タオルと水の関係を知るための3つのテーマ
私たちが当たり前に使っている住宅の浴室は19Cにイギリスで都市部の個人宅が普及するまで一般的なものではありませんでした。当時のイギリスは汚水・汚物にまみれて感染症が蔓延していました。
この状況を改善したのが公衆衛生の観念の普及です。そしてこの観念を広く広める一翼を担ったのが浴室の普及で、そこで象徴的な役割を果たしたのがタオルでした。
タオルは見た目からもわかるように非常にデリケートで技術の必要な織物です。こうした繊細さをもちながら、水を吸収するという大切な機能を保持しなければなりません。そのため綿がもつ吸水性を最大限に発揮するためには、製造工程で、また普段タオルを使う際にも洗濯洗浄して繊維に付着した糊や汚れを除去する必要があります。
こうした製造工程・使用状況でも水との関りが大きな影響を与えるのが織物としてのタオルの大きな特徴です。このタオルと水の関係を綿の歴史・浴場文化・水と織物の3つのテーマでまとめています。
木綿の伝播はインド・パキスタンとメキシコから
綿はインドのインダス川流域とメキシコを原産地として世界に広がり、18世紀から19世紀にかけては綿織物は産業革命の象徴となりました。日本も近代化の過程で1930年代には綿織物の生産量が世界一となり、その後の貿易や機械工業の発展に大きな影響を及ぼしました。

日本の綿花生産は大阪和泉、知多半島、遠州地方を中心に発展していきました。商業の中心地であった大阪・神戸に近かったこと、砂質土が綿作に向いていて(稲作に不向きで)、交易に適した立地という共通点を持っています。四国では今治と観音寺の瀬戸内海の花崗岩地域が同じような条件から綿作が発達しました。
但し綿花生産そのものは日本は適した気候条件にはないので、アメリカからの輸入に置き換えられて(代わりに日本からは絹の生糸がアメリカへ輸出されることで生糸生産量が世界一となります)、綿紡績と綿織物が発達しました。こうした繊維貿易が伊藤忠や丸紅、双日などの日本の総合商社の基盤となっていきました。
タオルはオスマントルコの浴場文化からスタート
知多半島・遠州地方は機械技術を発展させて、平織をはじめとした綿織物の高効率・大量生産を目指しました。こうした機械技術がトヨタやスズキ、ホンダといった自動車メーカーを誕生させていきます。
それに対して和泉はタオルという高度な加工技術と手間が必要な分野を発展させていきます。今治が取り入れたのもタオルでした。

タオルはトルコのトルコ絨毯などにみられる刺繍技術から発展し、19世紀に現在のような機械織のタオルがイギリスで登場し広まっていきます。
その背景には感染症で悩むロンドンで取り組まれた都市の公衆衛生の運動があります。住宅のなかに浴室という身体を清めることに特化した空間が生まれ、こうした健康・公衆衛生の文化的なステータスの一つとして、バスタオルのかたちで普及していきます。
戦前の浴室というものが一般的でなかった日本やアジアでは、手ぬぐい型のかたちでタオルは普及していきます。高温多湿で汗をかく気候に対して、柔らかく毛羽立ち吸水性に優れたタオルは相性が良い製品でした。
大地と水がつくりだすタオルの品質
こうした柔らかい感触と吸水性をつくりだす上で大切な工程が織りの工程とともに、繊維の洗浄(晒し)の工程があります。
綿がもっている油分や不純物を洗浄して取り除くことで、より水を吸収する柔らかい感触を実現することができ、さらには染色の工程にも影響を与えます。この洗浄の工程で大事になるのが水の質です。


今治の高品質なタオル生産を影で支えているのが先晒しという独自の洗浄の工程です。半導体が高度な製造技術と同時に不純物のない水を必要とするように、高品質なタオルにも高度なモノづくりの技術と純度の高い水が欠かすことができません。
その洗浄の水を供給するのが地下水脈をつくりだす瀬戸内海の花崗岩の地層です。地球に根ざしたものづくりが、独自の製品をつくりだしています。
木綿の伝播はインド・パキスタンとメキシコ・ペルーから

木綿は化学繊維・合成繊維が普及した現代においても木綿を模倣してつくられたポリエステル繊維に次いで多い生産量を誇る。
羊毛と絹と住み分けながら広がっていった綿花/木綿
木綿はユーラシア大陸、南北アメリカ大陸のそれぞれに起源をもち、ユーラシア大陸ではインドのインダス川流域が、アメリカ大陸ではメキシコ、ペルーが起源となり伝播していきました。
木綿は乾燥した気候と水はけのよい土壌を好むため、木綿の伝播もそうしたインドのインダス川流域と似たようなペルシャやエジプト、アフリカといった地域へはイスラム文化の浸透とともに伝播していき、それらの地域の衣服も木綿を材料としたものが発展いきます。
木綿がもつ通気性や吸湿性がそれらの地域の気候と相性が良かったこと、染色性の良さという文化面との相性も大事なポイントでした。アメリカ大陸でも、アメリカ南部が世界の綿花生産を牽引する以前から、ネイティブアメリカンは綿織物を生産し、交易をしていました。
日本では軍事利用から広まった木綿
インドから東への伝播は西への伝播と比較すると初期は限定的でした。多湿な環境と絹と麻によって形成された文化が大規模な進行を阻みました。
現在の世界の綿花栽培の主要産地であるウイグル自治区も灌漑システムが整備されるまでは大規模な栽培には至っていませんでした。中国に木綿が本格的に到達するのは13-14世紀の宋・元の時代になってからで、日本で本格的に広まるのも戦国時代になってからです。

戦国時代の木綿の利用法は衣服ではなく火縄銃の火縄と帆船の帆布といった軍事利用が中心でした。繊維を密に織ることができ、雨にも強い木綿はこれらの用途に適していました。こうした軍事からの転用された繊維は第二次世界大戦時にパラシュートなどの軍事利用が先行したナイロンと重なります。
木綿が衣料品で本格的に利用されるのは江戸時代から
衣服で木綿が使われるようになるのは江戸時代に綿花栽培が日本で本格化してからです。
大阪の和泉、愛知の知多半島、浜松遠州が主要産地で、いずれも水はけのよい砂質土壌の地域で、愛媛でも今治や伊予市の台地部の綿花栽培もこの頃から行われていました。湿った環境にも適応的な稲と乾燥した環境・塩害/アルカリ性土壌に適応的な木綿は得意とする環境が異なり、住み分けが可能でした。
各藩の自給経済から大阪と江戸を中心とする市場や地域市場が発達してくる江戸時代の中期以降は換金作物としての重要な地位を確立し、瀬戸内や中部地方で積極的に広まっていきます。
絹の生産が西陣から諸国へ伝播し工業的生産体制が進むと換金作物としての競合が生まれましたが、綿花が進入できなかった中山間部(愛媛でいう大洲や宇和)に遅れてきた桑/養蚕が入り込んでいくというかたちで落ち着いていったように思えます。
工業化そして国内市場から海外市場への産業構造の転換
日本の綿産業の次の転換点は開国し明治になった時です。政府と企業家は安い綿織物によって国内産業・国内市場が乗っ取られることを懸念し、国内の綿産業の工業化を急ぎました。その結果、大阪を中心として紡績工場が次々に建設され、東洋のマンチェスターと呼ばれるに至ります。国内の綿花は大阪や中部・浜松/遠州に集められて綿糸に加工されて、織物産地へと行き渡りました。

大阪府立中之島図書館蔵 (水都大阪)
国内産業の工業化されてゆく過程を後押しした要因の一つが日清戦争(1894-1895/明治27-28年)でした。
戦争の賠償金によって綿産業は国内市場からアメリカからの綿花の輸入、アジアへの輸出という海外市場型へと変換を遂げていきます。宇和紡績(1887年/保内)、松山紡績(1892年/松山)、伊予紡績(1894年/今治)、八幡浜紡績(1896年/八幡浜)と愛媛にも紡績工場の建設が加速したのはこの時期からです(愛媛県史)。

綿花の輸入への切り替えは国内の綿花農家を直撃します。安価な綿花が大量に国内になだれ込んでくることで綿花産業は衰退し、明治末期にはその姿をほとんど消していきます。絹産業と同様に綿産業もまた同じように多くの農家出身者の女工に支えられます。

こうした紡績工場を支えたのが後のトヨタやスズキ、ホンダへと受け継がれていく紡績・織機の機械技術でした。
豊田式木製人力織機が生み出されたのが日清戦争の4年前の1890年、戦争の2年後の1896年に国産初の木鉄混製動力織機(豊田式力織機)を完成させ安価で高性能な機械は日本の織物産業の生産性を引き上げていきます。
そして世界的な発明と評価された無停止杼換式自動織機のG型自動織機が1924年に生み出されて、日本の綿布生産は1930年代に世界一となります。
終戦後の日本を待っていたのは化学繊維との競争と輸出先だったアジア諸国の台頭でした。こうした大きな構造転換が織機メーカーの自動車をはじめとした新しい機械製造業へのシフト、そして綿貿易を主軸としていた商社の総合商社化の動きを促していきました。

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