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和室について / 日本の文化・宗教の歴史からみた 対話のかたちの変遷

「和室」という言葉はいつ生まれたのか?なぜ生まれたのか?

「和室」という言葉は、その言葉の響きから連想出来るように洋室という西洋のスタイルが明治時代に入ってきてから生まれたものです。「和室学」という本の中で大分大学の鈴木義弘教授が明らかにしているところによると、具体的に「和室」という言葉が現れ始めたのは昭和に入ってからだと言われます。

しかしそれでも普及したというにはほど遠く、世間に「和室」という言葉が定着しはじめたのは、どうも戦後のライフスタイルの欧米化によってテーブルやベッドが生活のなかに取り込まれて、生活の中心から畳がなくなって以降であるようです。それまではいくつもの和室がくっついて家を構成していましたから、和室と室名を表記してもなんのことだかわかりません。居室、居間であったり、茶の間、食事室などと用途が関わった室名をされています。

中廊下
明治大正期の中廊下型の住宅

設計をやる感覚、それをお施主様へ説明する感覚で考えると、当たり前のことのように思えますが、「和室」という言葉の存在自体が自分たちの生活から「和」が外部化されていることを示すようで寂しくも思います。

「和室」の歴史

和室という言葉が実はものすごく最近生まれた言葉であることを確認した上で、では現在「和室」と呼ばれている空間はいつ頃から日本に生まれていたのか?を探っていきたいと思います。

自由な場としての座敷

一般に「和室」の原型と考えられているのは「書院造り」という中世鎌倉時代の武士の住宅様式だと言われます。最近の学校教育の歴史では変わってきているのかもしれないですが、中世や近世というと貴族社会や封建制で身分がはっきり分断されていて閉鎖的な印象を持ちますが中世歴史学者の網野善彦さんの本などを読んでいると、必ずしもそうではない「ケとハレ」のような分断されている日常の世界と同時に自由で平等な非日常の世界が共存していたことが見えてきます。そしてこの「書院」とは非日常の「ハレ」の舞台としての機能も果たします。

この書院の基本要素の一つである「座敷」という言葉があります。温泉地などを「奥座敷」と言ったりしますが、これはまだ生活の中心が畳だった頃の応接の場である客間=表座敷に対して奥にあるプライベートな空間を「奥座敷」と呼んでいたことに起因しています。現在では和室というと畳が敷き詰められている様子をイメージしますが、中世の和室は寝殿造りから継承している板間があって、人が座るところに敷物=畳を敷くというスタイルでした。大河ドラマなどで板間がメインとなっているのは、そのような時代背景を反映しているものです。この敷物を敷いて座って集まる場が座敷の起源になります。

ここまでですと敷いて座って集まれば座敷だ、となるのですが、中世という時代がここで重要な意味を持ってきます。寝殿造りによる貴族社会においては、身分の違いを建築においても示すことが行われていました。現代で言うと富裕層のゲーテッドコミュニティ(gated community)のようなかたちでセキュリティゾーンが違うという感じになるのだと思うのですが、身分によって入れる場所、座れる場所が異なりました。

低い身分のものは中にすら入れず、入れたとしても外の縁側まで、といった感じで建築によって序列がはっきりしていました。江戸時代の身分社会でも見られますが、床の高さが違うとか、畳の種類が違うとか、色々なところで差をつけて身分を表していました。これは寺院建築にも同じような発想が見られ内陣と外陣といって仏のいる場所と参拝者のいる場所が別に分けられるスタイルをとっています。

ところがこれが武家が台頭して武家社会が鎌倉で進展していくと、貴族たちやお坊さんが武家の家に来るというようなことが起こってきます。座敷はこのような身分の異なるものを迎える自由で平等な場として生まれてきます。

これは出居(デイ)呼ばれる寝殿造りの主人の居室から発展した武家住宅の客間/宴会場から発展していきます。武家社会のデイは九間と呼ばれる、3間×3間の正方形の平面を基本としていました。この正方形というのが役に立ちました。どの辺も同じなので、現代でも接待などで言う上座、下座といった上下を規定する要素がなくなり平等な関係性が生まれます。畳もみな同じで全員が輪になって座り、分け隔てなく座れるようになりました。平等の精神は天井にも反映されます。寝殿造りでは天井が張られてなく、高いところや低いところが空間のなかにありました。これが身分を表すツールとして利用されていました。座敷では水平の天井が張られることでこの差をなくし、どこでも平等なスタイルをつくりました。

法の下に平等な暮らしをしている現在ですと、逆に天井や床に差をつけることを要望頂いたりしますが、平等でない暮らしをしていた当時の人びとにとって正方形の水平な天井の空間は革新的で、象徴的な場所であったことが想像できます。

平安時代の和室
「慕帰絵々詞」より 異なる身分のものが輪になって座り連歌に勤しむ風景。

文化の中心だった和室

この客間としての座敷で宴会が行われたわけですが、そこでは武家社会らしい文化である「勝負事」、簡単にいうとお酒の席でのゲームが行われていました。そこは隠遁者や遊芸者も同席する、まさに貴賤同席の平等の場になっていました。のちに茶の湯の文化に発展する「闘茶」や和歌をリレーしていく「連歌」や、双六や博打といったお馴染みのゲームも行われていました。「和室学」の本の中で中世建築史家の奈良女子大学の藤田盟児教授が「吾妻鏡」(鎌倉時代の歴史書)の中の記述を紹介して、当時のこの座敷の使われ方、平等ということがどういうことだったかを説明しています。

座敷で先生に採点してもらう和歌の会が行われていました。会では採点の順位に従って席順が決まる仕組みだったようです。当然ながら色んな身分のものが集っています。その中にはこれから将軍になろうという北条政村もいましたが、政村は三番手でした。その政村が二番手の低い身分の若者に席を交代させようとしたところ、先生が咎めて、ちゃんと順番通りに座らせようとします。将軍になろうという人と和歌の先生に板挟みになった若者はびびってしまいその場から逃げだすのですが、政村は使いのものを出して連れ戻し順番通りに座らせ、褒美を取らせます。さらに採点で点が入らなかったものは縁側に座り、畜生のように箸を使わず食事をする罰ゲームを先生から与えられ、参加者一同が大笑いしていたようです。

このように本気で身分の差を超えた平等な場が成立していたようです。

同じような話が網野善彦さんの本でも宮島の嚴島神社で行われた「連歌」の会でも語られています。このようにハレとケの二つの世界が中世では並存していたのです。これは近世の江戸時代の封建制の身分社会にも引き継がれていたことが江戸文化研究者の田中優子さんの著作などからも見て取ることが出来ます。

嚴島神社の連歌が行われたのは現在の天神社、海に浮かぶ能楽堂に対して回廊を挟んで向かい側の目立たないところにあります。この連歌堂は座敷のもとであった出居(デイ)の3間×3間の正方形平面に水平の天井という基本形を守った形式をしており、平等の精神という目で見ると面白いです。もともとは連歌堂として1556年に造営されています。当時は毎月連歌の会が行われ、京都から名人が来たりと今でいうポップミュージックみたいな文化の中心の一つだったようです。水墨画で有名な雪舟も来たとか?

このように文化的重要度を増した座敷は、この連歌堂もそうですが次第に独立して「会所」という建物の名前が与えられるようになります。今でいう「集会所」という感じですが、そこにアムステルダムのコーヒーショップやイングランドのパブのような文化と政治経済のニュアンスがかなり入り込んでるイメージでしょうか?

嚴島神社-天神社-連歌堂
嚴島神社 天神社

お茶と和室

現代でもオリンピックなどを見ると変わらない感じがしますが、当時も文化は政治経済の重要な要素となっていました。特にお酒の接待の場として役割が「勝負事」のゲームにはありましたから余計です。特に「闘茶」はその影響力が強かったようです。「闘茶」は簡単に言うと、どの茶葉のお茶かを飲んで当てるゲーム、当時のお茶は高級品なのでゲーム店賭け事の場であると同時に、知識・教養の高さを示す場でもあったのだと思います。

お茶は平安時代には中国から日本に入ってきていたと言われます。チョコレートなどと同じように「薬」としての側面が強かったみたいです。本格的に広まったのは鎌倉時代以降のようです。その中心にいたのは禅宗の僧侶たちでした。禅宗の作法の中に茶礼という喫茶の作法があります。そのため習慣的にお茶を飲む文化があり、茶畑も禅の広がりとともに全国に広がっていきます。

禅は当時の一大文化で単なる宗教の一宗派というより、絵画であったり、工芸品であったり、様々なものとセットで入ってきます。仏教の作法は非常に日本人の行動様式において大きな影響を与えているようで、神社の参拝の形式なども神仏習合の頃に仏教側からの影響で形式化した部分が多いと聞きます。簡単に考えると当時の流行の最先端のものが海外から入ってきて、一気に全国に広がっていきます。それが鎌倉時代以降の貴族社会から武家社会への移行に伴い、貴族以外の階層へも茶礼というお茶を飲む作法が広がっていた。そして接待の場での利用が増すことで「たしなみ」として政治経済のなかで重要なポジションを築いていった。ということが、お茶の普及の背景にあります。

「闘茶」はバサラと呼ばれる派手な服装や「唐物=中国からの輸入品」を好む文化のなかで特に発展し、建築でいうと時代としても鹿苑寺の金閣などがイメージとしては合うのではないかと思います。バサラは実力主義的でのちの下剋上という発想の下地になったものとも言われます。そんな闘茶はあまりに流行り過ぎて、土地や財産まで賭けるようになって一時は禁止令が出るほどでした。そんな闘茶も時代と共に廃れていきます。

一番大きかったのは「侘茶」の登場のようです。その発展に大きく寄与していたのが銀閣で有名な慈照寺、足利義政が隠居所として造営した東山殿だと言われます。現存する最古の書院造である「東求堂」もここにあります。東求堂は持仏堂、要するに仏間として作った建物ですが南の一番良いところに仏堂に対して北東角に同仁斉という四畳半の座敷があります。書院造りの「書院」とは付書院という部屋から出っ張ったところで、明り障子が付いた書き物をする棚板が付いているものです。今でいうと書斎のような使われ方をしたところです。

同時にここはお茶の接待を行う場所でもあり、その後に展開していく四畳半茶室の原型の一つになったと言われます。平面が九間と同じ正方形であるところに面白さを感じます。付け書院の横の違い棚には茶道具が飾られていたようです。現存しませんが会所も別で存在し、お茶をはじめ様々な催しが行われ、会所にはやはり九間の座敷があったようです。またこの頃には畳は敷くものから床仕上げとして設えるものへと変わり、敷居の高さに畳が納まるようになります。大体14世紀ごろと言われます。会所や書院の大広間のような大きな場所で畳の敷き詰めが行われたのは足利義政も関わった応仁の乱後で、その後に隠居所として東山御殿は作られていますから、そういう意味でも転換期の建築であると言えます。

銀閣寺
慈照寺 銀閣
東求堂-付書院
東求堂 付書院と違い棚
東求堂-平面図
東求堂 平面図

ようやく書院造の座敷が登場して和室の原型というものが見えてきました。貴族社会から武家社会への移行によって変わった身分に対しての考えかた、海外から新しく入ってきた文化によって求められた新しい空間像が「座敷」「書院」という日本独自の空間を形成することに影響を及ぼしていることがわかりました。

侘茶は村田珠光という浄土宗の遁世僧によって創始され、のちに堺の商人で連歌師で禅僧だった武野紹鴎や千利休に引き継がれて完成されたと言われています。村田珠光は浄土宗の僧ですが禅の教えにも精通しており、「茶禅一味」、禅と茶の一致を唱えています。

平安時代までの貴族社会の国を守るための仏教から鎌倉時代はこれまで見てきた通り、自由と平等が拡張した社会であり個人救済が新しい宗教への需要として生まれていました。それに応えたのが法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、道元の曹洞宗、栄西の臨済宗、一遍上人の時宗、日蓮上人の法華宗の鎌倉仏教でした。

仏教学者の鈴木大拙は「日本的霊性」において鎌倉時代をその起点としていますが、それは日本の大地に根付いて暮らす人々へ理解出来るようにと目指して改編されていった仏教の姿でした。この鎌倉仏教/遁世僧の思想に影響されて芽生えていったのが「能」でした。鎌倉仏教の一つである踊念仏/時宗の法名を持つ特殊技能階級である賤民/猿楽師の観阿弥・世阿弥が大成しました。当時は仏教を根拠として血・ケガレや聖なるものを扱う人たちが賤民として扱われ、座というお寺や貴族の庇護のもとで生業をする集団がありました。見方によれば特殊技能を権力者が保持するための仕組みとして仏教や賤民や座が使われたと見れます。観阿弥・世阿弥の猿楽は背景として仏教との関りが深いものでした。観阿弥・世阿弥はその背景を猿楽自信に取り入れて昇華させていきます。世阿弥の「冷えたる曲」「無心の能」「無文の能」

 心より出でくる能とは、無上の上手の、申楽に物数ののち、二曲も物まねも儀理(=筋のこと)もさしてなき能の、さびさびとしたる中に、何とやらん感心のある所なり。是を、冷たる曲と申す也。…これはただ、無上の上手の得たる瑞風かと覚えたり。これを、心より出来る能とも云う、無心の能とも、又は無文の能とも申すなり。
(著:世阿弥 花鏡より)

は「色即是空、空即是色」のような考え方があって理解出来るものだと思いますし、「初心忘るべからず」は禅語の「一期一会」を前提とした世界観でしょう。実際に時宗だけでなく禅僧のもとに出入りしていたと言われています。それまでの猿楽や田楽が持っていた激しい舞から能の禅のように様々なものを削ぎ落していった侘しい寂しい舞に生まれた感覚は連歌師の心敬にも引き継がれます。

氷ばかり艶なるはなし。刈田の原などの朝の薄氷、ふりたる檜皮の軒などの氷柱、枯野の草木など露霜の閉ぢたる風情、おもしろくも艶にもはべらずや。(心敬『ひとりごと』)

「氷ばかり艶なるはなし=氷ほど美しく、氷ほど艷やかで、余情のあるものはない。」鎌倉仏教がもっていた隠遁僧の世界は氷りが持つ「冷え、枯れ、凍み」として自然が生み出す侘しさの美へと結実していきます。和歌が万葉集の時代から捉えていた日本の自然観が鎌倉仏教の隠遁僧たちが築き上げた自然観が連歌師のなかで混じり合っていきます。そしてこれが連歌師とも関わりの深かった村田珠光、連歌師でもあった武野紹鴎、そしてその弟子とされる千利休へと引き継がれていきます。

1自由な場としての座敷 2和室と市中の山居

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「和室について / 日本の文化・宗教の歴史からみた 対話のかたちの変遷」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: Book review: 日本人はどのように森をつくってきたのか 著:コンラッド・タットマン 訳:熊崎実 | Studio colife3

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