タオルはオスマントルコの浴場文化からスタート
日本の主要な綿花産地であった知多半島と遠州地方が織機の機械化の革新による大量生産を志向したのに対して、大阪和泉が選択したのはタオル(パイル織り)という手間をかけた付加価値による差別化の道でした。
現在ではほとんどの家庭にあるバスタオルですが、江戸時代は手ぬぐいを使うのが一般的で、今でも銭湯では手ぬぐいに似た平織のタオルが使われることが多いです。木綿がインドの東西で伝播の仕方が異なったように、タオルもその伝播の仕方が異なりました。
古代ローマ時代は平織りのリネンタオル(麻)が主流
タオルにはパイル織と呼ばれる技術が使われることで、羽毛のようなふわふわした質感の触り心地の良さをつくりだしています。
このパイル織自体はエジプトやローマの時代やそれ以前からありましたが、身体を拭くような使い方ではなく、敷物や装飾品としての役割を担っていました。ですのでローマの浴場では現在のバスタオルのようなふわふわしたものではなく、麻や羊毛などの平織りの布が使われていました。


ローマでは紀元後の公衆の面前で身体/裸を晒すことと罪が結びついたキリスト教文化のもとで公衆浴場は廃れてしまいますが、身体の清潔さ/身を清めるを重視するイスラム文化に引き継がれていきます。ローマの浴場文化を引き継いだイスラム文化のハマム/トルコ風呂でもPeshtemalという平織りの綿のタオルが使われていました。トルコ・ペルシャ・エジプトは古くからの木綿の産地です。
トルコ風呂/ハマムで使われたパイル刺繍でつくられた工芸品タオル
このPeshtemalにパイル刺繍(ふわふわした毛を施す、トルコ絨毯やペルシャ絨毯のパイル織りの刺繍版)をしたものが花嫁道具や縁起物として16世紀あたりから流行します。
トルコ語のhavlamak(拭く・覆う)に由来するHavluという名前で、現在のトルコ語のタオルもこの語でイギリスから機械によるパイル織のターキッシュタオルが逆輸入していくなかで拭くものとしての役割も定着しつつ、ウェディングタオルなど現在でも縁起物としても使われています。パイル刺繍を施していた当時のHavluはニューヨークのメトロポリタン美術館にも所蔵されています。


こうしたPeshtemalやHavluがトルコ風呂/ハマムの浴場において、肌の露出を控えるために身体に巻いたり、敷物や寝そべるためのシーツ?のような使い方をしていました。平織りのシンプルなPeshtemalに対してHavluが飾りのついた贅沢版という感じです。
古代ローマやトルコ・ペルシャを舞台にしたマンガ(テルマエ・ロマエや乙嫁語りなど?)の浴場のシーンで寝てたり、座ってだべってたり、飲み食いしてる様子の人たちの足元の布がこれらに該当するものと思います。

Artist Le Barbier, Jean-Jacques-François
欧米を基準にみるとテーブルに椅子座の文化で、畳に/床に座っている日本人のようなスタイルは日本以外にないような誇大妄想に取り付かれやすいですが、トルコ・ペルシャなどのイスラム圏も絨毯を敷いてクッションを並べて、床に座ったり、寝そべったりする文化圏です。
この浴場のパイル刺繍が19世紀中ごろにトルコに来ていたイギリス人の目に留まり、ヨーロッパの上流階級向けの商品として機械織で大量生産して一儲けしようと開発されたのが現在のパイル織りのタオルの原型になります。
不潔なロンドンの都市環境に対しての公衆衛生とバスタブがバスタオルの価値観を変えた
イギリスでパイル織の機械織が開発されていた19世紀のロンドンは、悪臭で議事堂がストップしたという話が残っているくらいに劣悪な都市環境で、コレラがたびたび流行していた時代でした。
下水を都市の下流に流すように下水道整備をしたのが1855年ごろ、現代の下水浄化の基礎となる下水を微生物の力をつかって浄化して川に戻す活性汚泥法が現れるのが1914年ごろなので、今まさにそうした劣悪な都市環境を改善しようとしている時期でした。
この頃のロンドンの上流階級の発想は街中は汚い場所、なので自分たちの邸宅内で清潔に過ごすことで身の安全を確保しましょう、というスタンスではないかと思います。そうした社会のなかで生まれたのがバスタブを邸宅内に設置して、個々の家庭で入浴をして身を清める文化です。


トルコから伝播し開発されたパイル織のタオルはそうした上流階級の浴室で最初はハマムと同じようにお風呂上りに身体に巻いたり、敷物にしたりする使い方として登場しました。やがて実際に使用されていくなかで身体に付いた水を拭きとるのに良いことが表に出てきて、大量生産によって価格が下落することで庶民にも普及していきました。

こうした普及を後押ししたのが公衆衛生学の発展とその基盤となる細菌学の登場です。ジョン・スノウという医師の調査によってこれらの原因が汚れた水にあるのではないか?ということが指摘され、ロンドンの上下水道の再整備がはじまります。こうしたインフラ整備が浴室の設置を後押しし、バスタオルの普及につながります。
さらに公衆衛生という考え方を決定づけたのがヨーロッパの絹産業に大打撃を与えたペブリンの問題を解決したパスツールや結核菌やコレラ菌を発見したコッホらが切り開いた細菌学でした。
それまで具体的になにが原因で病気になるのかわからずに経験則にもとづいた対処療法や伝統的な言い伝えで行われていたものが細菌/微生物による影響であることがはっきりしました。
こうして生まれたのが手洗いうがい、入浴という非常にシンプルでありながら効果的な公衆衛生予防法です。
古代ローマからの長い空白を経て、ダーウィンが種の起源(1859年)を発表しキリスト教的人間観に疑義を突きつけたヴィクトリア朝時代に、細菌学によって身を清潔に保つという価値観が再び西洋社会にも帰ってきました。
日本でのバスタオルの普及と洗濯機の登場
欧米では最初から大判のバスタオルが普及しましたが、日本で現在一般的である大判のバスタオルが普及するのは戦後の洗濯機が家庭に普及した後になってからになります。
最初はタオルマフラーとしてのファッションアイテムとして知れ渡っていき、今でも銭湯で使われるような手ぬぐいのようなかたちのタオルが登場するのが明治の後半になってからで、国産化されるも高級品として存在し、身体を拭くものとして一般化するのは昭和になってからだったようです(IKEUCHI ORGANIC 代表のモノづくりの部屋)。
関東大震災(1923年/大正12年)の復興支援として作られていった同潤会アパートの平面図などを見ると浴室がありません。代わりに共同浴場・銭湯がアパートのなかにあります。
戦前はまだ個々の家庭に浴室があるのが一般的ではありませんでした。江戸時代から続く銭湯文化が庶民の常識であるあいだは、やはり手ぬぐいや手ぬぐい型のタオルが一般だったようです。



こうした傾向は国内需要への対応と同時に、当時の輸出先であるアジア諸国もまた手ぬぐいのような持ち運びしやすい大きさの布を使う習慣があったため、大判のタオルを積極的に製造する動機が薄かったのも要因のようです。
高温多湿なモンスーン地帯が生み出す汗をぬぐうという行動を動機づける気分は、礼節の表現としてのハンカチという冷涼な環境の西洋とは異なる方向に布を深化させていったことが見て取れます。また多雨・花崗岩地帯で軟水の地域が多かったのも影響しているのかもしれません。



戦後の公団がつくっていった団地にも共同浴場や銭湯があるものがありますが、1960年代あたりから個々の住戸に浴室があるものが一般化していきます。住戸内への浴室の登場、洗濯機の普及という条件が揃って、欧米のような大判のバスタオルが一般化していく流れが生まれていきました。



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