松山市の高浜の対岸に浮かぶ興居島、伊予小富士の名で知られる独立峰をもつ平面的に立体的にもユニークなかたちの島です。松山の中心市街地から20-40分、高浜駅まで電車、自転車、車と選択肢も多様で、船でたった10-15分で到達できる離島です。
この興居島に宿泊施設を検討したいというご依頼を請け、興居島らしい時間とはなにか?興居島らしさをかたちづくっているものはなにか?という視点から島のことを調査しました。
今回はそのなかから興居島のシンボルである伊予小富士の成り立ちから、その余剰物である石を積んだ石積みや石が風化した砂がつくるつくる砂浜の風景を中心に内容をまとめてみます。
目の前に存在している当り前な風景が、実はユニークな歴史の積み重ねによって生まれている、そんなことを気づかせてくれるリサーチでした。

香川県のさぬき富士と似た上部を安山岩、下部を花崗岩の地質をもつキャップ構造、相対的に柔らかい花崗岩がなだらかな地形となる。海岸には花崗岩の防波堤と真砂(花崗岩が砂状になったもの)の砂浜が広がる。気候は暖かい海洋に浮かび温暖で、宇和海同様に漁業や海運で栄え、現在は柑橘栽培が盛んである。こうした地質・地形と気候の交わりが独特のランドスケープを生んでいる。
興居島のおもしろさは何といっても、伊予小富士を中心としたなだらかな地形と、そこに植えられた柑橘の木々と海と砂浜が織りなす風景だと思います。日本の柑橘の産地は愛媛の宇和海や佐田岬、世界農業遺産に指定された和歌山の有田のようにリアス式海岸などの急傾斜の谷の斜面に展開されることが多いですが、興居島や忽那諸島はそれらと比較して非常に緩やかでなだらかな優美な曲線の斜面に展開されます。
山・谷のかたちが異なれば、その海との境界にある砂浜のかたちも異なってきます。興居島や忽那諸島では大きな谷が発達しませんでした。これが先ほどのなだらかな地形につながるのですが、そうすると砂の陸地からの供給量は当然ながらあまり多くありません。しかし興居島では弓型の弧を描く小さな湾をいくつか持つ平面形状をもつことで、砂が流れ出ていかないように、自然と保持しつづけるかたちをもっています(こうした特徴は中島にもみられます)。

これが宇和海でみられるようなリアス式の湾とは異なる、ゆるやかな景観の砂浜を生み出し、離島らしいユニークな海水浴スポットとなっています。
こんな興居島・忽那諸島の風景の成り立ちから、岩と石積みからその魅力までを解きほぐしていきたいと思います。
なぜ興居島・忽那諸島はこんなになだらかでユニークな地形なのか?
柑橘の産地である宇和海沿岸、しまなみ海道沿いの芸予諸島と比較して、忽那諸島の山は標高が低いのが特徴です。

要因① 1400万年前の火山活動の硬い溶岩がつくるユニークなかたち
まだ日本列島があるのか、ないのかもわからないような時代のおよそ1400万年前、中央構造線の南には火山フロントが盛んに火山活動をして、瀬戸内海近辺にも大量の溶岩を周囲にまき散らしていました。この溶岩は瀬戸内海の基盤をなしている花崗岩よりも硬い安山岩と呼ばれる岩石が主で、瀬戸内海の基岩である大陸プレートの花崗岩の上に安山岩が被さるという二重構造が所々で生まれました。
このような硬い帽子を被る状態をキャップロック構造と呼びます。キャップロック構造では硬い帽子が周囲よりも風化に耐えるので残り続けて、周辺に侵食が進んだなだらかな地形が残ります。香川の讃岐富士や屋島が有名ですが、興居島の伊予小富士や中島の泰ノ山もそうです。


頂部がきれいな平面の帽子で保護されると下部の谷の発達が阻害され、山裾まで頂部の形状を広げた山のかたちになりやすいようで、下部の緩勾配と上部の急勾配が滑らかにつながったお寺の屋根のサイクロイド曲線のような形状になります。水を効率的に輸送するために発達する谷が形成されずに、代わりに水を効率的に排水するサイクロイド曲線の断面に近づくというのは物理法則にしっかり則っていることを実感します。


伊予小富士がある泊町側の道路はちょうど硬い帽子の安山岩の岩層から花崗岩の層へと切り替わって斜面の勾配が緩くなりはじめる際に沿ってぐるっと等高線を回るように(厳密には上下しているが)走っているので、山裾が海へと広がっていく山の形状とそこに広がるミカン畑の風景を存分に楽しむことができるランドスケープとなっています。
興居島の大き過ぎず小さ過ぎずの広さが、こうした海と山との近さが活かされる風景を可能にしています。
要因② 南海トラフによる300万年前のプレート運動
そういう意味で、興居島の柑橘畑の風景は宇和海のリアス式海岸の柑橘畑やしまなみ海道沿いの柑橘畑の風景と比較したとき、悪く言えばダイナミックさ=視覚的インパクトに欠けます。良く言えば、より海と山との一体感を感じられ、より気軽に楽しめる=視覚だけでなく移動を含めた時間体験的近さ・馴染みやすさがあると言った特徴を持っています。コンサートのスタジアム、コンサートホールとライブハウスの規模と距離感・一体感の違いというとわかりやすいでしょうか?それぞれに一長一短の特徴があります。



では同じ愛媛県の柑橘を特産とするこれらの地域で、なぜこのような地形的な風景的な違いが生まれてきたのでしょうか?
これには南海トラフ大地震でその名を世間にも知られる南海トラフ(深い海の溝)が現在の位置に固定された要因となったおよそ300万年前のプレート運動の変化に起因します。南海トラフ大地震の基盤となる、現在の大陸・海洋プレート配置へと変化するための歪み・ストレスが、あるところでは大地を盛り上げ(隆起)、あるところでは大地を陥没させ(沈降)させました。

上図の通り、かなり広範囲の地形的特徴がこのプレート運動の変化から影響を受けています。南海トラフ大地震が広範囲へ影響を与える理由がよくわかります。
愛媛の柑橘産地に目を移すと、真穴地区や明浜町のある宇和海は沈降エリアで、近所の足摺岬は逆にアマルフィの海崖や佐田岬の南崖のように隆起していって海崖ができました。宇和海では谷が徐々に沈んでいって海面よりも低くなった結果、海水が浸入してきて、現在のリアス式海岸(沈降海岸)が生まれたと考えられています。
このため山の中腹以降の勾配が急な部分だけが陸地として残ったため、尾根部の横断図(図1)が急なかたちとなり、石垣による斜面の保護をする風景が発達していきました。

ex.石鎚山脈、佐田岬南、室戸岬、足摺岬

曲線的斜面へ進化

ex.宇和海、佐田岬北、横浪半島、橘湾
しまなみ海道のある芸予諸島は高縄半島からの隆起エリアに属しているため、しまなみ海道の島々も盛り上がって高くなりました。その結果、島が大型化し、忽那諸島と比較して断面形状もそのまま引き延ばしたようなかたちをしています。
忽那諸島は隆起、沈降のどちらもあまり大きく作用しなかったため、それらに比較してこじんまりした島が並ぶようになりました。なので興居島はいまの高浜沖に浮かんでいたから、ユニークなかたちをもちつつコンパクトでなだかな島として成立しているのです。
地質の違いが生む石積みの風景
四国は中央構造線を境に北側に花崗岩を主とする大陸プレート(領野帯)、南側に海洋プレートの付帯物を中心とする砂岩や泥岩などの地質(秩父帯、四万十帯)、そして中央構造線近傍に広がる変成作用を受けた緑色片岩(伊予の青石、阿波の青石)などの変成岩の地質(三波川帯)と、大きく三つのゾーンに分かれています。

興居島は中央構造線の北側の内帯/大陸プレートに属し、花崗岩を主体としたエリアにあります。
西条・新居浜・川之江が燧灘によって沈降しているため東西に分かれていますが、この花崗岩のエリアは香川県のほぼ全域をカバーしていて、忽那諸島、しまなみ海道、高縄半島の花崗岩エリアは地質としては他の愛媛県内よりも香川と近いことがわかります。忽那諸島は特に山や谷の形状は実際に讃岐平野の山や谷と似ていて、日本昔話風の穏やかな印象が強いです。そこに瀬戸の豊かな漁場の漁業と宇和海のかんきつが混ざることで、独自の風景をつくっていると言えます。


四国の三つの地質ゾーンはその岩石もそれぞれ特徴的で、領家帯は花崗岩が主体となり瀬戸内海の真砂の白砂の砂浜のもととなっています。三波川帯は石鎚山脈をはじめとした山々が隆起したエリアでその造山運動による圧力を受けた変成岩が主体となっています。伊予の青石、阿波の青石と呼ばれている緑色片岩などが有名で、薄い層が重なった構造をしていて、剥離しやすく、建築・土木の観点からみると地滑りが多発する地域として有名です。その外側の秩父帯・四万十帯は大陸プレートの下に沈み込む海洋プレートの表面に載っていた地層が剥がれて押し上げられたもので、海洋由来の砂岩や泥岩を主体とし、秩父帯には四国カルストや明浜町高浜や土佐山の石灰岩(サンゴの死骸などが堆積した地層)も含まれます。



四国をまわるときは、ぜひ各地域の地質の違いに注目してください。
根が浅いかんきつ と 石積み
私たちが普段目にして触れる土は、こうした岩盤の上に薄っすらと載っている植物・動物由来の有機物と岩石由来の無機物に微生物たちが混ぜ合わさったものです。土と言うと無味乾燥な印象を抱く人もいるかもしれませんが、そのなかには生き物がひしめきあい、光合成でつくられた糖や岩石由来のミネラルなどの物質を交換しあう生命感あふれる環境になっています。
特に植物の根の周りはそうした活動が活発に行われていて、たくさんの微生物が集まった街のような状態が形成されます。植物の根はその土地の気候と土壌の栄養の分布、そしてそれに対する戦略によって浅く広くしたり、深く細くしたりと、さまざまなかたちを取ります。


興居島で現在主に栽培されているかんきつは中国雲南省からミャンマー北部、インドのアッサム地方のモンスーン地帯を原産地としています。夏にヒマラヤ山脈にぶつかったインド洋からの湿った空気が偏西風によって東へと流されて雨を降らし、夏はシベリアからの乾いた空気と高い晴天率を誇るアジアモンスーン地域の照葉樹林帯です。こうした場所では夏の 雨季は地下水位が高く、表層の栄養をいかに吸収するかが大事でした。そのため浅く広く根を伸ばす(樹冠の2-3倍の広さまで広がると言われます)ように進化しました。

こう見ると、日本のかんきつ産地が原産地とは全然異なる環境にあることがわかります。原産地にはない冬の寒さや傾斜地の乾燥した環境は常緑樹であるがゆえに生存を左右する大敵で、浅い樹根は斜面の表層が崩れるのを抑止する力が弱いという弱点を持ちます。冬の寒さに強い品種が選ばれ、改良され、風による低温対策に防風垣やハウスが使われます(建築リサーチ:緑のカーテン が かんきつ畑を守る 興居島の風景)。
土砂災害リスクを低減するための愛媛のかんきつ産地の伝統的手法が石積みによる雨水の流下速度の低減や分散でした。石と石のあいだに隙間をつくる空積みの石積み(モルタルを詰めていない石積み)は土壌に溜まった水の排水や湿気の蒸発にも好影響を与えてくれます。熱をたくさん蓄える重い石は冬の夜間でも温度を下げず、日本の寒い冬のなかでかんきつが好む温暖な環境づくりにも寄与します。
古くから愛南町の外泊や佐田岬の石積み集落をはじめ、斜面地や島での暮らしにとって石積みは身近な存在でした。表土が崩れれば岩石はいくらでも出てきたので、そうした石を積み上げて斜面を保護することで、棚田や段々畑、宅地の造成を行い、石垣や猪垣をつくって風害や獣害から身を守りました。そうした石積みの暮らしは興居島にも根付いていました。



一口に石積みと言っても、その場所の石の特徴によって積み方も変わってきます。四国の石の共通点や相違点はこうしたところでも顔を出して、遠いところ同志が同じような石積みの集落となったり、近いところで異なる石積みの集落が見られたりします。地質の違いと合わせて、石積みの違いにも注目してみてください。地域の多様性がよりはっきりと感じられるのではないでしょうか



興居島の二つの石がつくる石積みの風景
興居島の地形の説明をした際にキャップロック構造という異なる地質が重なることでユニークなかたちが作り出されていることを説明しました。この地質の違いはミカン畑や民家の石積みの違いにも反映されています。



北側の由良や門田の集落や泊・御手洗の海岸に近いところは花崗岩の岩盤の上につくられているので、黄土色っぽい花崗岩の石積みが見られます。地の石でつくられているかわかりませんが、江戸時代からと思われる由良の防波堤は花崗岩で出来ています。
それに対して南側の御手洗や泊の中腹では安山岩のキャップロックの岩石が堆積している関係から、赤黒っぽい安山岩の石積みが見られます。海岸線の近くでは花崗岩が使われるケースが多くなり、地質の違いが視覚化されています。

こうした地質の違いが土砂災害にも影響を与えています。伊予小富士の二つの岩石の境界域は火山由来の安山岩が重なった際に、その下の花崗岩を強く風化させた影響で脆くなっていて、境界を起点とする花崗岩の表層崩壊が起こりやすくなっていると考えられています。石積みや森林の重要性が増します。
土砂災害と石の性質の違い
ミカン畑では水はけが良く土が乾燥していた方がミカンの糖度を高まるために、斜面地でミカンの足元を除草して水分が留まらないようにします。マルチを張って雨水が地面に浸透しないようにしたり(さらにマルチを白にして光の反射を高めたり)、平地でも乾燥するように高畝をつくるところもあります。


裸地にしない草生栽培の有機栽培の畑も若い農家さんのあいだで増えてきていますが、草本植物との競合をさせず土壌微生物との共生の効果をあげるには草刈りの手間が掛かり、裸地の畑が今も主流という印象です。
除草して畑や裸地となったかんきつの園地は草地や森林と比較して土砂災害の危険性が高まります。特にミカンの産地は平野部狭く古くから山の頂部・尾根部まで焼畑や薪林として利用し尽くしてきた土地柄が多いため、こうした傾向は慢性的な状況だったと言えます。


平成30年(2018年)の西日本豪雨災害は愛媛県の広域に渡って土砂災害を発生させました。それぞれの地質の岩盤は異なる土砂災害のリスクを抱えてます。興居島のような花崗岩を基岩とする地域では豪雨の際に同時多発的に表層が滑り落ちる表層崩壊が起こりやすいことが知られています。
基岩である花崗岩は強度のある岩石ですが、風化しやすい特徴をもっています。表面の土の層の下で基岩花崗岩は風化して真砂になって蓄積し、そこに大雨で水が入り込み飽和すると、真砂土と岩盤とのあいだの食いつきが弱まり、表層崩壊の危険が高まります。大雨のたびにどこかで土砂崩れが起こるからハラハラするものです(表層崩壊は花崗岩に特別備わった性質ではなく様々な岩石で起こります)。


伊予の青石・阿波の青石の変成岩を主体とする三波川帯や隣接する秩父帯では地滑りが慢性的に起こることで知られています。特に泥質片岩の黒色片岩の地質が有名で、岩盤や石積みの写真でみたように層状に一定方向に積み重なったような構造をしています。石鎚山脈の隆起させた造山運動は三波川帯の地層の傾きを変えて斜めに角度をつけています(衝上断層)。
その角度を持った層状の割れ目が剥離し水が浸透していくことで地滑りを起こします。層の向きや水の集まりやすさという構造的性質が地滑りの条件を発達させるので、過去に地滑りがあった場所では、今後も地滑りが起こる可能性が極めて高いという特徴を持っています。


平成30年(2018年)で大きな土砂災害が発生した吉田町は四万十帯の深層崩壊によって起こっており、10年から100年程度の周期で、それまで蓄積したストレスが解放されて深層部から斜面が崩壊しました。これは四万十帯の地質形成が海洋プレートに載っていた地質層(付加体)が押し上げられたものに由来しています。砂岩層や泥岩層やチャートなど性質の異なる地質層が混在しています。
四万十帯でも海洋プレートに載っていた大地(付加体)がプレートの沈み込みとともに陸へ押し上げられる過程で地層に力が掛かり角度(衝上断層)が生まれます。その角度の付いた砂岩や泥岩の割れ目やその境界部が水の浸透を招きやすく、その結果、深部へと水が浸透し長い年月をかけて内部の岩盤が風化していき、そこへ大雨が降ることで風化して砂や粘土となった層で水が飽和して滑り抵抗を失い、深層崩壊を招きます。


深層崩壊は四万十帯で大きく取り上げられましたが、、三波川帯・秩父帯でも深層部からの地滑りは長期周期で起こります。温暖化による降雨量の増加はこうした深層崩壊の発生周期や花崗岩の風化帯の同時多発的な表層崩壊の発生周期を短くする方向や土砂災害の被害エリアの拡大に作用します。
知らない土地で、斜面地に近接する場所での住宅の計画や事業の際には、最低限、ハザードマップの確認を忘れないでください。
その地域の岩が、その地域の砂浜を生み出す
土砂災害に限らず、陸の岩盤は風化して(酸化して脆くなり)、岩となり砂や粘土のように細かい粒子となって、風や水によって、やがては海へ運ばれていきます。海の砂浜は陸の岩盤を素材に生まれます。砂浜の性質は岩盤の性質に左右されます。



地域の石で変わる砂浜の見た目や感触
花崗岩の表層崩壊の原因となる真砂土は瀬戸内海の白砂の砂浜の原料でもあります。花崗岩は風化して砕けていくことケイ素の細かい結晶の粒になっていきます。この細かい粒が白砂の輝きをつくり、水はけの良い(水を良く透過させ、粘土成分を排除する)砂浜を生み出します。
花崗岩は緑色片岩や四万十帯の砂岩・泥岩と違い層状の構造ではないので、石は応力の物理法則に従って角が取れていって球形に近い形状(一般的に力学的に安定した形状)に近づいていきます。こうした形状は石が小さくなっていった砂でも同じで、こうした球形の丸い砂のかたちが真砂土を歩いた時のサラサラして軽やかな質感を作り出してます。



沖縄の白い砂浜は石灰岩由来で明浜町高浜の大早津は同じ石灰岩の白い砂浜です。真砂土と同じように排水性が良くて軽やかな感触の砂浜です。これは石灰岩がもつアルカリ性の性質が粘土やシルトを波で洗い流しやすいという特徴から生まれています。そのためサンゴなどの死骸の粒子や石英の粒子が残り、白くて軽い砂浜になります。
高知の桂浜は仁淀川が運ばれる秩父帯や四万十帯の砂岩や泥岩、チャートによってできているので様々な色の石の粒が混ざり、グレーっぽい色味しています。明浜町のすぐ北側(直線距離約9㎞、道のり約35㎞)の秩父帯の三瓶町の砂浜も様々な石の粒が混ざり、泥岩由来の粘土の影響で重いしっとりとした感触の砂浜になっています。こうした泥岩由来の粘土成分が内陸の宇和や三間の愛媛のお米どころを支えています。
三瓶町の北側(直線距離約16㎞、道のり約45㎞)の佐田岬の緑色片岩の砂浜は緑っぽいグレーの色味をもち、粘土が混じることでこちらもしっとりしています。薄く割れた石から出来ているためか、粘土成分が多いためか、緑色片岩の岩盤の薄い層のように波のかたちをしっかりと留めます。石の構造が砂浜にも表れてきて面白いです。



同じ砂浜でも、その土地の石によって色んな性質があります。石・岩石巡り、石積み巡り、かんきつ巡りと合わせて、ぜひ一度、砂の感触の違いを手足で確かめて、見て欲しいです。
こうした砂や石の種類は水の硬度や産業にも影響します。
興居島も属する領家帯花崗岩の真砂土のもつケイ素の結晶がもつ安定した性質や水はけの良さは西日本の軟水の源でもあります。ミネラルが少ない軟水の方が水に成分が溶出されやすいのでお茶や関西の出汁文化が発達しました。洗濯の時に水の硬度で洗濯カスが出るように、繊維の洗浄には軟水が好ましく、多くの染色も軟水の方がコントロールがしやすいです。こうした特徴が今治のタオル産業や観音寺の綿布団を支えてきました。
さらに砂はコンクリートやガラスといった建築用材から砂のシリカ/ケイ素は半導体や太陽光パネルまで、砂戦争という言葉が生まれるほど、現代の貴重な資源の一つとなっています。
生き物のように変化する砂浜
戦前は日本の河川が土砂を運ぶ河口では、海岸の砂が海からの風によって集落へ運ばれるため防砂林が必要なほど砂が堆積していました。薪による煮炊きや焼き畑が行われなくなっていった戦後・高度成長期以降、山が緑に還っていくことで小さな土砂災害が減っていきました。山からの砂の供給が減り、砂浜を維持するために外部から砂を持って来ないと維持できないことになる場所もでてきました。(森林飽和/著:太田猛彦)
長い時間スケールで見ると、山が高くなったり、島が動いたりするように、砂浜は陸からの土砂と海の潮の流れとの相互のバランスによって大きくなったり、小さくなったり変化するものなのです。海岸のあらゆる場所に砂浜がないのはそうした理由です。岩場や砂ではなく石の粒が多い浜は山からの土砂の供給が少ないか、波・潮の流れが強くて軽い砂が運ばれた後に重い石ころだけが残っているケースです。逆に波・潮の流れが陸側に向かっている場合は土砂が堰き止められて砂が溜まり砂州や砂丘が生まれます。

瀬戸に対して腕を伸ばすように岬が伸びて、いくつもの湾・入り江をつくりだしている
興居島をはじめ忽那諸島は、300万年前の南海トラフの位置の変化に起因するプレート運動で隆起域となっていた、しまなみ海道・芸予諸島の島々やの香川県側の直島や小豆島のような島々と比較して、砂浜が多いのが特徴的です。大きな山も河川もない島では陸からの砂の供給は限定的です。プラスが少ない分、マイナスも少ないことが興居島・忽那諸島の砂浜を発達させています。
興居島の入り江はそうした相互のバランスによって成り立っています。
興居島の島の平面形状を航空写真で見ると、いくつもの岬が腕を瀬戸の流れの向きに対して深く突き出したかたちをしています。隣の釣島が瀬戸の流れに沿った流線形の卵や飛行機の羽ような平面形状をしているのとは対照的です。興居島のように岬が流れに対して深く突き出すことで、岬と岬のあいだが瀬戸の流れから切り離された穏やかな湾・入り江が生まれます。そこに陸側から岬と岬をつなぐ尾根からの幾筋もの小さな水の流れが砂を運び込むことで、砂浜が保たれているのです。
こうした岬と入り江の組合せの平面形状が空間的な場面展開を演出して島内を巡るおもしろさの要因にもなっていて、建築空間視点で見てもおもしろく、現代建築的な空間構成だと感じます。
入り江は砂浜だけでなく、藻場もつくりだす

入り江は砂浜という海のレジャーだけでなく、漁業とも深く関係しています。
興居島の漁業は瀬戸の急流を泳ぐ身の締まった魚たちを一本釣りなどで狙う、量より質を重視する漁業です。瀬戸内海・宇和海の全域で漁業の最盛期は本当に潤ったようで、豪邸や高級車を買った話や豪遊した話をあちこちの漁師町で聞きます。

(せとうちネット/瀬戸内海における漁業生産量の推移に海面漁業生産統計調査の数値を追加)
高度成長期の人口増加と所得増が高級魚の需要を押し上げ、近代化された漁船によって資源管理限界以上の漁獲量が続きました。現在では最盛期の1/4程度まで落ち込んでいます。2002年の鰆(サワラ)の先行的な資源管理の開始にはじまり、2020年に漁業法が改正されて、資源管理への動きが本格化し、漁獲枠の制限や網のサイズの制限、モニタリング手法の開発などによって瀬戸内海の魚類の全体での漁獲量はようやく下落を止めたように見えますが、個々の魚種や個々の地域での下落の問題、そして漁獲量の回復へはまだこれからです。
漁獲量の回復に向けて課題となっているものとして貧栄養塩化と産卵・稚魚の成育の場の確保があります。
一時は生活排水や工業排水による富栄養化による赤潮・青潮が問題となっていた瀬戸内海ですが、現在ではむしろキレイすぎて栄養塩が足らないという状況になっています。これは瀬戸内海という環境が、人の外部にあるものではなく人を含めた生態系として成立してきたことを、色濃く示すものです。人の活動が海を破壊していくのではなく、人の活動が海を豊かにしていく世界観があります。

(リンク先ではノリやイカナゴなどの小魚と窒素濃度の関係にも言及されている)
2021年の瀬戸内海環境保全特別措置法の改正によって、世界的に珍しい実験的に浄水場の処理レベルを下げた処理水を海へ放流したり、工場排水の一部を放流しながら、適切な栄養塩の持続的バランスを実現するための評価・モニタリング・調整をする取り組みが瀬戸内海の東側の播磨灘ではじまっています。愛媛県の燧灘や伊予灘の海域でも計画が立てられ実施へと動いています。

(国土地理院/地図・空中写真閲覧サービス/USA-M692-1-1を編集)

産卵・稚魚の成育の場で大事になるのが干潟や藻場です。高度成長期以降の埋立てによって、こうした干潟や藻場の適地は埋め立てられて工場用地や宅地へと変わっていったために、街と海とのバランスを取るためには減らした分を人工的に補っていく必要があります。漁師さんからは干潟や藻場の喪失の影響によって魚種の多様性が減り、単一種のみが瞬間的に増加するなどの不安定な状況が生まれているという声もあがっています。
興居島の砂浜をつくりだす入り江の浅瀬は松山沖に残された数少ないアマモの藻場をつくりだす場所でもあります。アマモをはじめとした海洋植物とその周囲にいる微生物たちが内海の生態系の基盤となっています。内海の植物・微生物の環境にとって重要なのが陸からの適切なかたちで供給される有機物とミネラルです。

森林やかんきつ畑、集落からの有機物とミネラルがアマモを育て、小さい魚たちの住みかになります。こうした藻場が近海の漁業の下支えとなり、瀬戸や灘の豊かな魚介へとつながっていきます。
おいしい魚を適切な価格で食べるための街に住む人たちの小さな一歩、ゴミのポイ捨ては止めましょう。海ではもちろん、川や、街でも、海は水を通してつながっています。最近ではマイクロプラスチックが問題になっていますが、遠くの海のゴミも、山のゴミも街のゴミも、海の環境へ影響を与えてしまいます。一枚のビニール袋が藻場の減少を引き起こすこともできます。
海は地球の物質循環の大きな貯蔵庫です。
興居島の砂がみせてくれる地球の物質循環の風景
かんきつの島 として今では知られている興居島ですが、かつては漁業・海運業が中心でした。お祭りも水軍に由来するものが伝わっています。こうした瀬戸内海の瀬戸の潮流をかたちづくったのも、興居島のかたちを生み出した地球の1400万年前の火山活動と300年前のプレート運動に由来しています。
この遠い過去からの地形で繰り広げられているのは、幾筋もの流れがつくる物質の循環です。
地球の活動から生まれた岩石は雨や風によって削られながら細かい砂となり、動植物の有機物と混ざり合うことで、土を生み出す。だから土はその地域の地形や石や気候、そしてそこに生きる生き物たちの相互作用によって、その場所、その場所に固有のものになります。
岩と陸の生き物たちがつくった土は工場のような役割を果たし、太陽と植物が光合成でつくりだした有機物を微生物が分解した栄養塩(窒素やカリウムなど)、そしてその過程で風化して石から溶け出すミネラル(カルシウムやマグネシウムなど)を水というトラックに載せて、海へと送り届けます。
こうして海に届いた栄養塩とミネラルが、一方では長いサイクルで海流に流されてプレートとともに地下へもぐり、マントルに溶けて、火山や造山運動によって再び海や陸へと戻ってくる循環。もう一方では短いサイクルで海の植物を育て、魚を育て、海の微生物によって分解されては、海を巡り。私たちヒトを含めた陸の動物たちに食べられて、再び陸を巡る循環。
興居島の石から生まれる風景は、そうした地球の循環の一部を私たちの目の前に可視化して、体感させてくれます。