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タオルと浴室が生んだ清潔さの文化-水と今治タオルの関係まで

タオルと水の関係を知るための3つのテーマ

私たちが当たり前に使っている住宅の浴室は19Cにイギリスで都市部の個人宅が普及するまで一般的なものではありませんでした。当時のイギリスは汚水・汚物にまみれて感染症が蔓延していました。

この状況を改善したのが公衆衛生の観念の普及です。そしてこの観念を広く広める一翼を担ったのが浴室の普及で、そこで象徴的な役割を果たしたのがタオルでした。

タオルは見た目からもわかるように非常にデリケートで技術の必要な織物です。こうした繊細さをもちながら、水を吸収するという大切な機能を保持しなければなりません。そのため綿がもつ吸水性を最大限に発揮するためには、製造工程で、また普段タオルを使う際にも洗濯洗浄して繊維に付着した糊や汚れを除去する必要があります。

こうした製造工程・使用状況でも水との関りが大きな影響を与えるのが織物としてのタオルの大きな特徴です。このタオルと水の関係を綿の歴史・浴場文化・水と織物の3つのテーマでまとめています。

木綿の伝播はインド・パキスタンとメキシコから

綿はインドのインダス川流域とメキシコを原産地として世界に広がり、18世紀から19世紀にかけては綿織物は産業革命の象徴となりました。日本も近代化の過程で1930年代には綿織物の生産量が世界一となり、その後の貿易や機械工業の発展に大きな影響を及ぼしました。

綿 photo : webbiz

日本の綿花生産は大阪和泉、知多半島、遠州地方を中心に発展していきました。商業の中心地であった大阪・神戸に近かったこと、砂質土が綿作に向いていて(稲作に不向きで)、交易に適した立地という共通点を持っています。四国では今治と観音寺の瀬戸内海の花崗岩地域が同じような条件から綿作が発達しました。

但し綿花生産そのものは日本は適した気候条件にはないので、アメリカからの輸入に置き換えられて(代わりに日本からは絹の生糸がアメリカへ輸出されることで生糸生産量が世界一となります)、綿紡績と綿織物が発達しました。こうした繊維貿易が伊藤忠や丸紅、双日などの日本の総合商社の基盤となっていきました。

タオルはオスマントルコの浴場文化からスタート

知多半島・遠州地方は機械技術を発展させて、平織をはじめとした綿織物の高効率・大量生産を目指しました。こうした機械技術がトヨタやスズキ、ホンダといった自動車メーカーを誕生させていきます。

それに対して和泉はタオルという高度な加工技術と手間が必要な分野を発展させていきます。今治が取り入れたのもタオルでした。

havlu-バスタオルの原型 (The Textile Museum/Washington, DC)

タオルはトルコのトルコ絨毯などにみられる刺繍技術から発展し、19世紀に現在のような機械織のタオルがイギリスで登場し広まっていきます。

その背景には感染症で悩むロンドンで取り組まれた都市の公衆衛生の運動があります。住宅のなかに浴室という身体を清めることに特化した空間が生まれ、こうした健康・公衆衛生の文化的なステータスの一つとして、バスタオルのかたちで普及していきます。

戦前の浴室というものが一般的でなかった日本やアジアでは、手ぬぐい型のかたちでタオルは普及していきます。高温多湿で汗をかく気候に対して、柔らかく毛羽立ち吸水性に優れたタオルは相性が良い製品でした。

大地と水がつくりだすタオルの品質

こうした柔らかい感触と吸水性をつくりだす上で大切な工程が織りの工程とともに、繊維の洗浄(晒し)の工程があります。

綿がもっている油分や不純物を洗浄して取り除くことで、より水を吸収する柔らかい感触を実現することができ、さらには染色の工程にも影響を与えます。この洗浄の工程で大事になるのが水の質です。

高縄半島の花崗岩と真砂土
今治平野の湧水

今治の高品質なタオル生産を影で支えているのが先晒しという独自の洗浄の工程です。半導体が高度な製造技術と同時に不純物のない水を必要とするように、高品質なタオルにも高度なモノづくりの技術と純度の高い水が欠かすことができません。

その洗浄の水を供給するのが地下水脈をつくりだす瀬戸内海の花崗岩の地層です。地球に根ざしたものづくりが、独自の製品をつくりだしています。

木綿の伝播はインド・パキスタンとメキシコ・ペルーから

絹(赤)、木綿(オレンジ)、羊毛(青)の伝播と各地域の正装・民族衣装
木綿は化学繊維・合成繊維が普及した現代においても木綿を模倣してつくられたポリエステル繊維に次いで多い生産量を誇る。

羊毛と絹と住み分けながら広がっていった綿花/木綿

木綿はユーラシア大陸、南北アメリカ大陸のそれぞれに起源をもち、ユーラシア大陸ではインドのインダス川流域が、アメリカ大陸ではメキシコ、ペルーが起源となり伝播していきました。

木綿は乾燥した気候と水はけのよい土壌を好むため、木綿の伝播もそうしたインドのインダス川流域と似たようなペルシャやエジプト、アフリカといった地域へはイスラム文化の浸透とともに伝播していき、それらの地域の衣服も木綿を材料としたものが発展いきます。

木綿がもつ通気性や吸湿性がそれらの地域の気候と相性が良かったこと、染色性の良さという文化面との相性も大事なポイントでした。アメリカ大陸でも、アメリカ南部が世界の綿花生産を牽引する以前から、ネイティブアメリカンは綿織物を生産し、交易をしていました。

日本では軍事利用から広まった木綿

インドから東への伝播は西への伝播と比較すると初期は限定的でした。多湿な環境と絹と麻によって形成された文化が大規模な進行を阻みました。

現在の世界の綿花栽培の主要産地であるウイグル自治区も灌漑システムが整備されるまでは大規模な栽培には至っていませんでした。中国に木綿が本格的に到達するのは13-14世紀の宋・元の時代になってからで、日本で本格的に広まるのも戦国時代になってからです。

戦国時代の木綿の利用法は衣服ではなく火縄銃の火縄と帆船の帆布といった軍事利用が中心でした。繊維を密に織ることができ、雨にも強い木綿はこれらの用途に適していました。こうした軍事からの転用された繊維は第二次世界大戦時にパラシュートなどの軍事利用が先行したナイロンと重なります。

木綿が衣料品で本格的に利用されるのは江戸時代から

衣服で木綿が使われるようになるのは江戸時代に綿花栽培が日本で本格化してからです。

大阪の和泉、愛知の知多半島、浜松遠州が主要産地で、いずれも水はけのよい砂質土壌の地域で、愛媛でも今治や伊予市の台地部の綿花栽培もこの頃から行われていました。湿った環境にも適応的な稲と乾燥した環境・塩害/アルカリ性土壌に適応的な木綿は得意とする環境が異なり、住み分けが可能でした。

各藩の自給経済から大阪と江戸を中心とする市場や地域市場が発達してくる江戸時代の中期以降は換金作物としての重要な地位を確立し、瀬戸内や中部地方で積極的に広まっていきます。

絹の生産が西陣から諸国へ伝播し工業的生産体制が進むと換金作物としての競合が生まれましたが、綿花が進入できなかった中山間部(愛媛でいう大洲や宇和)に遅れてきた桑/養蚕が入り込んでいくというかたちで落ち着いていったように思えます。

工業化そして国内市場から海外市場への産業構造の転換

日本の綿産業の次の転換点は開国し明治になった時です。政府と企業家は安い綿織物によって国内産業・国内市場が乗っ取られることを懸念し、国内の綿産業の工業化を急ぎました。その結果、大阪を中心として紡績工場が次々に建設され、東洋のマンチェスターと呼ばれるに至ります。国内の綿花は大阪や中部・浜松/遠州に集められて綿糸に加工されて、織物産地へと行き渡りました。

大阪名所絵葉書・安治川口(昭和初期)
大阪府立中之島図書館蔵 (水都大阪)

国内産業の工業化されてゆく過程を後押しした要因の一つが日清戦争(1894-1895/明治27-28年)でした。

戦争の賠償金によって綿産業は国内市場からアメリカからの綿花の輸入、アジアへの輸出という海外市場型へと変換を遂げていきます。宇和紡績(1887年/保内)、松山紡績(1892年/松山)、伊予紡績(1894年/今治)、八幡浜紡績(1896年/八幡浜)と愛媛にも紡績工場の建設が加速したのはこの時期からです(愛媛県史)。

大正時代の東洋紡績株式会社大阪の工場の様子(写真の中の明治・大正

綿花の輸入への切り替えは国内の綿花農家を直撃します。安価な綿花が大量に国内になだれ込んでくることで綿花産業は衰退し、明治末期にはその姿をほとんど消していきます。絹産業と同様に綿産業もまた同じように多くの農家出身者の女工に支えられます。

無停止杼換式自動織機-G型自動織機(文化遺産オンライン

こうした紡績工場を支えたのが後のトヨタやスズキ、ホンダへと受け継がれていく紡績・織機の機械技術でした。

豊田式木製人力織機が生み出されたのが日清戦争の4年前の1890年、戦争の2年後の1896年に国産初の木鉄混製動力織機(豊田式力織機)を完成させ安価で高性能な機械は日本の織物産業の生産性を引き上げていきます。

そして世界的な発明と評価された無停止杼換式自動織機のG型自動織機が1924年に生み出されて、日本の綿布生産は1930年代に世界一となります。

終戦後の日本を待っていたのは化学繊維との競争と輸出先だったアジア諸国の台頭でした。こうした大きな構造転換が織機メーカーの自動車をはじめとした新しい機械製造業へのシフト、そして綿貿易を主軸としていた商社の総合商社化の動きを促していきました。

職人の技術と地球の恵みが生んだ今治のタオル

江戸時代の元禄時代に和手ぬぐいが普及し一大綿織物産地となった大阪の泉州に1870年代にイギリスからタオルが輸入され一部の富裕層に広まっていきます。日本でのタオル生産がはじまるのは1880年代に大阪ではじまり、1890年代に今治でも大阪から織機を輸入し生産がはじまります。

二つの産地では異なる製法がとられ大阪では後晒し製法と呼ばれるタオル形状に織ってから漂白洗浄をする方法、今治では先晒し製法と呼ばれるタオル形状になる前の糸の状態で漂白洗浄をする方法が開発されます。

今治のタオル産業と地形・岩石との関係 高縄半島の軟水

後晒し製法の方が製造時の糊などの不純物を漂白・洗浄時に洗い落とせるので吸水性や白い清潔感、柔らかい肌触りが出しやすいのが特徴です。

それに対して先晒し製法の方が製造時の不純物のコントロールが難しい(検品の手間がよりかかる)代わりに、糸の性質のコントロールの利点があり、色染めや織形状・パイル形状の繊細なデザインを行いやすいのが特徴となっています。

今治が先晒し製法という独自の方法を確立できた要因として、高縄半島がもっている山と海の近さが生み出す蒼社川水系のイオン含有量/ミネラル分の少ない=糸や薬品・塗料への影響が少ない地下水の存在があると言われています。

軟水と硬水のカルシウムやマグネシウムなどの
ミネラル含有量の違い

これはいわゆる出汁やお茶の抽出の際に言われる軟水(ミネラル分の少ない水)・硬水(ミネラル分の多い水)の違いと同じです。

出汁やお茶やコーヒーが硬水の場合にミネラル分と旨味成分やお茶やコーヒーの成分が結合してしまって出汁やお茶・コーヒー本来の成分が損なわれてしまうように、染色や洗浄の場合もこのミネラル分と染色成分や洗浄成分が結合してしまって、染まりが悪くなったり、沈殿物が出やすくなったりします。

和食とフランス料理の違いや、西日本と東日本で混布出汁の薄口とかつお節の濃口で出汁の文化が異なるのはこの軟水・硬水の違いの影響も受けており、水の硬度(含まれるミネラル分)の違いはその地域の地質や地形の違いが影響します。

日本の河川の縦断面図:日本は河川勾配がきついのが世界的に特徴的、そのなかでも四国の河川は急こう配な河川が多いことが見て取れる。

まず勾配の違いが大きく影響をします。

愛媛に来たことがある人は理解できると思いますが、海岸線のわずかな平野部に固まって街や集落があってすぐ後ろに山が迫っている、というのが基本的です。

ヨーロッパと比べると日本の急峻な山岳地形は河川勾配の比較で一目瞭然ですが、そのなかでも四国は短く急こう配が多く、肱川は例外的で(それでも全国的に見れば急ですが)、愛媛の河川はこの傾向が強いように思います。高縄半島はこの傾向がさらに強く、今治の蒼社川は標高1000mを20㎞程度の距離で下っていきます。富山の北アルプスの黒部川よりも急こう配です。

勾配がきついとそれだけ流速が速くなるので、水と大地との接触時間が短くなり、土壌からのミネラルの溶出が少なくなります。

蒼社川源流域/鈍川渓谷の花崗岩
真砂土/志島ヶ原海岸
蒼社川の湧水(流式泉)/中寺弁天泉

次が地質です。高縄半島をはじめ瀬戸内海沿岸の多くの基岩は花崗岩でできています(石灰岩の島があったり、玄武岩の島があったりするのですべてではないです)。

花崗岩は白砂青松の砂浜のもととなる真砂土をつくりだしている岩石で、地下のマグマがゆっくりと長い時間かけて冷えて固まってできたもので、洗浄の邪魔をするカルシウムやマグネシウムのようなミネラルをあまり含まない組成となっています。

今治はこのように急こう配な地形と安定した構造の地質という強力なタッグで、軟水が多い日本のなかでも、特にミネラル分の少ない河水が生まれています。

和泉層群の白亜紀化石/アンモナイト
デジタル大阪ミュージアムズ

これに対して大阪和泉の地質の和泉層群は漣痕と呼ばれる波の化石やアンモナイトなどの化石が多く見つかるところでも有名な海に堆積した砂や泥によって生まれたもので、海に由来する珪藻などのカルシウムやマグネシウムを含みやすい地質層となっています。

トルコ/デニズリ/パムッカレの石灰棚

同じように海に由来する地層が珪藻やサンゴの死骸が堆積した石灰岩の地質で、ヨーロッパなどのミネラルウォーターの水源に多く見られ、トルコの古くからの木綿・タオル産地であり、パムッカレ(トルコ語で綿の城の意味)の石灰棚があるデニズリもそうです。この軟水・硬水の違いが貿易の障壁にもなります。

柔らかさを売りにした高品質な日本のタオルは日本のような軟水で洗濯すれば柔らかいままですが、ヨーロッパのような高い硬水で洗濯するとミネラルと洗剤成分が反応物である石鹸カスによってパリパリになってしまうそうです。

硬水で洗濯しても柔らかいタオルを実現するには、タオルの糸の形状から見直す必要があるそうです。水の違い一つでそこまでの細部のデザインを変える必要があるとは奥深いです。

コンピューター制御とタオル

住宅の生産においてコンピューター制御によるプレカット(木造の柱梁を工場で先に加工して、現場に納品する)が導入されはじめる1980年代以降は、タオルの世界でもコンピューター制御による製造や生産管理が進んだ時期でした。

これによって温度制御や乾燥、洗浄といった各工程が自動化されていき、省力化と品質の安定性が同時に進みます。こうした内容は後晒し製法のシンプルなデザインを多くつくるタオル製造により大きなメリットをもたらしました。

もう一方でコンピューター制御の利点は多様なものを一つの機械からつくれるというマスカスタマイゼーションの方向です。これは実はコンピューターよりも織物機械の方が先行して発展してきた分野で、ジャガード織機(1801年)のパンチングカードが初期のコンピューターで使われていたパンチカードのもとになっています。

このパンチカードを使って制御していたジャガード織機が1980年代に電気信号制御へと変わり、それまで以上に多様な模様の織物を織りあげることができるようになります。このコンピューター制御の利点を得たのが先晒し製法のタオルでした。多色糸を使って様々な模様に織り上げていくことにはじまり、タオルのパイル(羽毛)の構造の制御までも自動化されてゆくようになっていきます。こうしたパイルの構造が吸水性や柔らかさといった性質に結びついていきます。

関連情報

1木綿の伝播はインド・パキスタンとメキシコ・ペルーから 2タオルはオスマントルコの浴場文化からスタート 3職人の技術と地球の恵みが生んだ今治のタオル
マウスオーバーか長押しで説明を表示。

タオルはオスマントルコの浴場文化からスタート

日本の主要な綿花産地であった知多半島と遠州地方が織機の機械化の革新による大量生産を志向したのに対して、大阪和泉が選択したのはタオル(パイル織り)という手間をかけた付加価値による差別化の道でした。

現在ではほとんどの家庭にあるバスタオルですが、江戸時代は手ぬぐいを使うのが一般的で、今でも銭湯では手ぬぐいに似た平織のタオルが使われることが多いです。木綿がインドの東西で伝播の仕方が異なったように、タオルもその伝播の仕方が異なりました。

古代ローマ時代は平織りのリネンタオル(麻)が主流

タオルにはパイル織と呼ばれる技術が使われることで、羽毛のようなふわふわした質感の触り心地の良さをつくりだしています。

このパイル織自体はエジプトやローマの時代やそれ以前からありましたが、身体を拭くような使い方ではなく、敷物や装飾品としての役割を担っていました。ですのでローマの浴場では現在のバスタオルのようなふわふわしたものではなく、麻や羊毛などの平織りの布が使われていました。

Bath のローマ時代の公衆浴場(wikipedia
リネン生地 photo:TAKEAY

ローマでは紀元後の公衆の面前で身体/裸を晒すことと罪が結びついたキリスト教文化のもとで公衆浴場は廃れてしまいますが、身体の清潔さ/身を清めるを重視するイスラム文化に引き継がれていきます。ローマの浴場文化を引き継いだイスラム文化のハマム/トルコ風呂でもPeshtemalという平織りの綿のタオルが使われていました。トルコ・ペルシャ・エジプトは古くからの木綿の産地です。

トルコ風呂/ハマムで使われたパイル刺繍でつくられた工芸品タオル

このPeshtemalにパイル刺繍(ふわふわした毛を施す、トルコ絨毯やペルシャ絨毯のパイル織りの刺繍版)をしたものが花嫁道具や縁起物として16世紀あたりから流行します。

トルコ語のhavlamak(拭く・覆う)に由来するHavluという名前で、現在のトルコ語のタオルもこの語でイギリスから機械によるパイル織のターキッシュタオルが逆輸入していくなかで拭くものとしての役割も定着しつつ、ウェディングタオルなど現在でも縁起物としても使われています。パイル刺繍を施していた当時のHavluはニューヨークのメトロポリタン美術館にも所蔵されています。

Peshtemal : 古くからトルコ風呂/ハマムで使われる身体に巻いたり、敷いたりするのに使われる綿製の平織りの薄手のタオル。携帯性・吸水性に優れ、乾きやすい。
havlu:16世紀あたりからのつくられたパイル刺繍による花嫁道具や贈答品・縁起物としてのタオル。18世紀中ごろにイギリスに渡り現在のバスタオルの原型となった。

こうしたPeshtemalやHavluがトルコ風呂/ハマムの浴場において、肌の露出を控えるために身体に巻いたり、敷物や寝そべるためのシーツ?のような使い方をしていました。平織りのシンプルなPeshtemalに対してHavluが飾りのついた贅沢版という感じです。

古代ローマやトルコ・ペルシャを舞台にしたマンガ(テルマエ・ロマエや乙嫁語りなど?)の浴場のシーンで寝てたり、座ってだべってたり、飲み食いしてる様子の人たちの足元の布がこれらに該当するものと思います。

Turkish Bath (Hammam), 1785.
Artist Le Barbier, Jean-Jacques-François

欧米を基準にみるとテーブルに椅子座の文化で、畳に/床に座っている日本人のようなスタイルは日本以外にないような誇大妄想に取り付かれやすいですが、トルコ・ペルシャなどのイスラム圏も絨毯を敷いてクッションを並べて、床に座ったり、寝そべったりする文化圏です。

この浴場のパイル刺繍が19世紀中ごろにトルコに来ていたイギリス人の目に留まり、ヨーロッパの上流階級向けの商品として機械織で大量生産して一儲けしようと開発されたのが現在のパイル織りのタオルの原型になります。

不潔なロンドンの都市環境に対しての公衆衛生とバスタブがバスタオルの価値観を変えた

イギリスでパイル織の機械織が開発されていた19世紀のロンドンは、悪臭で議事堂がストップしたという話が残っているくらいに劣悪な都市環境で、コレラがたびたび流行していた時代でした。

下水を都市の下流に流すように下水道整備をしたのが1855年ごろ、現代の下水浄化の基礎となる下水を微生物の力をつかって浄化して川に戻す活性汚泥法が現れるのが1914年ごろなので、今まさにそうした劣悪な都市環境を改善しようとしている時期でした。

ロンドンのコレラ流行の風刺画-The_silent_highwayman(wikipedia)
ロンドンのコレラ流行の風刺画-FaradayFatherThames(wikipedia)

この頃のロンドンの上流階級の発想は街中は汚い場所、なので自分たちの邸宅内で清潔に過ごすことで身の安全を確保しましょう、というスタンスではないかと思います。そうした社会のなかで生まれたのがバスタブを邸宅内に設置して、個々の家庭で入浴をして身を清める文化です。

ヴィクトリア朝時代の浴室の様子:この頃になってはじめて浴室が独立した室内空間となって住宅に登場してきます。
独立したバスタブが当時の特徴で、様々なデザインが生まれました。

トルコから伝播し開発されたパイル織のタオルはそうした上流階級の浴室で最初はハマムと同じようにお風呂上りに身体に巻いたり、敷物にしたりする使い方として登場しました。やがて実際に使用されていくなかで身体に付いた水を拭きとるのに良いことが表に出てきて、大量生産によって価格が下落することで庶民にも普及していきました。

ヴィクトリア女王に万博で認められ、タオルは上流階級から普及していく

こうした普及を後押ししたのが公衆衛生学の発展とその基盤となる細菌学の登場です。ジョン・スノウという医師の調査によってこれらの原因が汚れた水にあるのではないか?ということが指摘され、ロンドンの上下水道の再整備がはじまります。こうしたインフラ整備が浴室の設置を後押しし、バスタオルの普及につながります。

さらに公衆衛生という考え方を決定づけたのがヨーロッパの絹産業に大打撃を与えたペブリンの問題を解決したパスツールや結核菌やコレラ菌を発見したコッホらが切り開いた細菌学でした。

それまで具体的になにが原因で病気になるのかわからずに経験則にもとづいた対処療法や伝統的な言い伝えで行われていたものが細菌/微生物による影響であることがはっきりしました。

こうして生まれたのが手洗いうがい、入浴という非常にシンプルでありながら効果的な公衆衛生予防法です。

古代ローマからの長い空白を経て、ダーウィンが種の起源(1859年)を発表しキリスト教的人間観に疑義を突きつけたヴィクトリア朝時代に、細菌学によって身を清潔に保つという価値観が再び西洋社会にも帰ってきました。

日本でのバスタオルの普及と洗濯機の登場

欧米では最初から大判のバスタオルが普及しましたが、日本で現在一般的である大判のバスタオルが普及するのは戦後の洗濯機が家庭に普及した後になってからになります。

最初はタオルマフラーとしてのファッションアイテムとして知れ渡っていき、今でも銭湯で使われるような手ぬぐいのようなかたちのタオルが登場するのが明治の後半になってからで、国産化されるも高級品として存在し、身体を拭くものとして一般化するのは昭和になってからだったようです(IKEUCHI ORGANIC 代表のモノづくりの部屋)。

関東大震災(1923年/大正12年)の復興支援として作られていった同潤会アパートの平面図などを見ると浴室がありません。代わりに共同浴場・銭湯がアパートのなかにあります。

戦前はまだ個々の家庭に浴室があるのが一般的ではありませんでした。江戸時代から続く銭湯文化が庶民の常識であるあいだは、やはり手ぬぐいや手ぬぐい型のタオルが一般だったようです。

同潤会代官山アパート配置図/青が共同浴場
同潤会代官山アパート住戸平面図
公団住戸平面図

こうした傾向は国内需要への対応と同時に、当時の輸出先であるアジア諸国もまた手ぬぐいのような持ち運びしやすい大きさの布を使う習慣があったため、大判のタオルを積極的に製造する動機が薄かったのも要因のようです。

高温多湿なモンスーン地帯が生み出す汗をぬぐうという行動を動機づける気分は、礼節の表現としてのハンカチという冷涼な環境の西洋とは異なる方向に布を深化させていったことが見て取れます。また多雨・花崗岩地帯で軟水の地域が多かったのも影響しているのかもしれません。

インドのガムチャ
タイ・ラオスのパーカオマー
中国の包袱(パオフー)/唐時代から日本の風呂敷のルーツ

戦後の公団がつくっていった団地にも共同浴場や銭湯があるものがありますが、1960年代あたりから個々の住戸に浴室があるものが一般化していきます。住戸内への浴室の登場、洗濯機の普及という条件が揃って、欧米のような大判のバスタオルが一般化していく流れが生まれていきました。

職人の技術と地球の恵みが生んだ今治のタオル

江戸時代の元禄時代に和手ぬぐいが普及し一大綿織物産地となった大阪の泉州に1870年代にイギリスからタオルが輸入され一部の富裕層に広まっていきます。日本でのタオル生産がはじまるのは1880年代に大阪ではじまり、1890年代に今治でも大阪から織機を輸入し生産がはじまります。

二つの産地では異なる製法がとられ大阪では後晒し製法と呼ばれるタオル形状に織ってから漂白洗浄をする方法、今治では先晒し製法と呼ばれるタオル形状になる前の糸の状態で漂白洗浄をする方法が開発されます。

今治のタオル産業と地形・岩石との関係 高縄半島の軟水

後晒し製法の方が製造時の糊などの不純物を漂白・洗浄時に洗い落とせるので吸水性や白い清潔感、柔らかい肌触りが出しやすいのが特徴です。

それに対して先晒し製法の方が製造時の不純物のコントロールが難しい(検品の手間がよりかかる)代わりに、糸の性質のコントロールの利点があり、色染めや織形状・パイル形状の繊細なデザインを行いやすいのが特徴となっています。

今治が先晒し製法という独自の方法を確立できた要因として、高縄半島がもっている山と海の近さが生み出す蒼社川水系のイオン含有量/ミネラル分の少ない=糸や薬品・塗料への影響が少ない地下水の存在があると言われています。

軟水と硬水のカルシウムやマグネシウムなどの
ミネラル含有量の違い

これはいわゆる出汁やお茶の抽出の際に言われる軟水(ミネラル分の少ない水)・硬水(ミネラル分の多い水)の違いと同じです。

出汁やお茶やコーヒーが硬水の場合にミネラル分と旨味成分やお茶やコーヒーの成分が結合してしまって出汁やお茶・コーヒー本来の成分が損なわれてしまうように、染色や洗浄の場合もこのミネラル分と染色成分や洗浄成分が結合してしまって、染まりが悪くなったり、沈殿物が出やすくなったりします。

和食とフランス料理の違いや、西日本と東日本で混布出汁の薄口とかつお節の濃口で出汁の文化が異なるのはこの軟水・硬水の違いの影響も受けており、水の硬度(含まれるミネラル分)の違いはその地域の地質や地形の違いが影響します。

日本の河川の縦断面図:日本は河川勾配がきついのが世界的に特徴的、そのなかでも四国の河川は急こう配な河川が多いことが見て取れる。

まず勾配の違いが大きく影響をします。

愛媛に来たことがある人は理解できると思いますが、海岸線のわずかな平野部に固まって街や集落があってすぐ後ろに山が迫っている、というのが基本的です。

ヨーロッパと比べると日本の急峻な山岳地形は河川勾配の比較で一目瞭然ですが、そのなかでも四国は短く急こう配が多く、肱川は例外的で(それでも全国的に見れば急ですが)、愛媛の河川はこの傾向が強いように思います。高縄半島はこの傾向がさらに強く、今治の蒼社川は標高1000mを20㎞程度の距離で下っていきます。富山の北アルプスの黒部川よりも急こう配です。

勾配がきついとそれだけ流速が速くなるので、水と大地との接触時間が短くなり、土壌からのミネラルの溶出が少なくなります。

蒼社川源流域/鈍川渓谷の花崗岩
真砂土/志島ヶ原海岸
蒼社川の湧水(流式泉)/中寺弁天泉

次が地質です。高縄半島をはじめ瀬戸内海沿岸の多くの基岩は花崗岩でできています(石灰岩の島があったり、玄武岩の島があったりするのですべてではないです)。

花崗岩は白砂青松の砂浜のもととなる真砂土をつくりだしている岩石で、地下のマグマがゆっくりと長い時間かけて冷えて固まってできたもので、洗浄の邪魔をするカルシウムやマグネシウムのようなミネラルをあまり含まない組成となっています。

今治はこのように急こう配な地形と安定した構造の地質という強力なタッグで、軟水が多い日本のなかでも、特にミネラル分の少ない河水が生まれています。

和泉層群の白亜紀化石/アンモナイト
デジタル大阪ミュージアムズ

これに対して大阪和泉の地質の和泉層群は漣痕と呼ばれる波の化石やアンモナイトなどの化石が多く見つかるところでも有名な海に堆積した砂や泥によって生まれたもので、海に由来する珪藻などのカルシウムやマグネシウムを含みやすい地質層となっています。

トルコ/デニズリ/パムッカレの石灰棚

同じように海に由来する地層が珪藻やサンゴの死骸が堆積した石灰岩の地質で、ヨーロッパなどのミネラルウォーターの水源に多く見られ、トルコの古くからの木綿・タオル産地であり、パムッカレ(トルコ語で綿の城の意味)の石灰棚があるデニズリもそうです。この軟水・硬水の違いが貿易の障壁にもなります。

柔らかさを売りにした高品質な日本のタオルは日本のような軟水で洗濯すれば柔らかいままですが、ヨーロッパのような高い硬水で洗濯するとミネラルと洗剤成分が反応物である石鹸カスによってパリパリになってしまうそうです。

硬水で洗濯しても柔らかいタオルを実現するには、タオルの糸の形状から見直す必要があるそうです。水の違い一つでそこまでの細部のデザインを変える必要があるとは奥深いです。

コンピューター制御とタオル

住宅の生産においてコンピューター制御によるプレカット(木造の柱梁を工場で先に加工して、現場に納品する)が導入されはじめる1980年代以降は、タオルの世界でもコンピューター制御による製造や生産管理が進んだ時期でした。

これによって温度制御や乾燥、洗浄といった各工程が自動化されていき、省力化と品質の安定性が同時に進みます。こうした内容は後晒し製法のシンプルなデザインを多くつくるタオル製造により大きなメリットをもたらしました。

もう一方でコンピューター制御の利点は多様なものを一つの機械からつくれるというマスカスタマイゼーションの方向です。これは実はコンピューターよりも織物機械の方が先行して発展してきた分野で、ジャガード織機(1801年)のパンチングカードが初期のコンピューターで使われていたパンチカードのもとになっています。

このパンチカードを使って制御していたジャガード織機が1980年代に電気信号制御へと変わり、それまで以上に多様な模様の織物を織りあげることができるようになります。このコンピューター制御の利点を得たのが先晒し製法のタオルでした。多色糸を使って様々な模様に織り上げていくことにはじまり、タオルのパイル(羽毛)の構造の制御までも自動化されてゆくようになっていきます。こうしたパイルの構造が吸水性や柔らかさといった性質に結びついていきます。

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