建築の設計をはじめるにはまず最初にその建築が立つ敷地のリサーチ(調査)を行います。その地域の自然特性や歴史、経済特性や社会特性などを洗い出した上で、クライアント(建築主)にとって最適な提案がなにかを見極めていきます。今回は松山市の三津浜商店街でのプロジェクトの設計で行った調査内容をまとめてみました。プロジェクトの場所は愛媛県松山市三津浜、松山城から見て西側の瀬戸内海に面する古い港町です。
建築は真っ白なキャンパスに絵を描くのと異なり、敷地があり、そこには自然が作り出した時間、人が作り出した時間があります。その時間の経過が幾層にも積み重なった良く分からない色の凸凹したキャンパスを引継ぎ、その色や凸凹の意図を解読して、新しい色を載せていきます。この解読作業が建築における敷地のリサーチです。
今回はまずこの時間の変化の蓄積を歴史の視点から解読していきます。三津浜は古くは海運などで栄えた町です。現在は商店街もシャッター通り化しており、僅かに後継者のいるお店や移住者の方がお店をはじめているに留まります。歴史を通して、なにが三津浜を栄えさせて、そして衰退させたのか、それを理解した上で、次になにが出来る可能性がありそうなのか?そうしたことをリサーチから明らかにしていきたいと思います。
もう一つ建築において大事なことは、クライアントや建築を使う人の生きる道具となるという暮らしの視点です。今回のプロジェクトのクライアントは地元への地域貢献を考えている企業、求められたのは自社のオフィス機能と地域の人たちが集える場でした。
三津浜に限らず日本の90%以上の商店街はかつての栄光は過ぎ去って商業集積地としての能力を失っています。しかし、単なる住宅地とは違う特徴を持っています。総合スーパーやショッピングセンターといったしっかりと経済的指標に基づき計画され、日々更新を続ける現代の商業集積地とも異なり、暮らしを最優先に法規制が掛かる住宅地とも異なる、独自の空間を具えていることがそれらを比較していくと見えてきます。ワークに特化している商業空間とライフに特化している住空間に分離しているのが、現代人の暮らしですが、江戸時代の町家や戦前・戦後の商店街はその構造からワーク/仕事とライフ/暮らしが一体となっているのがもともとの特徴でした。現在ではワークとライフが一体となったものとしてSOHOやリモート勤務用の書斎のある住宅などがありますが、そうした構造をもった建物が集積しているのが商店街が今なお持ち続けている特徴だと言えると思います。
砂がもたらした栄光
上の図は、はじめの航空写真と同じ範囲を自然地形の分類で表示したものになります。松山市が石手川の扇状地と氾濫原によって出来ているのがわかります。三津浜はもとの地形は、南から流れてくる石手川の支流の宮前川の川の流れと西からの海の波とが干渉し合うことによって生まれた南北に長く延びた砂州でした。西向きの湾となっていたところに南から砂を運んでくる河川が接続したためにこのような地形になったのだと思います。周囲の氾濫原や砂浜に比べて砂州は水害を避けやすく、内港としての湾を形成する天然の良港でした。この砂州を江戸時代に港町として埋立て・築造することで大きく発展していきます。三津浜に砂をもたらしていた宮前川は石手川の支流で現在では暗渠化されている松山城の南の中の川へ接続していました。三津浜が港町に選ばれたのはこうした城下町の中心部と結ばれた川運の利便性もありました。
砂がもたらした衰退
砂が三津浜に栄光をもたらしました。そして港の機能の限界を決定づけたのも砂でした。宮前川が運んでくる砂は河口に溜まり、大型化する船の進入を阻みました。明治以降、旅客・大型貨物の港機能は三津から分散していき、一部の貨物と近距離の旅客、漁港機能が残されます。
それでも戦前は江戸時代からの商業集積地としてのポテンシャルを発揮し、戦後も空襲を免れた三津浜は早くから商業機能を回復させて活気にあふれていました。1970年代の三津浜の商店街には映画館がいくつもあり、町の規模や中心地からの立地から考えると、戦後復興を上手く立ち回れた商業のポテンシャルの高さが伺えます。そうした商店街を支えていたのが江戸時代の町家から変わらない職住一体形式の建物で働く家族経営の個人商店でした。こうした商店街の個人商店は三津に限らずサラリーマン世帯よりも収入が多かったと言われます。
高度成長期を終えて70年代を過ぎていくと、残っていた近隣島しょ部旅客機能がもたらしていた商いも人口減少とともに少なくなっていきます。貨物もコンテナ化と陸運の発達、燃料革命による石炭需要の低迷によってさらに少なくなります。
栄光を支えた職住一体型の古い町並みが拘束する
同時にスーパーマーケットの進出が進み日用品・食品の競争が激化していきます。消費者意識の変化もあり、職住一体の零細商店では大型でチェーン展開し標準化されたスーパーのスケールメリットに太刀打ちできなくなっていきます。空襲を免れた細い道幅の街区がスーパーを商店街内に取り込むという共存の道も阻み、車保有率の上昇とともに、商業集積地としてのポテンシャルを失っていきました。そして職としての役目を終えた建物も、住の役目が残ることによって更新されることなく、使い続けられ、今に至ります。
大昔から山からもたらされる砂、それをアップデートして生まれた江戸時代からの古い町割りの街区と職住一体という建物形式。しかし現在、過去の栄光をもたらしたものが次の時代の足かせとなったまま、アップデートされていない現状が少しずつ明らかになってきました。
三津浜の歴史をもう少し細かく辿りながら、さらに、この町の特徴を見ていきたいと思います。
リサーチ:三津浜の歴史
中世:砂州の入り江の天然の良港
国土地理院の地理院地図で地形分類(自然地形)をアップで表示しました、この地域はもともと宮前川と海との干渉によって南北に長く延びた砂州であったことがよりわかります。市道の一部として松山市によって渡船が運行される「三津の渡し」の別名が「洲崎の渡し」であることは三津が「砂州の先端」にあることを良く表しています。
水の流れから見た三津と古三津の違い
三津浜に対して、江戸時代以前から漁村集落があったとされる古三津の方は氾濫原に砂州が浮かぶかたちとなっており、東の山側から水と宮前川からの水が干渉し合うことで生まれたと推定されます。砂州によって水害から守られやすく、三津浜側に対して古三津川は山側からの真水を得やすかったのが古三津に漁村集落が先に形成された理由ではないでしょうか。詳しい文献などがないですが、井戸の技術がまだ拙かったのも影響をしていそうに思えます(本格的な井戸掘り技術は江戸後期以降なので当時は人が穴に入って手掘りしていたと想定されます)。山側からの水は砂州に邪魔されて北へ伸びて、港山の裏までいって、三津浜の河口に合流します。この古三津と三津の砂州によって囲まれた氾濫原は古くは小さな内海をもった入り江の天然の良港が形成されていたことを想像させます。
中世にはじまる三津の朝市
©松山市中央卸売市場水産市場運営協議会
宮前川が石手川を通じて道後平野までつながる主要ルートの一つとなっていた関係もあり、防衛上の重要な拠点として中世には三津浜の向かいの港山に山城が築かれていました。現在も三津浜に残る魚市場の起源はこの港山城の城下で行われていた米穀魚菜の市場とされており、こうした自然地形の恩恵によってその礎が築かれていたことが推定されます。
近世:藩港としての三津
空襲を逃れた江戸時代の町割り
そうした三津浜が大きく変わっていくきっかけとなるのが、松山城の築城です。古い古地図をみると鎖国の時にオランダと貿易をしていた長崎の出島のように、周囲から隔離された貿易エリアがあり、その周囲に船主や町民、船大工たちが住む町並みが形成されていたようです。現在は陸続きになっていますが出島の様子は地図で湾に飛び出した場所があることで見て取れます。現在の商店街の北側半分はこの出島に面した砂浜であり、出島への出入りをするための番所が置かれていました。
航空写真に赤線で江戸期の町割り、黄色で推定される江戸期の海岸・河川の際を示した。
全体として砂州に守られている。茶屋・士族・組家は浸水の特に危険の少ない場所が選定されている。
昔は砂浜だったという名残りは大型の台風・高潮や津波による浸水の危険が高まったときに表れ、商店街の一部が水に浸かるという被害が出ます。この一部というのは多くは古くは砂浜であったエリアです。
三津浜の町が古い時代の面影を残す理由は、戦時の空襲の影響を受けなかったことが大きく効いています。
江戸時代と明治時代のあいだでの変化は伊予史談会の所有の絵図「三津浜図〔貞享~元禄年間〕」と比較するとわかりやすいです。「今昔マップ」で明治初期と現在の街区を比較すると明治期の町割りがほぼそのまま現在まで残っていることがわかります。
江戸中期から明治のあいだで町割りの分割が少し進んだようですが、大枠の町割りはやはり同じです。そして江戸時代の組が所有していた大きな土地が明治以降に分割されていった過程も追跡できます。実際に歩いた人は感想として意外と江戸時代などの建物が残っていないと思うのではないかと思います。重要伝統的建物群保存地区のようにまとって古い建物がないので、その印象は正しいと思います。かと言って現代の町並みとも違うと感じると思います。そのちぐはぐな不思議な感覚の理由は江戸時代の町割りにその後の時代の建物群が載っていることによっていると考えます。こうした古い町を核として、外側に埋立てながら少しずつ広がっていって、現在の三津の町が完成していきます。
砂の上の職住一体の古い町並みの再解釈
少子高齢化が先行して進む人口構造
松山市のなかで島嶼部や山間部を除いたなかで人口減少・少子高齢化が先行して進んだのは、この西側の郊外エリアでした(松山市郊外エリア 高齢化進展エリアの人口比率)。
同じように空襲を逃れて古い町割りが残り、主要な都市間交通から外れた位置にある道後地区と比べると城西エリアの高齢化の現状が良くわかります。中心部との距離や大学との近さ、観光地としての知名度といった要素の違いが大きな影響を及ぼしていますが、古い町割りという要素のみが今の状況を作り出しているわけではないことを知る一つのデータです。
ただ個人的には道後を目指すのは三津の特性を考えると違う気がしています。70代が人口のピークになっています、この十年、二十年が町の大きな変化の時期と言えるでしょう。
職住一体の暮らしの再解釈
昔は商店街にはアーケードがあり、映画館が複数ありましたが、現在では多くがシャッターを下ろして、職住一体の多くの建物にはお年寄りの住まいが残るかたちとなり、少しずつ誰に継承されるわけでもなく空き地が増えていっています。
そうしたなか現役を続けている商店主の方、地元のUターンの方々、移住者の方、県内・市内の三津が好きな人たちと立場は違えど、三津浜を想う方々が再び三津浜の賑わいを目指してまちに入り込んで活動をはじめています。
しかし課題はまだ多く残されています。少子高齢化・人口流出はまだ歯止めがかかっておらず、商店街が賑やかだった頃に対して人の流れも変わっています。休日や花火大会などのイベント時こそ多くの人で賑わいますが、平日は人は疎らです。そのような状況では対面販売の店舗としては経営が苦しいため、三津浜以外からの集客が図れるような商品開発や企画、店舗としての営業日を抑えてたり(週1や週3など特定の曜日だけ営業)、対面販売としての店舗だけでなく工場を兼ねてネット販売との複合経営に軸足をもっていくことで経営を安定化させるなど、工夫をされているようです。
ワークライフバランスと自営型のはたらき方・くらし方
そうした三津に新たに増えつつある移住者の方々の特徴を愛媛大学の山口信夫氏の衰退商業地における新規開業事例に関する研究では「ワークライフ事業者」と命名されています。経済性だけを追求するのではなく、職住一体・近接の暮らしのなかで自分らしい生き方を選択する、そういった新しい選択肢が少しずつ増えています。この傾向は建築・まちづくりの面から見て興味深い点があります。
職住一体の店舗は顧客との接客・コミュニケーションの場であると同時に、地域の社交場のような機能を持っていました。また商品に対しての専門的知識や故障する電気機器のメンテナンスを通して、顧客間・地域内での継続的な関係が構築されやすくもありました。
高度成長期以降、核家族化・セルフサービス化(自ら陳列棚の商品を選んでレジへ持って行くかたち)が進展し、商店主がもっていた地域の世話役としての力・社交場としての機能が弱まるなかで、職住一体の家族経営の零細企業像が古い家族像・ライフスタイルとして世間から見なされて、スーパーとの競争の激化や子供の成長(子供部屋の必要)も相まって職住分離(職住近接化など)やアルバイトを雇うなど経営の脱家族化が進みました。
そうした視点から見ると職住一体を好む姿勢は一度見捨てられた古い職住一体のスタイルがもっていた機能をSNSなどを使って、地域商圏という枠組みから趣味趣向という新しい商圏の方向性へアップデートした姿と捉えることができるように思います。家族像も古い家族経営のかたちから、個の存在を尊重しつつ、もう少し広めの人間関係のなかで家族外を緩やかに巻き込んだかたちにアップデートしているように思います。
三津の町がそうした人たちに選ばれる要因として山口氏は
①家賃・不動産価格の低下、
②セルフビルド等による開業資金の抑制、
③高関与商品による広域的集客を上げています。
地域が衰退していっている=不動産価格が低下する、という単純な図式ではありません。これは地方の各商店街をはじめ多くの場所で見られる現象で、本当に空き家になるまで(しっかりと継承されずに放棄されるまで)不動産所有者の高値の時代の経験が引きづられて価格が低下しないケースが普通です。三津でそれが解消するケースが見られるのは所有者と購入希望者のあいだに入って仲介をし、価格の適正化をかって出てくれる地域の顔役の方がいるからです(山口氏の言葉で「商店街組織の前リーダーによる一歩踏み込んだエリアマネジメント行動」)。衰退による地域の家賃・不動産価格の低下と低価格な自由な場へのクリエイティブな人たちの流入という相関は三津に限らず古くから様々な街で見られるかたちです。こうした活発な活動は「三津浜地区チャレンジショップ事業」など継続展開されています。
商品に手を自ら加えることのできるクリエイティブな人種だからこそ、柔軟な対応がしやすく、衰退した逆境の環境(地域の衰退)に適応し、逆にそれ(不動産価格の低下)を栄養として伸びることが可能となります。
三津を足掛かりに孵化し、中心部に出店するという動きも現れてきていると聞くので、そうしたインキュベーション機能も今後、三津が担っていく可能性も高そうだと感じます。行政がそうした中心と周辺とを連動させる動きに補助をする仕組みがあると、中心・周辺の双方のメリットを活かしながら、全体として魅力の向上につながりそうです。
職住一体型の建築の更新の難しさ
職住一体のかたちはワークライフ/生きがいを活性化させる動因であると同時に、古い職住一体型のつくりも町の新陳代謝を抑制している要因の一つでもあります。高齢化と町の衰退で職としての店舗部分を閉めていても、すぐ横に一体となっている住の部分は維持されており、住みやすい地元への愛着を持って住み続けています、そのため簡単に店が閉まっているから次が入れば良いと考えにくい状況にあります。これまで後継者がいることで引退した高齢者は奥に隠居して、表は息子世代が営むという構図が成立していたため、こうした問題は地域全体で生じることはありませんでした.
しかし高度成長期以降でライフスタイルが大きく変わり断絶しているため(当時はサラリーマンよりも収入が良かったケースも多かったので、大学で都市へ出て行き、帰ってこないパターンが良く見られるように思います)、大きく表面化することになりました。こうした建築というハードに生業・生活がロックインすることで、周囲から取り残されてしまうのは全国の商店街に共通した課題です。19世紀イギリスのランカシャーがレンガ造りの工場とかつての栄光にロックインして、20世紀に飛躍する鉄骨造やRC造のスパンの大きな工場なら入れられる新しい大きな設備へ更新が遅れて、衰退した様子と重なります。ランカシャーの工場に比べれば物理的な要素は解決しやすい気がしますが、心理的な要因をどう解決するか?が大きなポイントとなります。
こうした構図は新陳代謝しない農地の構図にも似ており、代々の土地や建物を手放すことへの思いをどのように次の世代が汲み取っていくのか?ソフト面・ハード面、双方の知恵が求められます。町の年齢構成が偏っているため、世代交代のタイミングはいきなりやってきます。農地では土地継承を明確化しセーフティーネットをつくることで行き先がわからなくなり荒廃する農地をなくす取り組みが進められています。商店街をはじめとした世代に偏りがある場所では、そうした取り組みが必要な時期にきているのかもしれません。
商店街とはどのような組織なのか?
所縁型/メンバーシップ型組織の商店街 と 目的型/ジョブ型組織のショッピングモール
私たちは単独よりも外圧(天災・人災)への抵抗力を得るために、集団を組織し、その集団を安定して維持するために余力のある実りを組織します。集団/組織は歴史・経路依存的であり、過去を引きずらなくてはなりません。現在を変える動きは必ず過去から抵抗を受けます。現在組織を支えている仕組み・支えている仕組みは過去の組織を支えていた仕組みから影響を受け、そして現在の仕組みは未来へ影響を及ぼします。未来へ向けてどのように改変していくために過去の仕組み、現在の仕組みを理解する必要があります。
「商店街はなぜ滅びるのか」において日本の流通史を通して日本の商店街を論じた新雅史氏によると、地縁にもとづく主従関係の薄い対等性の高い組織として、都市部郊外のショッピングモールを軸とした地域開発の目的型組織と対比させて、その特徴を述べています。対等性の高い組織という言葉は一見響きが良いですが、逆に言えば大手企業などから見れば組織としての体をなしていない組織とも言えます。それは液体に火を入れると対流がはじまり一つの組織としての構造をもつが、火(外からのエネルギー)が消えるとまたバラバラになる、そうした勢いに波がある緩さなのだと感じます。
こうした構図は日本型雇用システムを批判した濱口桂一朗氏のメンバーシップ型雇用とジョブ型雇用の大手企業と、そのどちらでもない未分化な中小企業の分類に違いに似ています。ショッピングモールはジョブ型雇用企業のように最初に全体のシステムがあって、そのシステムを構成する要素として店舗の出店を打診・募集して、構成されます。さらに成果主義が徹底されることで、新陳代謝の圧力が各店舗には掛けられ、魅力のない店舗は別の店舗へと入れ替えられてモール全体の魅力を保ちます。
まちづくりの分野ではタウンマネジメント機関のように、まちの発展をショッピングモールのように管理運営してくれる仕組みを導入しようとする動きがあります。そこで求められるのはショッピングモール会社のようなシステム設計とマネジメント能力のようですが、タウンマネージャーに出店・退店の権限や全店の売り上げ管理の権限は普通はありません。商店街組織がそもそも地縁というメンバーシップによって成立しているのだから当然です。整理解雇(リストラクチャリング)が難しいという点では日本の大企業に似ていますが明確な人事権があるわけではないですから(村八分のような仕組みが残る田舎もあるようですが)、緩い未分化な中小企業に近いでしょう。それゆえに地道な交渉が必要であり(地道な交渉のコストと開発の利益が合うのであればディベロッパーが進出しています)、三津の事例のようにそれまでに培ったものを持った地域の顔役が次世代の町に対して協力的・積極的であるか、どうか、というのは非常に大きな影響を及ぼします。
組織的事業よりも独立性を好む商店主たちであり、 暮らしを共にする住民たちである
(グラフ:日本流通史 著:満薗勇 p.237 図17-2 商店街で実施している共同事業(経営関係、1970年)より作成)
商店街がまだ賑やかだった時代の、商店街組織としての活動をみても、多くの商店街は個々の独立性を重視しており、お互いの経営に係わるような共同事業のようなものを行う組織は少なく、アーケード事業や舗装改修のような店舗の前の街路=共有空間へ予算を落す傾向が強かったのです。そうした共有空間も大型商業集積地としての競争に敗れて、店舗に対しての商業的価値を失っていきましたが、独立性を好む性質は時代が変われど、零細個人事業主全般に共通していると思います。
その一方で暮らしを共にする傾向が過去の商店街にも、今の商店街にもあります。今でも開いているお店に日中集まる地域のお年寄りたちや、居酒屋に集まる中年組、休みにイベントを共にする若年層、緩やかなつながりが存在します。理由の一つは母胎が地縁であり、自治体との重なりがあることが、そうした側面を強めていると考えられます。もう一つは社会的立場の類似性が行動を共にするきっかけとなる側面があると思います。
店舗が集まる商業集積地から働き暮らす場が集まる商業集積地へ
私は地方の多くの商店街は戦後からの構造転換によって「路面店舗が集まる商業集積地」としての役目は終えて、「働き暮らす場所が集まる商業集積地=新しい職住一体の型のワークライフバランス志向の集積地」に変化していくように思います。店舗としての商業的立地の価値が低いという当り前の理由です(交通網・交通手段の変化から当初持っていた商業的立地の価値が変化しているケースが多くの割合を占めると思います)。
仮に商店街が店舗としての商業的な集積効果を失い、新しい職住一体の型のワークライフバランス志向の集積地となるのだとしたら、その集積した組織は大学に近いものになるのではないかと思います。新しい職住一体の商店主が目指すものは利潤の多さではなく、各自が持つ楽しみに根ざした活動の持続が目的となっている人が多いと思います。そうした姿はショッピングモールのような経済活動よりも、各自の興味にもとづいた研究によって知的探求を深めることを目的とする研究者の姿、その集まりである大学と似ています。
大学を大学足らしめているものはなんでしょうか?社会学者/吉見 俊哉氏は研究・教育をする「時間」の有無にその基盤を見ています。研究はその多くが長期に渡る活動によって実を結びます。企業活動に対して大学が龍宮城扱いされるのはそうした特徴にもよっているでしょう。
大学という組織はそうした研究活動・教育活動の時間を個々の研究者に確保するため、また研究活動・教育活動をするものを育むため、校舎や講堂、実験棟などの施設群、最近ではオンラインの授業環境、そしてそれらの施設・設備をサポートをする事務・技術スタッフがその基盤を担うことで、知的活動の集積効果を高める工夫がなされています(日本の大学ではそうした時間・集積効果がなくなっていると指摘もあり、経済利益追求型ではない組織のノウハウが独特のものであることを考えさせられます)。そうしたサポートによる研究時間・教育時間から生まれた研究成果・教育成果が集積効果をさらに高めていく循環が生まれます。
職住一体の構造をもつ商店街が、大学の校舎のような集積効果を高めるための資源の一つとなることは、愛媛大学の山口信夫氏の研究から明らかだと思います。自然資源(周辺自然環境の利用も含めて)の活用はインフラの近代化で断絶していますが、こうした古い町は古くからの生業と暮らしが一体化した街で、それを支える構造(地形や建物や自然環境など)が存在していました。
それは商業的な賑わいが失われてもなお、そこに残り続けています。私はそうした構造こそが「働き暮らす場所が集まる商業集積地」のメンバーが守る共的資源=コモンズなのではないかと考えます。三津や内子、卯之町、西条などもそうですが地下水をはじめとした自然資源に恵まれています。自然災害への自然地形上の立地条件(水害・地盤条件)も周辺に比べて優れた場所が選ばれています。職住一体の建築群と歩行者優先の環境はワークライフバランスを優先する人が集積することへ寄与するでしょう。
それらをサポートする体制はまだこれからの課題と言えますが、観光ビジネスだけが目指すべきかたちではないというのが、これまでの考えを経た上での個人的感想です。そしてサポートのなかには「エリアマネジメント行動者」と名づけられていた活動は、どの方向に進む上でも重要な要素となります。
それは論文で書かれていた新しい人が地域に入る物件探しのタイミングでもそうですし、これまでと異なる新しい活動と地域でそれまで続いてきた活動がパラレルに動くなかでの調整という面でも重要になります。そういう意味で、お互いがお互いのこと、それぞれがその環境のことを理解し合うような継続的な時間を、どうやって確保していくのか?ということも大事なことになります。
世代の違いに、同世代のなかでも地元と移住のライフスタイルの違いと代表的な違いがいくつかあり、地元の人たちの方が前後をしっかりと認識できる分、変化に敏感・繊細に感じているように見えます。三津の計画でこども食堂という活動が選択肢にあったことは、そうした地域内の活動の接点への一助となると考えます。
関連情報
井戸水に支えられた砂州の港町と明治以降の人口増加
水道が発達していなかった当時は井戸水が非常に重要でした。船旅の常備水としても綺麗な清水の方が持ちがよかったのでその点でも重宝されます。南の現在の小学校のあたりには茶屋(藩主が船に乗る前に風待ちなどで泊まるところ)があり、砂州のあたりでも根本の方の水害の影響が少なそうで、井戸水が取りやすい場所が選ばれています。ちょうど小学校から北へ上がっていった先の商店街との交差点に現在も町井戸が残っています。川の流れと並行して砂州の下に地下水脈がゆっくりと流れていっていることが伺えます。
しかし昭和初期に県内でも早い段階で水道が給水された理由も砂州の先端という水環境の厳しさからでした。江戸後期から明治以降の人口増加に地下水が対応できなくなっていたようで、遠方から水屋さんが水を売りに来て凌いでいたそうです(データベース『えひめの記憶』)。
瀬戸内の海と太陽の恵み:十州塩田
江戸時代の瀬戸内海といえば十州塩田と呼ばれた播磨,備前,備中,備後,安芸,周防,長門,阿波,讃岐,伊予の藩にあった塩田で、藩ごとの自給経済を基本とした当時において重要な外貨稼ぎの産品でした。瀬戸内海が塩田に向いていたのは晴れの国と言われる岡山県を筆頭にした少雨・晴天率の高さと瀬戸内海の海面の干満差にありました。
三津にもあった瀬戸内海の塩田
伊予/愛媛の塩田は伯方島などの島嶼部のイメージが強いですが(伯方の塩の影響でしょう)、沿岸部にはたくさんの塩田がありました。(今昔マップで比較するとわかりやすいです)三津浜の塩田もその一つで、先ほどの茶屋の南側、そして伊予鉄道の三津駅と港山駅のあいだの低地帯は塩田だったようです。現在では住宅地となっていて面影もほとんどないですが、入浜式の海とつながった大きな平面がそこにあったことは知っておいて損はないように思います(ハザードマップが港山裏側が三津浜よりも濃いのはこうした理由からです)。
明治末期の製塩施設の資料がデータベースえひめの記憶のなかにあり三津の入浜式の製塩施設の様子が描かれています。当時の建物がどのようなものだったのかが知ることができます。現存する製塩施設は全国的にも稀ですが、徳島県鳴門市にまだ入浜式の製塩施設群が残っているものがあります(国指定重要文化財:福永家住宅)。一般公開は普段は行っていないですが、興味がある人には外から見るだけでも色々と掻き立てられるものがあるのではないかと思います。
瀬戸内の醤油蔵:海がつなぐ生産と消費
この豊富な塩と井戸水が育んだのが醤油蔵でした。瀬戸内海では小豆島の醤油蔵が有名です。三津にはこの小さなエリアに現在も4つの醤油蔵が存在しています。そのなかの「丸木醤油醸造元」は小豆島の醤油蔵の伊予支店を昭和9年に引き継いだものだそうで、瀬戸内海のつながりが見えてきます。江戸時代は農村では自家製の味噌が調味料の中心でしたから、町民文化のなかで消費される文化的なもので、小豆島の醤油も大阪という消費地によって発展したものでした。塩と水以外の原料となる大豆や小麦は九州から輸入していたようです。代わりに九州へは帰りの船で醤油や塩などが輸出されます。島の塩の付加価値を高めるのに醤油をつくることをはじまったようで、今でいう六次産業化ということでしょうか。一年を通して晴天に恵まれ塩が作れ、江戸時代の物流の大動脈である瀬戸内海は、醤油つくりには適した立地でした。小豆島の醤油が島外に展開を本格化するは明治になってからで、瀬戸内海中に広がったようです(小豆島醤油の歩み)。三津の醤油もその一つということです。
西日本には3つの醤油の古い産地があります。一つは小豆島の醤油の源流となったと言われる醤油発祥の地といわれる和歌山県湯浅の木樽仕込みの濃口醤油、鎌倉時代に起源をもち、室町時代(1535年)には既に大阪に卸していたようです。灘や伏見の酒蔵へ卸していた吉野杉の木樽を使ったことによってそれまでよりも上質な醤油を大量につくることが可能になりました。二つ目は関西でよく使われる淡口醤油の発祥の地である龍野(1666年)。酒づくりから醤油づくりへと江戸時代初期に転換し、甘酒を足す製造法が特徴です。京料理で使われることでその存在感を高めていきました。三つ目がさしみ醤油などでおなじみの再仕込み醤油の発祥の地の柳井です。名前の通り、仕込みを二度行うためうま味成分が高くなるのが特徴です。1780年代(天明年間)に生まれたとされています(キッコーマン「フードカルチャー」)。現在ではこれらの技術は行き渡り、どの醤油蔵も濃口、淡口(薄口)、再仕込み、の一つだけではなく、瀬戸内海に浮かぶ小豆島、そして三津もまたそれぞれの醤油からの影響があって今日に至っています。
醤油が庶民に広がり始める明治時代
全国で地域に醤油文化が根付き始めるのも明治に入ってから、醸造所の数のピークが大正の頃だと言われています。現在残る三津の醤油蔵も明治創業の蔵(遠藤味噌醤油醸造場明治13年、村要本店明治18年、田中屋明治38年)が続いています。塩田があり、井戸水を得られ、小麦や大豆の産地とのつながりが持てる三津は小豆島同様に醤油づくりの適地だったようです。田中屋さんはそのなかでも国産大豆にこだわって醤油づくりをされています。普段当り前に使う醤油ですが食卓に置いてある多くの醤油は脱脂加工大豆と呼ばれる大豆油の搾りかすを使ったものです(ご自宅の醤油の成分表を見てみてください)。次がキッコーマンの丸大豆醤油などがそうですが、海外産の大豆を使った醤油です。全国各地の地域に古くからある醤油蔵でも多くはこのどちらか(大体は脱脂加工大豆)を使っています。もちろん脱脂加工大豆を使ったら全て同じ味の醤油になるものではないですが、食品に詳しい人に聞くと国産大豆は素材にこだわっている醤油、ということのようです。こうした素材や技術が掛け合わされて、多様な醤油が一つの地域のなかだけでも共存しています。
近代:商店街の形成と港機能の分散から進む衰退・人口流出
明治になり三津浜は三津浜町となります。当時は町村制がありましたので、すぐに松山市となったわけではありませんでした。戦前の日本は半分以上が農民だったので町村の自立性が高かったことがそうしたシステムとなっていた要因のように思います。それが都市の発達とともに自立性が下がり、松山市へ編入されていきます。三津浜が松山市に編入されたのは遅めの昭和15年/1940年になってからです。これは農村部に対して発展する商工機能に軸を置いた町であり、後で見るように港機能が分散していくなかでも、その重要性を保っていたからだと言えると思います。
町並みに表れる重層する時代
藩港としての役目を終え、松山市という消費地をバックに本格的な商港として発展を目指します。江戸時代に船場であった湾内の出島のような場所から港は海側へと出て行きます。洲崎町の西側の浜が造成されて商港機能の本格化に伴い明治二十一年に現在の松山市域で最初の鉄道が伊予鉄道によって通ります(データベース『えひめの記憶』)。それまで北浜と呼ばれていた出島と町とのあいだの浜は埋め立てられて、現在の商店街の基盤が生まれていきます。今はなくなっていますが松山電気軌道がこの埋め立てられた浜の際を港近くまで通っていました(明治44年/1911年)。外港としての高浜を押した伊予鉄道と三津浜を押した松山電気軌道の熾烈な競争の末、松山電気軌道は昭和6年/1931年にその姿を消します。現在のように伊予鉄道側に商店街の中心が移っていったのは、その頃からだと言われます。そのため商店街から旧港までの通りは奥側ほど江戸時代や明治・大正の古い時代の建物・雰囲気が残り、駅に近い場所ほど昭和な様子が残るという時代を横断するような構造となっています。戦後にはさらに外側に埋立て拡張された町や倉庫街、港が広がり、現在のより一層の時代の重層化が生まれていきます。
港町と歓楽街・倉庫街
瀬戸内海の湊町と言えば、多くが風待ちのための滞在や交易の接待の場として料亭やお茶屋がありました。三津も例外ではなく、現在の商店街の真ん中のT字路のあたりにあったと言われています(松山市三津浜の港町としての盛衰について)。江戸時代には、浜からもほど近く、船主たちが滞在する組家が集中していたので勝手が良かったのでしょうか。そうした賑わいは伊予鉄道の三津駅の開業とともに現商店街の人通りが増加したことで、風紀上の問題として移転されます。移転先に選ばれたのが江戸時代に船場のあった出島でした。こうした歓楽街を出島に限定することで町の風紀をコントロールする手法は全国的に見られ、広島藩が宮島へ色街を城下から持っていったのもその一つです。
稲荷新地と呼ばれ、「思案橋」と「見返り橋」と呼ばれた二つの遊郭らしい名前の橋によって出入りが制限されてました。稲荷神社と遊郭は全国的にもセットなので、当時は稲荷神社があったのかもしれません。稲荷新地は現在ではほとんど痕跡が残っていませんが大正末期・昭和初期をピークに戦後まで続いていたようです。
明治以降の三津を特徴づけるもう一つの建物が船舶鉄工をはじめとした中小の工場と物流倉庫たちです。江戸期の古い町割りが残る内側に対して外側へ発展したため、北浜を埋め立てた地域、そして西側を埋め立てた地域に工場や倉庫群が集中しています。現在のようなコンテナ輸送ではない時代においては屋外に放置することは出来ませんから、貨物を保管しておくための倉庫が港で重要な役割を果たしていました。そうした新しい広いスペースを必要とする機能は内側の狭い敷地には適さず、外へ外へと広がっていったのでした。商港としての機能の低下とともにこうした倉庫も役目を終え、新たな用途への転用がはじまっています。
料亭・お茶屋のあったT字のあたりは移転後の跡地にも劇場や映画館が生まれ、賑わいの中心的存在だったようです。みつはまレトロのfacebookにて当時の映画館の写真やチラシ、映写機などが投稿されています。現在の様子だけ見ていると不可解ですが商店街のエリアがこのT字まで含まれているのは、そうした劇場・映画館への道を兼ねていたからかもしれません。戦後の三津浜の歓楽の中心だったことが想像できます。また三津浜のなかでもT字路周辺に間口の狭い建物が集中しています。最初は元闇市関連かと思いましたが、空襲の影響は少なかったので、江戸・明治の揚屋の小さな間口の割が現在まで継承されている可能性もありそうで興味深いところです。映画館が吸引力となって周辺店舗も賑わっていたようです。最近は移住者の方の店もあったり、新旧の小店が入り混じって、全国の元闇市の再活性化の事例のような新しい風が吹いてきています。
砂が阻んだ繁栄、戦後の社会構造の変化
三津の発展のはじまりが砂(砂州)だったように、三津の発展を阻んだのも砂でした。明治に入り三津を拠点に進んだ松山の商港機能はすぐに壁にぶちあたります。川上からの砂の堆積が大型化する船舶を拒んだためです。そうしたなかで明治17年に台風によって港湾機能がダメージを受け、明治末期には大型船の遠距離旅客機能が高浜へ、次は戦後のコンテナ船による船の大型化によって大型物流機能が大可賀へ、外へ分散させていくことが決まっていきます。この高浜への分散が鉄道の競争へとつながったのは先ほど見た通りです。
物流のコンテナ化はベトナム戦争への物資輸送が大きな関りを持っていました(コンテナ物語 世界を変えたのは「箱」の発明だった)。アメリカからベトナムへ輸送された空のコンテナに日本の商品を積んで帰るという、その後の日米貿易の端緒となっています。そのため物流のための港はますます大型化を図ります。
船の大型化に大きな影響を与えたもう一つは石油です。九州で産出される石炭は瀬戸内海沿岸にとってアクセスしやすい燃料源でした。昔の小学校はだるまストーブ(石炭ストーブ)で暖房をしていたように日々の生活でも使われるものでした。それが1950年代から変わっていきます。九州の筑豊の炭田は1960年代に大手が閉山し、76年にすべての炭鉱が閉山します。三津でも1970年代まで石炭の積み下ろしが行われていたそうですが、それも石油燃料へと置き換えられていき、主力だった石炭がなくなることで、物流機能はほぼなくなります。
この時期はスーパーマーケットの台頭の時代とも重なります。特に自家用車の普及とともに江戸時代からの古い町割りが残る三津の商店街は駐車場の確保も難しく、バス・鉄道利用者の減少、近距離旅客の近隣島しょ部の人口減少とともに商店街の衰退も深刻になっていきます。瀬戸大橋の開通、高速道路の延伸、幹線道路沿いの郊外商業開発と車社会化が進めば進むほど、幹線道路から外れた三津を含む城西地域(松山城に対して西側の海沿いのエリア)のある港側の商業的価値が低下していきます。建築・都市計画関連の規制緩和が進んだ2000年代以降は全国的に郊外商業開発が加速します。松山近隣でもエミフル松前、グラン藤重信と大型ショッピングモールが開業します。こうした大型商業施設は近隣にはシャワー効果による正の効果が出る一方で、圏域周辺部には吸引効果による負の効果が出ます。
砂の上の職住一体の古い町並みの再解釈
少子高齢化が先行して進む人口構造
松山市のなかで島嶼部や山間部を除いたなかで人口減少・少子高齢化が先行して進んだのは、この西側の郊外エリアでした(松山市郊外エリア 高齢化進展エリアの人口比率)。
同じように空襲を逃れて古い町割りが残り、主要な都市間交通から外れた位置にある道後地区と比べると城西エリアの高齢化の現状が良くわかります。中心部との距離や大学との近さ、観光地としての知名度といった要素の違いが大きな影響を及ぼしていますが、古い町割りという要素のみが今の状況を作り出しているわけではないことを知る一つのデータです。
ただ個人的には道後を目指すのは三津の特性を考えると違う気がしています。70代が人口のピークになっています、この十年、二十年が町の大きな変化の時期と言えるでしょう。
職住一体の暮らしの再解釈
昔は商店街にはアーケードがあり、映画館が複数ありましたが、現在では多くがシャッターを下ろして、職住一体の多くの建物にはお年寄りの住まいが残るかたちとなり、少しずつ誰に継承されるわけでもなく空き地が増えていっています。
そうしたなか現役を続けている商店主の方、地元のUターンの方々、移住者の方、県内・市内の三津が好きな人たちと立場は違えど、三津浜を想う方々が再び三津浜の賑わいを目指してまちに入り込んで活動をはじめています。
しかし課題はまだ多く残されています。少子高齢化・人口流出はまだ歯止めがかかっておらず、商店街が賑やかだった頃に対して人の流れも変わっています。休日や花火大会などのイベント時こそ多くの人で賑わいますが、平日は人は疎らです。そのような状況では対面販売の店舗としては経営が苦しいため、三津浜以外からの集客が図れるような商品開発や企画、店舗としての営業日を抑えてたり(週1や週3など特定の曜日だけ営業)、対面販売としての店舗だけでなく工場を兼ねてネット販売との複合経営に軸足をもっていくことで経営を安定化させるなど、工夫をされているようです。
ワークライフバランスと自営型のはたらき方・くらし方
そうした三津に新たに増えつつある移住者の方々の特徴を愛媛大学の山口信夫氏の衰退商業地における新規開業事例に関する研究では「ワークライフ事業者」と命名されています。経済性だけを追求するのではなく、職住一体・近接の暮らしのなかで自分らしい生き方を選択する、そういった新しい選択肢が少しずつ増えています。この傾向は建築・まちづくりの面から見て興味深い点があります。
職住一体の店舗は顧客との接客・コミュニケーションの場であると同時に、地域の社交場のような機能を持っていました。また商品に対しての専門的知識や故障する電気機器のメンテナンスを通して、顧客間・地域内での継続的な関係が構築されやすくもありました。
高度成長期以降、核家族化・セルフサービス化(自ら陳列棚の商品を選んでレジへ持って行くかたち)が進展し、商店主がもっていた地域の世話役としての力・社交場としての機能が弱まるなかで、職住一体の家族経営の零細企業像が古い家族像・ライフスタイルとして世間から見なされて、スーパーとの競争の激化や子供の成長(子供部屋の必要)も相まって職住分離(職住近接化など)やアルバイトを雇うなど経営の脱家族化が進みました。
そうした視点から見ると職住一体を好む姿勢は一度見捨てられた古い職住一体のスタイルがもっていた機能をSNSなどを使って、地域商圏という枠組みから趣味趣向という新しい商圏の方向性へアップデートした姿と捉えることができるように思います。家族像も古い家族経営のかたちから、個の存在を尊重しつつ、もう少し広めの人間関係のなかで家族外を緩やかに巻き込んだかたちにアップデートしているように思います。
三津の町がそうした人たちに選ばれる要因として山口氏は
①家賃・不動産価格の低下、
②セルフビルド等による開業資金の抑制、
③高関与商品による広域的集客を上げています。
地域が衰退していっている=不動産価格が低下する、という単純な図式ではありません。これは地方の各商店街をはじめ多くの場所で見られる現象で、本当に空き家になるまで(しっかりと継承されずに放棄されるまで)不動産所有者の高値の時代の経験が引きづられて価格が低下しないケースが普通です。三津でそれが解消するケースが見られるのは所有者と購入希望者のあいだに入って仲介をし、価格の適正化をかって出てくれる地域の顔役の方がいるからです(山口氏の言葉で「商店街組織の前リーダーによる一歩踏み込んだエリアマネジメント行動」)。衰退による地域の家賃・不動産価格の低下と低価格な自由な場へのクリエイティブな人たちの流入という相関は三津に限らず古くから様々な街で見られるかたちです。こうした活発な活動は「三津浜地区チャレンジショップ事業」など継続展開されています。
商品に手を自ら加えることのできるクリエイティブな人種だからこそ、柔軟な対応がしやすく、衰退した逆境の環境(地域の衰退)に適応し、逆にそれ(不動産価格の低下)を栄養として伸びることが可能となります。
三津を足掛かりに孵化し、中心部に出店するという動きも現れてきていると聞くので、そうしたインキュベーション機能も今後、三津が担っていく可能性も高そうだと感じます。行政がそうした中心と周辺とを連動させる動きに補助をする仕組みがあると、中心・周辺の双方のメリットを活かしながら、全体として魅力の向上につながりそうです。
職住一体型の建築の更新の難しさ
職住一体のかたちはワークライフ/生きがいを活性化させる動因であると同時に、古い職住一体型のつくりも町の新陳代謝を抑制している要因の一つでもあります。高齢化と町の衰退で職としての店舗部分を閉めていても、すぐ横に一体となっている住の部分は維持されており、住みやすい地元への愛着を持って住み続けています、そのため簡単に店が閉まっているから次が入れば良いと考えにくい状況にあります。これまで後継者がいることで引退した高齢者は奥に隠居して、表は息子世代が営むという構図が成立していたため、こうした問題は地域全体で生じることはありませんでした.
しかし高度成長期以降でライフスタイルが大きく変わり断絶しているため(当時はサラリーマンよりも収入が良かったケースも多かったので、大学で都市へ出て行き、帰ってこないパターンが良く見られるように思います)、大きく表面化することになりました。こうした建築というハードに生業・生活がロックインすることで、周囲から取り残されてしまうのは全国の商店街に共通した課題です。19世紀イギリスのランカシャーがレンガ造りの工場とかつての栄光にロックインして、20世紀に飛躍する鉄骨造やRC造のスパンの大きな工場なら入れられる新しい大きな設備へ更新が遅れて、衰退した様子と重なります。ランカシャーの工場に比べれば物理的な要素は解決しやすい気がしますが、心理的な要因をどう解決するか?が大きなポイントとなります。
こうした構図は新陳代謝しない農地の構図にも似ており、代々の土地や建物を手放すことへの思いをどのように次の世代が汲み取っていくのか?ソフト面・ハード面、双方の知恵が求められます。町の年齢構成が偏っているため、世代交代のタイミングはいきなりやってきます。農地では土地継承を明確化しセーフティーネットをつくることで行き先がわからなくなり荒廃する農地をなくす取り組みが進められています。商店街をはじめとした世代に偏りがある場所では、そうした取り組みが必要な時期にきているのかもしれません。
商店街とはどのような組織なのか?
所縁型/メンバーシップ型組織の商店街 と 目的型/ジョブ型組織のショッピングモール
私たちは単独よりも外圧(天災・人災)への抵抗力を得るために、集団を組織し、その集団を安定して維持するために余力のある実りを組織します。集団/組織は歴史・経路依存的であり、過去を引きずらなくてはなりません。現在を変える動きは必ず過去から抵抗を受けます。現在組織を支えている仕組み・支えている仕組みは過去の組織を支えていた仕組みから影響を受け、そして現在の仕組みは未来へ影響を及ぼします。未来へ向けてどのように改変していくために過去の仕組み、現在の仕組みを理解する必要があります。
「商店街はなぜ滅びるのか」において日本の流通史を通して日本の商店街を論じた新雅史氏によると、地縁にもとづく主従関係の薄い対等性の高い組織として、都市部郊外のショッピングモールを軸とした地域開発の目的型組織と対比させて、その特徴を述べています。対等性の高い組織という言葉は一見響きが良いですが、逆に言えば大手企業などから見れば組織としての体をなしていない組織とも言えます。それは液体に火を入れると対流がはじまり一つの組織としての構造をもつが、火(外からのエネルギー)が消えるとまたバラバラになる、そうした勢いに波がある緩さなのだと感じます。
こうした構図は日本型雇用システムを批判した濱口桂一朗氏のメンバーシップ型雇用とジョブ型雇用の大手企業と、そのどちらでもない未分化な中小企業の分類に違いに似ています。ショッピングモールはジョブ型雇用企業のように最初に全体のシステムがあって、そのシステムを構成する要素として店舗の出店を打診・募集して、構成されます。さらに成果主義が徹底されることで、新陳代謝の圧力が各店舗には掛けられ、魅力のない店舗は別の店舗へと入れ替えられてモール全体の魅力を保ちます。
まちづくりの分野ではタウンマネジメント機関のように、まちの発展をショッピングモールのように管理運営してくれる仕組みを導入しようとする動きがあります。そこで求められるのはショッピングモール会社のようなシステム設計とマネジメント能力のようですが、タウンマネージャーに出店・退店の権限や全店の売り上げ管理の権限は普通はありません。商店街組織がそもそも地縁というメンバーシップによって成立しているのだから当然です。整理解雇(リストラクチャリング)が難しいという点では日本の大企業に似ていますが明確な人事権があるわけではないですから(村八分のような仕組みが残る田舎もあるようですが)、緩い未分化な中小企業に近いでしょう。それゆえに地道な交渉が必要であり(地道な交渉のコストと開発の利益が合うのであればディベロッパーが進出しています)、三津の事例のようにそれまでに培ったものを持った地域の顔役が次世代の町に対して協力的・積極的であるか、どうか、というのは非常に大きな影響を及ぼします。
組織的事業よりも独立性を好む商店主たちであり、 暮らしを共にする住民たちである
(グラフ:日本流通史 著:満薗勇 p.237 図17-2 商店街で実施している共同事業(経営関係、1970年)より作成)
商店街がまだ賑やかだった時代の、商店街組織としての活動をみても、多くの商店街は個々の独立性を重視しており、お互いの経営に係わるような共同事業のようなものを行う組織は少なく、アーケード事業や舗装改修のような店舗の前の街路=共有空間へ予算を落す傾向が強かったのです。そうした共有空間も大型商業集積地としての競争に敗れて、店舗に対しての商業的価値を失っていきましたが、独立性を好む性質は時代が変われど、零細個人事業主全般に共通していると思います。
その一方で暮らしを共にする傾向が過去の商店街にも、今の商店街にもあります。今でも開いているお店に日中集まる地域のお年寄りたちや、居酒屋に集まる中年組、休みにイベントを共にする若年層、緩やかなつながりが存在します。理由の一つは母胎が地縁であり、自治体との重なりがあることが、そうした側面を強めていると考えられます。もう一つは社会的立場の類似性が行動を共にするきっかけとなる側面があると思います。
店舗が集まる商業集積地から働き暮らす場が集まる商業集積地へ
私は地方の多くの商店街は戦後からの構造転換によって「路面店舗が集まる商業集積地」としての役目は終えて、「働き暮らす場所が集まる商業集積地=新しい職住一体の型のワークライフバランス志向の集積地」に変化していくように思います。店舗としての商業的立地の価値が低いという当り前の理由です(交通網・交通手段の変化から当初持っていた商業的立地の価値が変化しているケースが多くの割合を占めると思います)。
仮に商店街が店舗としての商業的な集積効果を失い、新しい職住一体の型のワークライフバランス志向の集積地となるのだとしたら、その集積した組織は大学に近いものになるのではないかと思います。新しい職住一体の商店主が目指すものは利潤の多さではなく、各自が持つ楽しみに根ざした活動の持続が目的となっている人が多いと思います。そうした姿はショッピングモールのような経済活動よりも、各自の興味にもとづいた研究によって知的探求を深めることを目的とする研究者の姿、その集まりである大学と似ています。
大学を大学足らしめているものはなんでしょうか?社会学者/吉見 俊哉氏は研究・教育をする「時間」の有無にその基盤を見ています。研究はその多くが長期に渡る活動によって実を結びます。企業活動に対して大学が龍宮城扱いされるのはそうした特徴にもよっているでしょう。
大学という組織はそうした研究活動・教育活動の時間を個々の研究者に確保するため、また研究活動・教育活動をするものを育むため、校舎や講堂、実験棟などの施設群、最近ではオンラインの授業環境、そしてそれらの施設・設備をサポートをする事務・技術スタッフがその基盤を担うことで、知的活動の集積効果を高める工夫がなされています(日本の大学ではそうした時間・集積効果がなくなっていると指摘もあり、経済利益追求型ではない組織のノウハウが独特のものであることを考えさせられます)。そうしたサポートによる研究時間・教育時間から生まれた研究成果・教育成果が集積効果をさらに高めていく循環が生まれます。
職住一体の構造をもつ商店街が、大学の校舎のような集積効果を高めるための資源の一つとなることは、愛媛大学の山口信夫氏の研究から明らかだと思います。自然資源(周辺自然環境の利用も含めて)の活用はインフラの近代化で断絶していますが、こうした古い町は古くからの生業と暮らしが一体化した街で、それを支える構造(地形や建物や自然環境など)が存在していました。
それは商業的な賑わいが失われてもなお、そこに残り続けています。私はそうした構造こそが「働き暮らす場所が集まる商業集積地」のメンバーが守る共的資源=コモンズなのではないかと考えます。三津や内子、卯之町、西条などもそうですが地下水をはじめとした自然資源に恵まれています。自然災害への自然地形上の立地条件(水害・地盤条件)も周辺に比べて優れた場所が選ばれています。職住一体の建築群と歩行者優先の環境はワークライフバランスを優先する人が集積することへ寄与するでしょう。
それらをサポートする体制はまだこれからの課題と言えますが、観光ビジネスだけが目指すべきかたちではないというのが、これまでの考えを経た上での個人的感想です。そしてサポートのなかには「エリアマネジメント行動者」と名づけられていた活動は、どの方向に進む上でも重要な要素となります。
それは論文で書かれていた新しい人が地域に入る物件探しのタイミングでもそうですし、これまでと異なる新しい活動と地域でそれまで続いてきた活動がパラレルに動くなかでの調整という面でも重要になります。そういう意味で、お互いがお互いのこと、それぞれがその環境のことを理解し合うような継続的な時間を、どうやって確保していくのか?ということも大事なことになります。
世代の違いに、同世代のなかでも地元と移住のライフスタイルの違いと代表的な違いがいくつかあり、地元の人たちの方が前後をしっかりと認識できる分、変化に敏感・繊細に感じているように見えます。三津の計画でこども食堂という活動が選択肢にあったことは、そうした地域内の活動の接点への一助となると考えます。

