井戸水に支えられた砂州の港町と明治以降の人口増加

水道が発達していなかった当時は井戸水が非常に重要でした。船旅の常備水としても綺麗な清水の方が持ちがよかったのでその点でも重宝されます。南の現在の小学校のあたりには茶屋(藩主が船に乗る前に風待ちなどで泊まるところ)があり、砂州のあたりでも根本の方の水害の影響が少なそうで、井戸水が取りやすい場所が選ばれています。ちょうど小学校から北へ上がっていった先の商店街との交差点に現在も町井戸が残っています。川の流れと並行して砂州の下に地下水脈がゆっくりと流れていっていることが伺えます。

しかし昭和初期に県内でも早い段階で水道が給水された理由も砂州の先端という水環境の厳しさからでした。江戸後期から明治以降の人口増加に地下水が対応できなくなっていたようで、遠方から水屋さんが水を売りに来て凌いでいたそうです(データベース『えひめの記憶』)。
瀬戸内の海と太陽の恵み:十州塩田
江戸時代の瀬戸内海といえば十州塩田と呼ばれた播磨,備前,備中,備後,安芸,周防,長門,阿波,讃岐,伊予の藩にあった塩田で、藩ごとの自給経済を基本とした当時において重要な外貨稼ぎの産品でした。瀬戸内海が塩田に向いていたのは晴れの国と言われる岡山県を筆頭にした少雨・晴天率の高さと瀬戸内海の海面の干満差にありました。
三津にもあった瀬戸内海の塩田
伊予/愛媛の塩田は伯方島などの島嶼部のイメージが強いですが(伯方の塩の影響でしょう)、沿岸部にはたくさんの塩田がありました。(今昔マップで比較するとわかりやすいです)三津浜の塩田もその一つで、先ほどの茶屋の南側、そして伊予鉄道の三津駅と港山駅のあいだの低地帯は塩田だったようです。現在では住宅地となっていて面影もほとんどないですが、入浜式の海とつながった大きな平面がそこにあったことは知っておいて損はないように思います(ハザードマップが港山裏側が三津浜よりも濃いのはこうした理由からです)。
明治末期の製塩施設の資料がデータベースえひめの記憶のなかにあり三津の入浜式の製塩施設の様子が描かれています。当時の建物がどのようなものだったのかが知ることができます。現存する製塩施設は全国的にも稀ですが、徳島県鳴門市にまだ入浜式の製塩施設群が残っているものがあります(国指定重要文化財:福永家住宅)。一般公開は普段は行っていないですが、興味がある人には外から見るだけでも色々と掻き立てられるものがあるのではないかと思います。
瀬戸内の醤油蔵:海がつなぐ生産と消費

この豊富な塩と井戸水が育んだのが醤油蔵でした。瀬戸内海では小豆島の醤油蔵が有名です。三津にはこの小さなエリアに現在も4つの醤油蔵が存在しています。そのなかの「丸木醤油醸造元」は小豆島の醤油蔵の伊予支店を昭和9年に引き継いだものだそうで、瀬戸内海のつながりが見えてきます。江戸時代は農村では自家製の味噌が調味料の中心でしたから、町民文化のなかで消費される文化的なもので、小豆島の醤油も大阪という消費地によって発展したものでした。塩と水以外の原料となる大豆や小麦は九州から輸入していたようです。代わりに九州へは帰りの船で醤油や塩などが輸出されます。島の塩の付加価値を高めるのに醤油をつくることをはじまったようで、今でいう六次産業化ということでしょうか。一年を通して晴天に恵まれ塩が作れ、江戸時代の物流の大動脈である瀬戸内海は、醤油つくりには適した立地でした。小豆島の醤油が島外に展開を本格化するは明治になってからで、瀬戸内海中に広がったようです(小豆島醤油の歩み)。三津の醤油もその一つということです。
西日本には3つの醤油の古い産地があります。一つは小豆島の醤油の源流となったと言われる醤油発祥の地といわれる和歌山県湯浅の木樽仕込みの濃口醤油、鎌倉時代に起源をもち、室町時代(1535年)には既に大阪に卸していたようです。灘や伏見の酒蔵へ卸していた吉野杉の木樽を使ったことによってそれまでよりも上質な醤油を大量につくることが可能になりました。二つ目は関西でよく使われる淡口醤油の発祥の地である龍野(1666年)。酒づくりから醤油づくりへと江戸時代初期に転換し、甘酒を足す製造法が特徴です。京料理で使われることでその存在感を高めていきました。三つ目がさしみ醤油などでおなじみの再仕込み醤油の発祥の地の柳井です。名前の通り、仕込みを二度行うためうま味成分が高くなるのが特徴です。1780年代(天明年間)に生まれたとされています(キッコーマン「フードカルチャー」)。現在ではこれらの技術は行き渡り、どの醤油蔵も濃口、淡口(薄口)、再仕込み、の一つだけではなく、瀬戸内海に浮かぶ小豆島、そして三津もまたそれぞれの醤油からの影響があって今日に至っています。
醤油が庶民に広がり始める明治時代

全国で地域に醤油文化が根付き始めるのも明治に入ってから、醸造所の数のピークが大正の頃だと言われています。現在残る三津の醤油蔵も明治創業の蔵(遠藤味噌醤油醸造場明治13年、村要本店明治18年、田中屋明治38年)が続いています。塩田があり、井戸水を得られ、小麦や大豆の産地とのつながりが持てる三津は小豆島同様に醤油づくりの適地だったようです。田中屋さんはそのなかでも国産大豆にこだわって醤油づくりをされています。普段当り前に使う醤油ですが食卓に置いてある多くの醤油は脱脂加工大豆と呼ばれる大豆油の搾りかすを使ったものです(ご自宅の醤油の成分表を見てみてください)。次がキッコーマンの丸大豆醤油などがそうですが、海外産の大豆を使った醤油です。全国各地の地域に古くからある醤油蔵でも多くはこのどちらか(大体は脱脂加工大豆)を使っています。もちろん脱脂加工大豆を使ったら全て同じ味の醤油になるものではないですが、食品に詳しい人に聞くと国産大豆は素材にこだわっている醤油、ということのようです。こうした素材や技術が掛け合わされて、多様な醤油が一つの地域のなかだけでも共存しています。
近代:商店街の形成と港機能の分散から進む衰退・人口流出
明治になり三津浜は三津浜町となります。当時は町村制がありましたので、すぐに松山市となったわけではありませんでした。戦前の日本は半分以上が農民だったので町村の自立性が高かったことがそうしたシステムとなっていた要因のように思います。それが都市の発達とともに自立性が下がり、松山市へ編入されていきます。三津浜が松山市に編入されたのは遅めの昭和15年/1940年になってからです。これは農村部に対して発展する商工機能に軸を置いた町であり、後で見るように港機能が分散していくなかでも、その重要性を保っていたからだと言えると思います。
町並みに表れる重層する時代

藩港としての役目を終え、松山市という消費地をバックに本格的な商港として発展を目指します。江戸時代に船場であった湾内の出島のような場所から港は海側へと出て行きます。洲崎町の西側の浜が造成されて商港機能の本格化に伴い明治二十一年に現在の松山市域で最初の鉄道が伊予鉄道によって通ります(データベース『えひめの記憶』)。それまで北浜と呼ばれていた出島と町とのあいだの浜は埋め立てられて、現在の商店街の基盤が生まれていきます。今はなくなっていますが松山電気軌道がこの埋め立てられた浜の際を港近くまで通っていました(明治44年/1911年)。外港としての高浜を押した伊予鉄道と三津浜を押した松山電気軌道の熾烈な競争の末、松山電気軌道は昭和6年/1931年にその姿を消します。現在のように伊予鉄道側に商店街の中心が移っていったのは、その頃からだと言われます。そのため商店街から旧港までの通りは奥側ほど江戸時代や明治・大正の古い時代の建物・雰囲気が残り、駅に近い場所ほど昭和な様子が残るという時代を横断するような構造となっています。戦後にはさらに外側に埋立て拡張された町や倉庫街、港が広がり、現在のより一層の時代の重層化が生まれていきます。



港町と歓楽街・倉庫街

瀬戸内海の湊町と言えば、多くが風待ちのための滞在や交易の接待の場として料亭やお茶屋がありました。三津も例外ではなく、現在の商店街の真ん中のT字路のあたりにあったと言われています(松山市三津浜の港町としての盛衰について)。江戸時代には、浜からもほど近く、船主たちが滞在する組家が集中していたので勝手が良かったのでしょうか。そうした賑わいは伊予鉄道の三津駅の開業とともに現商店街の人通りが増加したことで、風紀上の問題として移転されます。移転先に選ばれたのが江戸時代に船場のあった出島でした。こうした歓楽街を出島に限定することで町の風紀をコントロールする手法は全国的に見られ、広島藩が宮島へ色街を城下から持っていったのもその一つです。
稲荷新地と呼ばれ、「思案橋」と「見返り橋」と呼ばれた二つの遊郭らしい名前の橋によって出入りが制限されてました。稲荷神社と遊郭は全国的にもセットなので、当時は稲荷神社があったのかもしれません。稲荷新地は現在ではほとんど痕跡が残っていませんが大正末期・昭和初期をピークに戦後まで続いていたようです。
明治以降の三津を特徴づけるもう一つの建物が船舶鉄工をはじめとした中小の工場と物流倉庫たちです。江戸期の古い町割りが残る内側に対して外側へ発展したため、北浜を埋め立てた地域、そして西側を埋め立てた地域に工場や倉庫群が集中しています。現在のようなコンテナ輸送ではない時代においては屋外に放置することは出来ませんから、貨物を保管しておくための倉庫が港で重要な役割を果たしていました。そうした新しい広いスペースを必要とする機能は内側の狭い敷地には適さず、外へ外へと広がっていったのでした。商港としての機能の低下とともにこうした倉庫も役目を終え、新たな用途への転用がはじまっています。
料亭・お茶屋のあったT字のあたりは移転後の跡地にも劇場や映画館が生まれ、賑わいの中心的存在だったようです。みつはまレトロのfacebookにて当時の映画館の写真やチラシ、映写機などが投稿されています。現在の様子だけ見ていると不可解ですが商店街のエリアがこのT字まで含まれているのは、そうした劇場・映画館への道を兼ねていたからかもしれません。戦後の三津浜の歓楽の中心だったことが想像できます。また三津浜のなかでもT字路周辺に間口の狭い建物が集中しています。最初は元闇市関連かと思いましたが、空襲の影響は少なかったので、江戸・明治の揚屋の小さな間口の割が現在まで継承されている可能性もありそうで興味深いところです。映画館が吸引力となって周辺店舗も賑わっていたようです。最近は移住者の方の店もあったり、新旧の小店が入り混じって、全国の元闇市の再活性化の事例のような新しい風が吹いてきています。
砂が阻んだ繁栄、戦後の社会構造の変化
三津の発展のはじまりが砂(砂州)だったように、三津の発展を阻んだのも砂でした。明治に入り三津を拠点に進んだ松山の商港機能はすぐに壁にぶちあたります。川上からの砂の堆積が大型化する船舶を拒んだためです。そうしたなかで明治17年に台風によって港湾機能がダメージを受け、明治末期には大型船の遠距離旅客機能が高浜へ、次は戦後のコンテナ船による船の大型化によって大型物流機能が大可賀へ、外へ分散させていくことが決まっていきます。この高浜への分散が鉄道の競争へとつながったのは先ほど見た通りです。
物流のコンテナ化はベトナム戦争への物資輸送が大きな関りを持っていました(コンテナ物語 世界を変えたのは「箱」の発明だった)。アメリカからベトナムへ輸送された空のコンテナに日本の商品を積んで帰るという、その後の日米貿易の端緒となっています。そのため物流のための港はますます大型化を図ります。
船の大型化に大きな影響を与えたもう一つは石油です。九州で産出される石炭は瀬戸内海沿岸にとってアクセスしやすい燃料源でした。昔の小学校はだるまストーブ(石炭ストーブ)で暖房をしていたように日々の生活でも使われるものでした。それが1950年代から変わっていきます。九州の筑豊の炭田は1960年代に大手が閉山し、76年にすべての炭鉱が閉山します。三津でも1970年代まで石炭の積み下ろしが行われていたそうですが、それも石油燃料へと置き換えられていき、主力だった石炭がなくなることで、物流機能はほぼなくなります。
この時期はスーパーマーケットの台頭の時代とも重なります。特に自家用車の普及とともに江戸時代からの古い町割りが残る三津の商店街は駐車場の確保も難しく、バス・鉄道利用者の減少、近距離旅客の近隣島しょ部の人口減少とともに商店街の衰退も深刻になっていきます。瀬戸大橋の開通、高速道路の延伸、幹線道路沿いの郊外商業開発と車社会化が進めば進むほど、幹線道路から外れた三津を含む城西地域(松山城に対して西側の海沿いのエリア)のある港側の商業的価値が低下していきます。建築・都市計画関連の規制緩和が進んだ2000年代以降は全国的に郊外商業開発が加速します。松山近隣でもエミフル松前、グラン藤重信と大型ショッピングモールが開業します。こうした大型商業施設は近隣にはシャワー効果による正の効果が出る一方で、圏域周辺部には吸引効果による負の効果が出ます。




