集会所を養蚕の季節に共同の稚蚕の飼育所として利用できるように設え、床面を高くして通気を確保し、オンドルのように炉によって温度調整できる空調システムをもちます。
屋根裏を広く設けることで餌となる桑の葉を収納する場所として利用可能としています。搬入・出荷をしやすいように大きな開口部をもち、続き間が襖によって間仕切りされた合理的な平面計画がなされています。
共同飼育をすることは品質のばらつきを抑えることや出荷時期の統制につながり、産業化における品質の安定性という重要な要素を支える役割を果たしていました。また養蚕農家の数が増え、生産量が増えるほど、その指導役の負担が増すので、共同飼育で集約化されることは、その負担の軽減にもなったようです。
蚕種を越冬させる仕組み
稚蚕の飼育時期以上に高度な専門性が求められるのが蚕の卵=蚕種を扱う時期です。
日本でも養蚕が盛んになる元禄時代には甲州・上州の交差点である八王子で蚕種を扱う業者の記録があり、それより以前からも福島や古くからの絹の産地である茨城の結城地方が蚕種の産地として知られていました。


蚕は卵でいる時期が一番長く、9-10か月ほどの期間になります。蚕種の保管は涼しく、湿らず、日光の射し込まないところが良いとされ、江戸・明治期の日本では風穴が利用されていました。
富岡製糸場とともに世界遺産に指定されている荒船風穴が有名です。愛媛にも久万高原に大成風穴群、東温市に上林森林公園の風穴群という蚕種保存に使われていた産業用風穴が残っています。中国でも地下室を設け、地熱を利用して蚕種を保管しています。
風穴に実際にいくと当然ながら湿度と結露がすごく、蚕種の保管に利用していたときはどのようにしていたのか気になりました。
棚を組んで結露しなさそうな素材で蚕紙を保護していれば十分だったのでしょうか。
大正時代以降は冷蔵庫(当時は氷を使った冷蔵庫で製氷会社と契約をして稼働していたそうです。昭和の家庭用冷蔵庫の大型版を思い浮かべるとイメージしやすいと思います。)が登場し、蚕種も空調管理の時代に入っていきます。
産業化された絹産業 愛媛の養蚕を通して
19世紀後半のヨーロッパではペブリンと呼ばれる蚕の病気が蔓延し絹産業が壊滅的なダメージを受けました。ペブリンは細菌学の祖の一人であるルイ・パスツールによって解決されますが、そのダメージは深刻なもので、
これが日本の20世紀における養蚕・絹産業の躍進につながります。1930年代に生糸生産における世界シェア80%を占めていた日本の養蚕もアメリカで開発されたナイロンの登場とともに、アメリカ産のシルク製のストッキングをはじめとした絹製品は洗濯可能で安価で丈夫なナイロン製に変わり、
着物の需要が落ち込む1980年代以降は大量生産向けの生糸生産の役割を再び中国に譲り、日本国内の養蚕、絹産業は高品質な伝統産業向けなどの需要のみとなり、そうした需要を満たす生産力すらも乏しくなってきている現状が、京文化のREDBOOKのリサーチの結果が示す姿でした。
人工絹としてのナイロンの登場以後、衰退する戦後の日本の絹産業ですが、現代のナノテクノロジーの時代に入ってなお、合成繊維のひとつの目標として絹/silkが掲げられ、未だに人工的に完璧な絹/silkは製造することができていません。
商品としての絹が姿を消す一方で、概念としての絹は社会に精霊のように存在し続けているかのようです。
みかんにしろ、真珠にしろ、造船にしろ、明治時代に起源をもつ地場産業が愛媛にはあります。愛媛の養蚕も日本全体の動きに呼応するかたちで明治期に大きく広がっていきます。富岡製糸場の技師を招いたり、視察・技術習得へ行ったり、積極的な施策を行い、
こうして愛媛県は1930年代には西日本有数の養蚕県となります。しかし戦後は日本全体の養蚕がナイロンの登場によって衰退していくのと同じように愛媛の養蚕も縮小していきます。
20世紀の産業化された日本の絹産業の姿を、西日本で唯一残る蚕種会社と製糸場を通して見ていきます。
種の産業化 / 愛媛蚕種
愛媛蚕種は八幡浜市保内にある建築関係の人であれば生業系の建築の紹介で、その存在を知っている人も少なくないかもしれない、国の登録有形文化財に指定されていた建物をもっている西日本唯一の現役の蚕種会社です。蚕種会社自体が日本に民間4社と研究機関1機関と貴重な存在です。
明治時代には前述の久万高原の大成風穴のように蚕種の保存のために金山出石寺の裏山に氷庫を設けてを開始しました。出石寺につくられたのが愛媛県での最初の氷庫だったようです。
やがて宇和島と肱川河口の長浜に製氷会社ができ、大正時代に山での製氷を止めて、製氷会社の氷をつかった蚕種冷蔵へ切り替え、全国展開をしていきます。大正五年(1916年)には全国五位の蚕種製造量を達成し、現在の蚕室が揃い愛媛蚕種の全体像が整うのは大正8年(1919年)になります。氷の消費量の大きな漁港に近く、氷を海から運び入れ、そして蚕種を全国へ海から出荷できる立地は信州や上州のような内陸にはない特徴です。

蚕種が支える養蚕の産業化
蚕種の専業化は養蚕が産業化していく過程において欠かすことができないものです。生糸の品質を安定させるには蚕種の品質の安定が欠かせません。そして蚕種が専業化し、冷蔵保管され必要な時期に養蚕農家へ配送できるようになることで、
慎重なケアを必要とする蚕種の作業から農家は解放され、年に2-3回だった養蚕が年4回、5回に、多い農家では年に7-8回の養蚕を行うようになり、その繭を糸にする製糸場が立ち並び、その生糸を捌く商社がひしめく、稲作の副業から養蚕へと主軸が移っていくことを可能とするネットワークが形成されていきます。
大洲、肱川の上流部の野村という県内有数の養蚕地域が後背地に生まれます。
雑種強勢で一世代ごとにより良い品種を生む
異なる原種を掛け合わせることで雑種強勢と言われる両親よりも優れた性質をもつ種を生む手法を用いて、より優れた蚕種をつくります。ただしこの性質は何世代も持続的に現れるものではなく、
雑種同士を荒廃させると色んな性質をもつ個体が生まれて産業が求める品質の安定を崩すので、基本的には一代限りの交配で、原種は原種として保ちながら、
都度、雑種を意図的につくることで、品質を維持します。野菜の種の販売や競走馬の世界の交配と性質をイメージするとわかりやすいでしょうか。
原種の飼育からはじまる蚕種のつくられかた
なので蚕種を得るのは原種の蚕を飼育するところからはじまります。そして原種が繭をつくったら、その繭を割ってサナギを取り出します。
これは繭から蚕蛾の成虫になるとすぐに交尾をしてしまうため、雑種強勢を確実にするために脱皮する前のサナギの状態で、オスメスを分けるためです。オスメスが分けられた蚕が脱皮して成虫になったら異なる原種同士を交尾させ、産卵させます(オスは複数回交尾ができるので、
次のメスが育つまで低温保存されるそうです)。産卵された蚕種は抜き取り検査をして病気などを確認し、安全を確かめられたものを、出荷時期にあわせて保存・発育調整をし(すぐに出荷の場合は人工孵化処理)、蚕種の孵化の時期を揃えて出荷されます。
蚕種会社では稚蚕の飼育も行っているそうで、成長して壮蚕となり飼育がしやすくなってから養蚕農家に出荷するケースもあるそうです。共同飼育所が担っていた役割を蚕種会社が担うことで、安定した生糸供給の流れを支えています。
集約飼育と衛生環境の維持
こうした家畜を集約して飼育する上で一番の問題となるのが感染症をはじめとした病気です。特に卵や幼虫のうちは繊細です。ですので建築にも衛生環境を保つための工夫が必要になってきます。
絹/silkが羊毛/woolや毛皮/furなどと同じように動物由来の繊維であり、植物由来の綿/cottonなどとは大きく異なり、ナイロン/nylonをはじめとした化石燃料由来の合成繊維とも大きく異なる特徴をもっていることを実感します。こうした特徴がそれぞれの繊維の歴史に影響を及ぼしています。
高品質な生糸を目指した野村町 / 西日本唯一の製糸場-シルク博物館
シルク博物館のある野村町の養蚕は明治期にはじまります。肱川沿いの河岸段丘の畑作地域は成長する養蚕産業に適していました。市場競争力を高めるために組合の設立、市場・製糸場の設立を行い、
より高品質な生糸を生産できるように蚕種も町内で自給可能な体制を構築していきます。こうした取り組みの結果、カメリア(椿)の名で商標登録された野村町産の生糸は国内外で高く評価され、
1953年のイギリス/エリザベス女王2世の戴冠式のドレス、伊勢神宮の式年遷宮につかわれる御用生糸として献上されます。エルメスなどの使う高級シルクの生産をするブラジルの工場は野村町からの日系移民の人たちの技術移転によって行われています。
アジアの白い繭とヨーロッパの黄色い繭 品種と環境で変わる生糸の品質
エリザベス女王2世の戴冠式のドレスは女王自らの注文で白のサテン生地であることが指定されていました。絹のサテンは日本と中国とイタリアが生糸生産でしのぎを削っていた1900年頃にイヴニングドレス(夜会服/夜の正装)の生地として欧米で流行していたものです。
サテンは利用する生糸に高品質であることが求める生地でしたから、戴冠式に使用する生糸は特に最高品質なものを探したことは容易に想像できます。

野村町産の生糸を使ったサテンのドレス

繊維が密に織り込まれて、平滑で光沢がある

シボと呼ばれる細かい凹凸が特徴
サテンは平滑で滑らかな平面で光沢があるのが特徴で、無地のサテンは繊維の粗が目立つため、節がなく、繊維が揃っていて、糸が密に織られるため糸が摩擦に強く(保護膜セシリンに富んで毛羽立たず)、光沢を出すため少ない撚りの細い糸でも強度がある必要があります。
こうした要求に応える生糸は手間がかかり高品質で高価なもので、1900年頃はイタリアが主力としていました。
それに対して中品質や低品質ですが価格の安い日本や中国の生糸は粗がごまかせる柄物や畝や絞りのあるタフタやクレープ/縮緬(ちりめん)などの生地に使われていました。
織機の機械化が進んでいたアメリカでは生糸の品質が悪いと機械を止める回数が増えて採算が悪くなるので機械の品質を満たせる日本の生糸を選び、手仕事の割合が高かったイタリア・フランスでは職人の技術で生糸の品質をカバーできたので要求に応じて使い分けていたようです。
イタリアの生糸がサテンは黒や赤や紫などの濃い色染められることが多かったようです。これはイタリアの蚕が黄色みがある糸を出す種であったことが影響しています。代わりに繊維が揃っていて、
強い糸をできて、乾燥した気候が繰糸を容易にし節を少ない糸を産出することができたようです(流行の変化が生糸の使い分けに与えた影響について(1860―1940 年)著:大野 彰)。それに対して日本や中国の蚕の繭は白いのが特徴でしたが繊維を揃えるのが難しく、切れやすく、高湿な環境でした。
イタリアのようなリアス海岸をもち日本の中で相対的に雨量が少ない愛媛県南予の野村で白い無地のサテンに使われる最高品質な生糸がつくられたのは、こうしたアジアの伝統的な養蚕の流れとヨーロッパのような気候とが出会いがもたらしたものなのかもしれません。
衰退していく日本の絹産業と価値観の変化
日本の絹の生糸の生産量は全国的には1930年代をピークに戦時体制に入り、戦後は1960年代にピーク時の50%程度まで持ち直すがそこから下降を続け現在に至っています。
野村町はむしろ戦前の2倍近くまで1960年代に生産量を高めることに成功していますが、全国と同じように、そこをピークに下降を続け現在に至っています。
1950-60年代は地方の田舎にとっては集団就職の影響によって現在以上に急激で過酷な人口減少局面にあたり、野村町も1950年をピークに人口減少を続けています。そうしたなかでの生産量の増加、国内外からの品質の評価という結果は、生産者の献身の賜物以外のなにものでもないと思います。
日本のシルク産業の衰退はアメリカのナイロンの登場によるアメリカの産業構造の変化/日米の貿易構造の変化にありましたが、
シルクに対してのナイロンの優位性は価格や機能面だけでなく、大衆文化/ポップカルチャー・家電の普及や女性の自立というウーマン・リブ運動といったアメリカの価値観の世界への浸透という文化的側面の変化と同時進行していたことは重要な点に思えます。
こうした変化はイタリア、中国、日本がしのぎを削っていた1900年頃からはじまり、各国の産業へ影響を与えていきます。
優美さから合理的でスタイリッシュな美しさへ
19世紀後半は繊維が密に平滑に織られ光沢のあるサテンがイヴニングドレスの主流でしたが、徐々に動きやすいドレスに流行が移っていきます。これはスポーツウェアやカジュアルなものとして生まれた男性のスーツ(背広)がフォーマルウェア(正装)としての地位を確立していく過程と重なります。
ココ・シャネルがシンプルな表現の帽子を発表し(1910年代)、動きやすさや着心地を軽視しない女性服として、シャネルスーツ(1923年)、リトルブラックドレス(1926年)を発表することで、こうしたシンプルで機能性を重視する価値観はより明確に社会に定着していきます。
絹産業へのこの影響の一つはリボン産業の衰退として現れます。帽子を装飾するリボンはシルクで作られ、その生糸の品質は高いものが求められていましたのでイタリア・フランスの得意分野でしたが1910年代を境に需要が減衰します。
同時期にファッション業界の近代化の開拓者の一人であるポール・ソワレがコルセットの廃止をし、第一次世界大戦(1914-1918)が起こり、ファッションの分野でもミリタリー/軍隊的要素の簡素でシンプルなデザインが現れるなか、サテンを使う豪奢なドレスデザインは姿を消していきました。
こうした流行の変化のなかで日本の生糸生産が最高潮を迎える1930年代まで主流となったのがフランス語で中国の縮緬を意味するクレープデシン/Crepe de Chineという薄物の柔らかい生地でした。
絹シャツが衛生的で、洗濯しやすいと考えられていた時代(第一次世界大戦期)
現在の価値観で考えると驚くべきことですが、第一次世界大戦中から木綿やリネンではなく絹のシャツを着ることが一般化します。こうした絹シャツにもクレープデシンが使われていました。洗濯機が家庭に普及する前の当時、繊維の奥まで汚れが染み込むやすい反面、
熱湯や強い洗剤で洗うことができる木綿やリネンは洗濯屋さんにお願いするもので、そうして糊付けされた襟のシャツを着るのがオシャレ・善いものとされていました。
それに対して絹は繊維の奥まで汚れが染みこみにくく、中性洗剤で家庭で手洗いすることで済ますことができたので、イニシャル・ランニングのトータルでみると安上りでした。衣服としてシラミがたかりにくい絹は衛生面で価値が高く、洗濯しやすかったので、
塹壕に立てこもる兵士の着るシャツとしても利用されています。現代ならテレワークなどの在宅勤務の人なら数着の絹シャツを着まわすみたいな使い方は絹の着心地と洗濯の手間のバランスを考えるとありそうな気がします。
レーヨンの登場によって代替されていくサテン向けのイタリア産生糸
ちりめんのような皺をもつクレープデシンが流行することでサテン向きのイタリアの生糸は過剰品質となり、日本の生糸はイタリアの生糸のように無撚で経糸として使える強度を出すことが必要になりました。
日本のこの問題は繰糸の煮湯の交換を控えめにして保護膜のセシリンが残るようにするという大した設備投資を必要としない方法で解決します。
さらに薄物のクレープデシンが染色で淡色を好んだことがアジアとヨーロッパの生糸の分岐点となり、さらに繊維が揃う特徴からサテンやリボンといった一部の絹製品(偶然にもイタリアの得意とする分野)でレーヨンが使われるようになり、
1930年代になるとレーヨンの品質はさらに改良され、薄物やクレープデシンでもレーヨンが使われ始めます。
ナイロンの登場と家電/洗濯機の普及 ライフスタイルの転換
こうしたレーヨンの進出を受けて、絹製品の主力は1920年代から流行したフルファッションストッキング・靴下へと絞られていきます。このフルファッションストッキングも白か無地で使用するため白いアジアの生糸が求められ、
1930年代になると日本と中国の生糸で世界の大半の生糸を生産するようになります。
そしてこの最後の砦であるフルファッションストッキング・靴下の分野にとどめを刺したのが第二次世界大戦前の1935年に開発され、大戦中に絹に変わってパラシュートなどの軍事利用を経て、
戦後に普及するナイロンでした。この頃にはアメリカの家庭には洗濯機が普及し、絹のような肌ざわりをもち洗濯機で洗濯できるナイロンを受け入れる土壌が生まれていました。
こうした構造変化は日本の住宅建築の領域では家電の登場によって進むリビング(LDK)や寝室の普及と洋家具の登場によって、座敷・和室が縮小していく流れと呼応します(マイホームからホテルライクへ、変わる住宅産業の価値観/1960年代の家電がつくったマイホームという概念)。
輸出志向で成長を続けてきた戦前の日本の絹産業を、戦後支えていたのは高度成長する国内需要でしたが、オイルショックの切り抜け、個人消費社会への意識変化が明確化しはじめた1980年をピークに着物の生産量は下降をはじめ、
バブル景気によって高級着物の需要は残っていましたが投資した設備と需要のミスマッチが1990年代のバブル崩壊によって決定的となり、生糸の国内需要もさらに落ち込んでいきます。
日本の内需が減退する同じとき中国の産業の民営化は絹産業にも及びこれを機に両者の生糸生産の世界シェアは逆転し、中国の一強の時代が訪れます。生糸生産量はおよそ倍になっていますが、その内実は日本が一強だった輸出志向の頃とは異なり、その多く(60%前後)は国内消費によって賄われています。
日本の高度成長期が内需によって絹の文化を支えたように現代の絹の文化もまた中国の経済成長に支えられているわけです。
西日本唯一の製糸場
日本の絹産業の衰退の結果、野村町の最盛期を支えてきた組合の工場が閉鎖する1994年に、これからの絹産業のためのリストラクチャリングのようにシルク博物館は開館します。繭を模した平面計画が特徴的な建築ですが、
それよりも大きな特徴は現在、西日本唯一の製糸場をもっていることです。町内で生産される繭を現在も製糸し販売しています。蚕種会社が国内に4社しかなかったのと同じように、国産の繭を製糸し国産の生糸を生産する工場は国内に5社のみとなっており、大変貴重な存在となっています。
閉鎖した工場の生産能力と比較すると、現在の年間生産量は、前の工場の数日分の生産量ということで、減少していく需要と供給に合わせた規模の適正化を行いながら、小規模高品質な生糸を生産することを目的とした設備構成となっているようです。
町内産の繭から製糸する生糸だけでは伊勢神宮の式年遷宮の御用生糸に必要な量を生産することは難しくなっているそうですが、品質は維持のための様々な取り組みを重ねてられています。
繰り糸の設備は全自動ではなく手作業と機械のハイブリッドとすることで、単純に量や効率化を追うのではなく、求められている質に対して手作業で柔軟に対応できるようにすることで、品質の安定と対応力の両立がなされています。
私も絹糸が生産されていることは知っていましたが、博物館を訪れるまで、これほどまでの高品質な絹糸が愛媛で生産されているとは知りませんでした。博物館には養蚕・絹産業の詳しい説明にはじまり、様々な養蚕道具や世界の織物も展示してあり、見るだけでなく触ることもできるものもあります。
シルクの特徴は優美で高価なものという見た目やイメージが先行しがちですが、機能面も優れており、真綿布団のような断熱性と軽さを活かした古くからの利用法だけでなく、第一次世界大戦期に軍服として利用されたように機能性のインナーとしての登山者のあいだで愛用されています。
吸湿性放湿性が高く、ヒートテックのような吸湿発熱をするので、汗で体を冷やすのを防ぎ、軽く、人の肌に近いタンパク質でできているため長期間の着用でも肌にやさしいという特徴があります。人肌に近いという性質は化粧品利用にも活かされています。触れてはじめてわかるものが、シルクにはあります。
eco-system/生態系という観点からみた 絹/silk
現在の日本人にとって未だに絹/silkは馴染みがあるイメージがある一方で、暮らしの場から姿を消しつつある存在のように思えます。それは建築の中から座敷や和室が未だに概念・言葉としては馴染みがある一方で、物理的な姿を消していっている・変えていっている様子と重なります。
世界地図で確認したように絹/silkの産地はアジアを中心としたモンスーン地域・熱帯地域の稲作地域と重なり、古くから正装/formal wareとしての地位を築き、多くの伝統工芸品を生み出してきました。男性も女性もスーツやドレスを着るドレスコードが一般化したのは実はつい最近のことで、長い歴史で見れば多様な環境に適した多様な正式/formal のバリエーションがありました(世界のなかの絹/silk)。
ヨーロッパの養蚕が19-20世紀に減退したように、日本も世界一の生糸生産量を誇っていた養蚕を専業とする時代から、再び養蚕を副業として取り組む時代へと戻っています。
かつての桑畑の多くがその地域の他の換金作物へと移り変わり、信州ではリンゴ園へと姿を変え、イタリアではワイン用のブドウ畑や酪農に変わったように、野村町では酪農施設へと移り変わっています。
時代の変化に合わせて姿を変えていくのは農業の専売特許です、ただし一人当たりの生産規模が大きくなるほど設備投資が大きくなるので、柔軟性と生産性のあいだのトレードオフの緊張感は昔よりも高まっています(産業化されていく絹産業 江戸時代の絹)(産業化された絹産業 愛媛の養蚕を通して)。
私たちの脳の記憶がデータベースのフォルダにまとめて保管されるものではなく、P2Pのように分散された情報が集まって構築されるものであるように、
社会はコンピューターのように保管されたデータを再セットアップ・再インストールでコピーしてすぐに入れ替えられるようには出来ていません。どちらかと言えば生態系が遺伝的多様性を保持することで疫病や環境変化に対処する際の情報・記憶の流れの方が似ているように思えます。こうした再現性の粗さ/構築性はAIの台頭した社会ではより身近に理解できそうな気がします。
アジアという環境が気候的にも文化的にも絹/シルクの適応しやすい環境であることは歴史が証明しています。
しかし経済性が現代では適応的でないために、その生息範囲が絞られている状況にあると言えると思います。絹は日本の伝統工芸・文化という生態系のキーストン種の一つと言えます。世界の80%の生糸を生産していた影響は建築の形態にも及び、私たちの身近な建物にも潜んでいる一方で、絹の存在が私たちの暮らしから薄れていくのに合わせて、そうした建築の存在理由もまた私たちの記憶からこぼれ落ちていっています(絹産業と養蚕建築)。
生物多様性がその地域の生物的生態系の外乱(外来種の浸入や自然災害の攪乱など)に対しての強さを表すように、産業・文化の多様性は社会的生態系の外乱(流行の変化や物流の変化など)に対しての強さを表します。僅かなものかもしれませんが、
こうした社会的生態系の外乱を生み出す力・抵抗する力を一人一人の消費者が持っている事実は忘れてはならないものだと思っています。
関連情報
野村シルク博物館
https://www.city.seiyo.ehime.jp/miryoku/silkhakubutsukan/4798.html
東京農工大学(旧東京蚕業講習所)
日本の製糸業の歩み https://web.tuat.ac.jp/~jokoukai/kindainihonnoisizue/archive/tenbo/tenbo.htm
生糸と絹と機織 https://web.tuat.ac.jp/~jokoukai/kindainihonnoisizue/archive/kiito/kiito.htm
その他 絹関係の参照サイト、PDF、著作
江戸時代初期の八丁撚糸機開発と縮緬の発達 著:田辺義一
https://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/37/BNMNS_E37_13-24.pdf
清涼育と温暖育の蚕室の仕組みと構成要素 著:勝亦 達夫, 川向 正人
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/75/648/75_648_479/_pdf/-char/ja
流行の変化が生糸の使い分けに与えた影響について(1860―1940 年)著:大野 彰
https://kyotogakuen.repo.nii.ac.jp/record/925/files/21-1-ohno.pdf
シルクはどのように世界に広まったのか 著:二神恭一・常爾・枝保
八千代出版
蚕糸と現代中国 著:倪 卉
京都大学学術出版会
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