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愛媛県松山市三津浜商店街の建築設計リサーチ_これからの職住一体の古い湊町 

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建築の設計をはじめるにはまず最初にその建築が立つ敷地のリサーチ(調査)を行います。その地域の自然特性や歴史、経済特性や社会特性などを洗い出した上で、クライアント(建築主)にとって最適な提案がなにかを見極めていきます。今回は松山市の三津浜商店街でのプロジェクトの設計で行った調査内容をまとめてみました。プロジェクトの場所は愛媛県松山市三津浜、松山城から見て西側の瀬戸内海に面する古い港町です。

国土地理院:地理院地図/航空写真を編集

建築は真っ白なキャンパスに絵を描くのと異なり、敷地があり、そこには自然が作り出した時間、人が作り出した時間があります。その時間の経過が幾層にも積み重なった良く分からない色の凸凹したキャンパスを引継ぎ、その色や凸凹の意図を解読して、新しい色を載せていきます。この解読作業が建築における敷地のリサーチです。

今回はまずこの時間の変化の蓄積を歴史の視点から解読していきます。三津浜は古くは海運などで栄えた町です。現在は商店街もシャッター通り化しており、僅かに後継者のいるお店や移住者の方がお店をはじめているに留まります。歴史を通して、なにが三津浜を栄えさせて、そして衰退させたのか、それを理解した上で、次になにが出来る可能性がありそうなのか?そうしたことをリサーチから明らかにしていきたいと思います。

もう一つ建築において大事なことは、クライアントや建築を使う人の生きる道具となるという暮らしの視点です。今回のプロジェクトのクライアントは地元への地域貢献を考えている企業、求められたのは自社のオフィス機能と地域の人たちが集える場でした。

三津浜に限らず日本の90%以上の商店街はかつての栄光は過ぎ去って商業集積地としての能力を失っています。しかし、単なる住宅地とは違う特徴を持っています。総合スーパーやショッピングセンターといったしっかりと経済的指標に基づき計画され、日々更新を続ける現代の商業集積地とも異なり、暮らしを最優先に法規制が掛かる住宅地とも異なる、独自の空間を具えていることがそれらを比較していくと見えてきます。ワークに特化している商業空間とライフに特化している住空間に分離しているのが、現代人の暮らしですが、江戸時代の町家や戦前・戦後の商店街はその構造からワーク/仕事とライフ/暮らしが一体となっているのがもともとの特徴でした。現在ではワークとライフが一体となったものとしてSOHOやリモート勤務用の書斎のある住宅などがありますが、そうした構造をもった建物が集積しているのが商店街が今なお持ち続けている特徴だと言えると思います。

砂がもたらした栄光

三津浜_広域地形分類図_自然地形を編集。石手川からの砂と瀬戸内海の波が三津浜の砂州をつくりだした。
三津浜の所在と自然地形の特徴:国土地理院地図/地形分類(自然地形)を編集

上の図は、はじめの航空写真と同じ範囲を自然地形の分類で表示したものになります。松山市が石手川の扇状地と氾濫原によって出来ているのがわかります。三津浜はもとの地形は、南から流れてくる石手川の支流の宮前川の川の流れと西からの海の波とが干渉し合うことによって生まれた南北に長く延びた砂州でした。西向きの湾となっていたところに南から砂を運んでくる河川が接続したためにこのような地形になったのだと思います。周囲の氾濫原や砂浜に比べて砂州は水害を避けやすく、内港としての湾を形成する天然の良港でした。この砂州を江戸時代に港町として埋立て・築造することで大きく発展していきます。三津浜に砂をもたらしていた宮前川は石手川の支流で現在では暗渠化されている松山城の南の中の川へ接続していました。三津浜が港町に選ばれたのはこうした城下町の中心部と結ばれた川運の利便性もありました。

砂がもたらした衰退

砂が三津浜に栄光をもたらしました。そして港の機能の限界を決定づけたのも砂でした。宮前川が運んでくる砂は河口に溜まり、大型化する船の進入を阻みました。明治以降、旅客・大型貨物の港機能は三津から分散していき、一部の貨物と近距離の旅客、漁港機能が残されます。

それでも戦前は江戸時代からの商業集積地としてのポテンシャルを発揮し、戦後も空襲を免れた三津浜は早くから商業機能を回復させて活気にあふれていました。1970年代の三津浜の商店街には映画館がいくつもあり、町の規模や中心地からの立地から考えると、戦後復興を上手く立ち回れた商業のポテンシャルの高さが伺えます。そうした商店街を支えていたのが江戸時代の町家から変わらない職住一体形式の建物で働く家族経営の個人商店でした。こうした商店街の個人商店は三津に限らずサラリーマン世帯よりも収入が多かったと言われます。

高度成長期を終えて70年代を過ぎていくと、残っていた近隣島しょ部旅客機能がもたらしていた商いも人口減少とともに少なくなっていきます。貨物もコンテナ化と陸運の発達、燃料革命による石炭需要の低迷によってさらに少なくなります。

栄光を支えた職住一体型の古い町並みが拘束する

同時にスーパーマーケットの進出が進み日用品・食品の競争が激化していきます。消費者意識の変化もあり、職住一体の零細商店では大型でチェーン展開し標準化されたスーパーのスケールメリットに太刀打ちできなくなっていきます。空襲を免れた細い道幅の街区がスーパーを商店街内に取り込むという共存の道も阻み、車保有率の上昇とともに、商業集積地としてのポテンシャルを失っていきました。そして職としての役目を終えた建物も、住の役目が残ることによって更新されることなく、使い続けられ、今に至ります。

大昔から山からもたらされる砂、それをアップデートして生まれた江戸時代からの古い町割りの街区と職住一体という建物形式。しかし現在、過去の栄光をもたらしたものが次の時代の足かせとなったまま、アップデートされていない現状が少しずつ明らかになってきました。

三津浜の歴史をもう少し細かく辿りながら、さらに、この町の特徴を見ていきたいと思います。

リサーチ:三津浜の歴史

中世:砂州の入り江の天然の良港

国土地理院の地理院地図で地形分類(自然地形)をアップで表示しました、この地域はもともと宮前川と海との干渉によって南北に長く延びた砂州であったことがよりわかります。市道の一部として松山市によって渡船が運行される「三津の渡し」の別名が「洲崎の渡し」であることは三津が「砂州の先端」にあることを良く表しています。

古代から中世の三津浜
三津浜周辺の自然地形 国土地理院地図

水の流れから見た三津と古三津の違い

三津浜に対して、江戸時代以前から漁村集落があったとされる古三津の方は氾濫原に砂州が浮かぶかたちとなっており、東の山側から水と宮前川からの水が干渉し合うことで生まれたと推定されます。砂州によって水害から守られやすく、三津浜側に対して古三津川は山側からの真水を得やすかったのが古三津に漁村集落が先に形成された理由ではないでしょうか。詳しい文献などがないですが、井戸の技術がまだ拙かったのも影響をしていそうに思えます(本格的な井戸掘り技術は江戸後期以降なので当時は人が穴に入って手掘りしていたと想定されます)。山側からの水は砂州に邪魔されて北へ伸びて、港山の裏までいって、三津浜の河口に合流します。この古三津と三津の砂州によって囲まれた氾濫原は古くは小さな内海をもった入り江の天然の良港が形成されていたことを想像させます。

中世にはじまる三津の朝市

明治期の三津の朝市の様子
明治期の三津の朝市の様子 
©松山市中央卸売市場水産市場運営協議会

宮前川が石手川を通じて道後平野までつながる主要ルートの一つとなっていた関係もあり、防衛上の重要な拠点として中世には三津浜の向かいの港山に山城が築かれていました。現在も三津浜に残る魚市場の起源はこの港山城の城下で行われていた米穀魚菜の市場とされており、こうした自然地形の恩恵によってその礎が築かれていたことが推定されます。

近世:藩港としての三津

空襲を逃れた江戸時代の町割り

そうした三津浜が大きく変わっていくきっかけとなるのが、松山城の築城です。古い古地図をみると鎖国の時にオランダと貿易をしていた長崎の出島のように、周囲から隔離された貿易エリアがあり、その周囲に船主や町民、船大工たちが住む町並みが形成されていたようです。現在は陸続きになっていますが出島の様子は地図で湾に飛び出した場所があることで見て取れます。現在の商店街の北側半分はこの出島に面した砂浜であり、出島への出入りをするための番所が置かれていました。

三津_南海トラフ地震津波浸水想定マップ
南海トラフ地震津波浸水想定MAP(愛媛県
全体として砂州に守られている。茶屋・士族・組家は浸水の特に危険の少ない場所が選定されている。

昔は砂浜だったという名残りは大型の台風・高潮や津波による浸水の危険が高まったときに表れ、商店街の一部が水に浸かるという被害が出ます。この一部というのは多くは古くは砂浜であったエリアです。

三津浜の町が古い時代の面影を残す理由は、戦時の空襲の影響を受けなかったことが大きく効いています。

松山大空襲_総務省
大空襲後の松山市街地 右奥に松山城が見える/総務省

江戸時代と明治時代のあいだでの変化は伊予史談会の所有の絵図「三津浜図〔貞享~元禄年間〕」と比較するとわかりやすいです。「今昔マップ」で明治初期と現在の街区を比較すると明治期の町割りがほぼそのまま現在まで残っていることがわかります。

今昔マップ_三津浜比較 江戸・明治期の町割りがそのまま現在に残っているのがわかる
今昔マップ、現在の地図を編集、黄色で明治期の海岸線、田んぼを緑、海を青で塗りつぶしている。

江戸中期から明治のあいだで町割りの分割が少し進んだようですが、大枠の町割りはやはり同じです。そして江戸時代の組が所有していた大きな土地が明治以降に分割されていった過程も追跡できます。実際に歩いた人は感想として意外と江戸時代などの建物が残っていないと思うのではないかと思います。重要伝統的建物群保存地区のようにまとって古い建物がないので、その印象は正しいと思います。かと言って現代の町並みとも違うと感じると思います。そのちぐはぐな不思議な感覚の理由は江戸時代の町割りにその後の時代の建物群が載っていることによっていると考えます。こうした古い町を核として、外側に埋立てながら少しずつ広がっていって、現在の三津の町が完成していきます。

1砂州の入り江の天然の良港 2井戸水に支えられた砂州の港町と明治以降の人口増加 3砂の上の職住一体の古い町並みの再解釈

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