愛媛県大成の風穴群
愛媛県久万高原のなかでも奥地の旧面河村の大成の石鎚山脈の一部に大成風穴群はあります。
面河は石鎚山の面河ルートへつながり仁淀ブルーで有名な仁淀川の源流である面河渓や石鎚スカイラインによって高知側からの石鎚山への玄関口である土小屋へと通じており、豊かな自然景観を堪能することができます。
標高がそもそも高いので夏でも松山との気温差が4-6℃近くあり現地を訪れたときも8月末の外気温が26-28℃程度でした(松山は32-34℃程度)。風穴へ行く前からすでに涼しいですし、川の水が本当に冷たいです。

大成の看板を目印に集落への道に入り大成神宮を越え風穴への遊歩道の看板前に駐車する。遊歩道は200m程度(徒歩5分程度)。簡単な山歩きできる状態が好ましい。

他三つの風穴が安山岩と花崗岩の地質構成であるのに対して、ここは変成岩で中央構造線の南側に位置する。
大成風穴のある場所は、昔から掘ると夏でも氷が取れる場所として知られており、日本の絹の生糸生産が本格化しはじめる1900年頃(明治30年代)から蚕種保存のために利用され、現在のようなかたちへと整えられていきました。

大成の風穴群という名前の通り、風穴は一つだけでなく三つあります。
1号風穴は上林の風穴のように地面を掘り込んで石組みで固めた構造のもの、
2号風穴は高鉢山の風穴のように前室の廊下がある構造で風穴の部屋が斜面に埋められた構造のものです。
最後の3つ目は温風穴となっており、他の二つの出口になるのか?別の風穴とつながっているのか?はわかりませんが冬に温風を吹き出す出口側となっています。
敷地内には科戸大神/級長戸辺命が祀られております。級長戸辺命は伊勢神宮の内宮・外宮にも祀られる、元寇の際に神風を吹かせた神様とも言われている風の神様です。
復元された覆い屋
大成の風穴を四国のほかの風穴と分ける特徴は復元された覆い屋です。
標高が高く積雪地帯である面河の大成はそもそも風穴の冷却能力が高いものと思いますが、覆い屋があることでその冷気を逃がさず、実際に当時の天然の冷蔵庫がどれほどの能力を持っていたのかを身をもって体験することができます。
地下を掘って涼風の通気層を利用した1号風穴
駐車スペースに車を停めて、風穴までの簡易な登山道を5分ほど登るとコンクリートブロック積みの1号風穴が見えてきます。
明治時代につくられた当時の覆い屋もコンクリートブロック積みであったかは不明ですが、内部空間の湿度や結露を考えると木造を現しで使うという発想はなく、高鉢山のように石積みで組まれていれば現存していたでしょうから、志保山のように土壁や版築壁でつくられていた可能性もありそうです。


入口が一つ設けられており、現在は扉がなく常開となっていますが、なにかしらの扉が本来は付いていたのではないかと思います。
内部は真っ暗で入口からの光でどうにか見えるという感じです。見学にはライトを持参した方が、出来れば置き型のものを複数もってくると内部の様子がよくわかるのではないかと思います。

天井は防湿シートと思しきものが張られていて、びっしりと表面に結露していました。
このあたりの仕様も当時はどうしていたか気になるところでした。冷気を逃さないようにするには気密が必要で、気密を取ると湿度の処理・結露水をどうするのか?天井面は悩ましく思いました。
施工性を優先した結果なのか、作業性を優先した結果なのか、風穴の石組みは2段になっていて、下部ほど強い冷気が溜まっています。ちょうど1段目が表土の厚み分で、2段目が風穴の岩石の堆積層になっているのかもしれません。
石組みの石はこのあたりで採れる変成岩と思われ、鉄分があるのか少し赤身を帯びていました。
石積みには丸太が掛けてあり、蚕種を保管する際の棚を設けたりするための下地として利用していたのかもしれません(単純に転落防止の意味合いで設置されているのかもしれませんが)。
風穴の表面温度は約8.5℃と冷蔵庫並みの冷却能力を誇っています。
斜面を切り欠いた半地下の構造物の2号風穴
こちらは1号風穴と比較して、大きな蚕種保管所となっています。
かたちは高鉢山のように前に前室のような廊下があるタイプで、高鉢山の風穴が廊下の石組みが斜面から飛び出していたのに対して、大成の風穴では廊下の石組みも半分斜面に埋まっています。上
部構造が大きいため石組みの内側に柱が落としてあります。

私が行ったときは入口の屋根?(本体とは分離した丸太を現しで掛け渡しただけのもの)が苔むして一部崩れていたり若干塞がれていましたが、潜れば入れました。
本体の躯体は常時湿潤状態で太陽光のない閉鎖空間なので外部ほどの腐食は見られません。


1号風穴が入口からの光が室内に入ってきていたのに対して、2号風穴では廊下が折れ曲がるので奥まで光がほぼに入ってこないので、こちらは本当にライトが必要です。
床は排水のために若干勾配が取ってありますが基本はフラットです。床は石が敷き詰められているので(もしくは床が堆積した岩石を整えた状態)、歩きづらいので注意してください。
暗くて写真が撮れていませんが、室温が7-10℃、表面温度5-8℃、周辺外気温26℃で、閉鎖性が高い分1号風穴よりもしっかりと冷却されていました。
温風穴については夏に行ったため、どこかは不明でしたが、こちらも斜面が石組みで保護してありました。冬の大成風穴はなかなか近寄りがたいですが、機会があれば温風穴探しをしてみたいと思います。

このように同じ四国の風穴でもその冷却能力が異なります。違いの鍵を握るのが熱交換と蓄熱、そして水の三態変化です。
風穴内の熱を出し入れする熱交換と蓄熱
水(液体)から氷(固体)、氷(固体)から水(液体)への状態変化が、冬の冷熱を風穴内に貯える
愛媛の上林や大成のような積雪地帯やそれに隣接する場所では、冬に風穴内部の気温が0℃を下回って氷がつくられて、天然の氷室(地下の地熱を利用して氷を保管しておく場所)が生まれている可能性が考えられています。
澤田結基教授によると冬に中部以北の風穴では氷がつくられている可能性が高いそうです。
皇室への絹糸の御用糸を古くから担当している愛知県稲武町では年間平均が12℃程度、冬の最低気温の平均(12-2月)が-3.3℃なので冬の最低気温の平均が0℃を下回っていれば、氷ができている可能性がありそうです。



四国の風穴に近い気象庁のデータで冬の最低気温の平均(1991-2020)を調べると、久万高原が-1.8℃、財田でおよそ1℃、多度津で3.3℃です。
実際に夏に行くと志保山の風穴(外気温30℃に対して、風穴の出口14.5℃)に比較して、高鉢山(外気温30℃:風穴10℃)や大成(外気温26℃:風穴7℃)、上林の風穴(外気温28℃:風穴5℃)とかなり低くなっていたので、
氷が出来ているか否か?というのが、風穴の冷房能力を左右するひとつの指標となるようです。
氷があった方が直観的に涼しそうというのは理解できますが、なぜ氷があるとないとで冷房能力に大きな差が生まれる原因をより詳しく知るためのヒントがゼロカーテン効果と呼ばれる水がもっている性質です。
冬の寒さを貯える水のゼロカーテン効果
水が氷に状態変化するとき、まわりに熱(エネルギー)を発散して結晶体としての結合を構成します(凝固熱)。逆に氷が水に状態変化するときは、まわりの熱を吸収して結晶体の結合を破壊して、溶けていきます(融解熱)。
最近ではこの仕組みは夏の首などに巻くクールネックリングによって日常のなかでも体感することができます。

こうした性質によって水から氷になるときは回りに熱を出して、なかなか気温が下がらず、氷から水になるときは回りの熱を吸収して、なかなか気温が上がらず、0℃付近を維持するようになることを、ゼロカーテン効果と呼びます。
水は他の物質と比較して、この凝固熱や融解熱が大きいため、より長い期間ゼロカーテン効果が生まれやすいという特徴があります。
このため一度、氷が風穴内につくられると氷が溶けにくい状態が続き、さらに厚い地面や樹木によって外気や太陽光から守られることで長期化していくことで、夏に氷の隙間を通って涼しい風が風穴から吹き出してくるようになります。
風穴から冷蔵庫へ
絹の生糸生産・養蚕が伸びていた明治時代は冷蔵庫やエアコンが社会に登場しはじめた時期でもありました。
世界中で天然の氷を北国から運んでいた時代
製氷工場が出来る前の冷蔵は氷によって低温を保つもので、函館の冬の池で氷を収穫し、氷室に貯蔵したものを日本全国に出荷していました。
アメリカでも19世紀から20世紀初めまでは北部の湖で氷を収穫したものを出荷していた時代があり(氷貿易-wikipedia)、函館の氷が全国へ出荷される前は医療用にアメリカから輸入していました。


製氷会社の登場
1889年(明治12年)に日本ではじめての製氷会社が東京にでき、天然氷よりも安価に氷がつくられるようになっていきます。
風穴や山中への氷室への氷の貯蔵に頼っていた愛媛にも1915年(大正4年)に宇和島に製氷会社ができます。
現在も西日本に唯一残る蚕種会社である愛媛蚕種が出石寺の山に氷庫をつくっていたのが山から下りて、保内町に工場を建てるのもこの頃からで、
氷を消費する八幡浜漁港に近接し、船で全国で蚕種を出荷できる立地は、蚕種経営に適していたようです(蚕種が支える養蚕の産業化より)。
明治期の日本の近代化は日米貿易による外貨が重要な役割を果たしました。その貿易の中心には絹の生糸がありました。
絹の織物生産は木綿/cottonに比べて機械生産化が難しく、職人的な風土と相まってヨーロッパでは手仕事の領域として残されていました。それに対して機械化を推し進めていたのがアメリカでした。
そこでは統一された規格・品質の原料=生糸が求められました。
大量生産のための絹の生糸の品質の統一と風穴
日本の生糸の生産量・輸出量が伸びて、品質のばらつきをなくす方向へとプレッシャーが高まれば高まるほど、蚕種の品質の安定の重要性が増していきました。こうして工業化のプロセスへ養蚕が組み込まれていくなかで風穴の養蚕への役割を終えていきました。
産業のかたち・生活のかたちが、私たちと自然との関係を定義づけていきます。
明治・大正に文化の基盤の多くを負っている現在の愛媛県にとって絹という当時の日本全国・世界に通じた素材を通して眺めることは、現在地を知る良いサンプルになるように思えました。

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