
著:リサ・フェルドマン・バレット 訳:高橋洋
情動はこうしてつくられる 脳の隠れた働きと構成主義的情動理論
著:リサ・フェルドマン・バレット 訳:高橋洋
生存のための身体的現実、社会的現実、世界観の三つの次元の調和と責任
私たちの脳は生存のために進化してきた、というところまでは概ね脳科学のなかで共通見解として認められてきているような印象を持ちます。その生存のための手段として著者は
A:身体予算の最適化(身体的現実・社会的現実との関係の最適化)
B:予測可能な世界観の維持(身体的現実・社会的現実との調和の洗練(予測誤差の低減))
身体的現実:身体内外からの感覚入力の総体
世界観:主体がもつ概念の総体
社会的現実:主体が属する社会環境で流通する概念の総体
と生存が身体のみではなく、心身の二つの方向が相互に絡み合うことで実現していると考えます。身体予算の最適化を行うために予測にもとづく概念が使われ、予測の精度を高める指標として身体予算の最適化に関する情報が使われます。

この二つの方向性は内受容ネットワークとコントロールネットワークという脳内のニューロンネットワークのハブによって統合されています。内受容とは体内の器官や組織、血中ホルモン、免疫系から発せられるあらゆる感情情報の表象(representation)で身体予算管理の基礎情報です、快や不快といった気分(affect)はこうした内受容の継続的なプロセスによって、人生のあらゆる瞬間を通じて川のように滾々と流れているものです。
それに対して世界観とは内受容をはじめとした身体的現実や社会的現実からの感覚入力に対して予測や概念の構築にもとづいてその都度、構築されるもので、コントロールネットワークの支援を受けて、複数の概念のインスタンス(具体的な経験にもとづく心的構築物)の存続・抑制・結合されることで最適化されていきます。こうした二つの次元の橋渡しを内受容ネットワークとコントロールネットワークというハブがしています。

未来へ向けた知らせを発する情動(高次の予測・概念)
この橋渡しの活動は
A’:脳が概念・多感覚性の要約を詳細情報へ展開し、予測・シミュレートを行う方向の働き、より大きなニューロンより多くの結合からより小さなニューロンより少ない結合へ(身体的現実・社会的現実の最適化のための予測)
B’:脳への内外からの感覚入力情報を多感覚性の要約へ圧縮し、概念が構築されていく方向の働き、より小さなニューロンより少ない結合からより大きなニューロンより多くの結合へ(概念の構築による身体的現実・社会的現実と世界観のあいだの予測誤差の低減)
として表され、概念の構築では多数の感覚入力がボトムアップされ二つのハブによって存続・抑制・結合をされながら少数の要約へ圧縮され、予測の構築では多感覚性の要約からトップダウンに展開される多数のシミュレートを現実と符合させ比較選別して少数の結果へと絞り込んでいきます。本書のなかでは概念の連鎖(カスケード)として紹介されます。
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p.202 図6.1 概念の連鎖(カスケード)より作成

(情動はこうしてつくられる 著:リサ・フェルドマン・バレット
p.202 図6.1 概念の連鎖(カスケード)を編集)

(情動はこうしてつくられる 著:リサ・フェルドマン・バレット
p.202 図6.1 概念の連鎖(カスケード)を編集)
これらは「予測・概念の構築→シミュレーション→比較選別→経験・要約(構築成功、構築エラー)→予測・概念の構築」というループを形成し、概念・多感覚性の要約の洗練化=予測の洗練化を行い、脳の配線の変更が行われていきます(こうした予測のモデルはカール・フリストンの自由エネルギー原理が下敷きになっているようなので、そちらも参照すると理解が深まると思います-能動的推論 ミネルヴァ書房)。

(情動はこうしてつくられる 著:リサ・フェルドマン・バレット
p.114 図4.2 予測のループ を編集)
人はこのループ・連鎖を通して、身体的現実・社会的現実・世界観という3つの次元を調和させることで、自身の生存ひいては社会の生存を実現していきます。ゆえに人の行動はこの3つの次元(行動・文化・予測)に責任があるという立場を著者は取ります。それゆえに情報伝達の場でも伝達には双方の世界観・予測や社会的現実の同期(シンクロ≠等号)が不可欠と考え、受け手と伝え手の双方にそれぞれ情報伝達の責任があるという立場を取ります。
著者は法制度への言及のなかで通常人(reasonable person)という平等の基準(standard)を否定し、新しい人間像の必要性を訴え、3つの次元の責任を言及します。それは3つの次元の調和について公平の観点から捉えた人間像と言えるように思えます。三つの次元は生存の基盤である、がゆえに、責任の領域でもあり、個別的でありながらも社会的現実を通して共有されている。それは被告と原告といった対立構造を前提とした仕組みというよりも、より包括的な全体像のなかでのそれぞれの立場を公平に比較するというようなものになるのではないでしょうか?
ループが洗練化という正の方向を取るということは裏返しで、崩壊という負の方向も取ることを意味します。予測エラー、身体予算バランスの喪失、どちらを端緒にしたのでも構いませんが、両者は相互に影響を与え合い、心身の崩壊を招きます。本書では抑うつ病や不安障害などの心の病を通して心身のつながりを考察します。
こうした心身の調和の崩壊による個人の行動は社会的現実へ影響を及ぼしますから、個人の病は社会の病へと発展していく可能性を帯びています。行動の責任とはこうした負の側面から眺めるとより理解できます。法が刑罰から規制・矯正へと重点を移していったとき、平等の基準への適合から公平な比較による照合へと視点が変わっていくのだとすれば、法と刑罰を社会の洗練化ならびに社会の病の治療のための三つの次元の調和へ向けた解決策として位置づけるものと言えるように思えます。
身体予算の最適化という目的に向け概念化された情動概念
こうした概念・多感覚性の要約のなかで情動(emotion)が身体予算の最適化という目的に向け概念化されたものが情動概念として私たちが認知するものになります。こうした情動概念の洗練度を情動粒度と呼び、各人の情動の識別能力や表現能力の高さを表す指標として用います。
複数の脳・複数の脳領域の要約である概念・多感覚性の要約
身体的現実の基礎となる内外からの感覚入力情報には当然、単一の感覚(視覚のみ)ではなく五感をはじめさまざまな感覚情報が含まれ、他者の行動や他者の概念からの情報も含まれます。
他者の行動や概念は社会的現実という社会で流通する概念を通して、相手からこちらに、こちらから相手に、経験・感覚入力情報が翻訳されて伝達されていきます。両者のあいだで十分な解像度をもつ社会的現実が共有されていれば、適切なコミュニケーションが成立しますし、なければ誤解の原因となり、身体予算への影響を与える出来事を生む可能性が高まります。
身体予算の最適化が身体的現実との関係の最適化のみで閉じずに、社会的現実との関係の最適化が含まれる理由はこうしたところにあります。情報の発信者と受信者の双方に情報伝達の責任があるということ、社会的現実に対して個人もまた責任を負っていることが、こうしたことから示唆されます。
多感覚性の要約・概念 と 記憶
過去の経験(感覚入力情報・予測情報)は記憶として、予測や概念構築の素材に使われます。この記憶は引き出しのなかに仕舞われ、それらを出し入れすることで参照するように捉えられてきましたが、どちらかというと料理のようにその都度、手持ちの素材とレシピによって作られる(構築される)ものと考えられています。経験は断片化し、脳内に分散することで圧縮され、レシピをもとに展開され、その時の気分(affect)によるアドリブの影響も含め再構築されるイメージです。経験値の蓄積が、より洗練された断片の分散とレシピをもった脳の配線を生みます。
こうした経験による脳の配線の変更が文化・教育によって行われることで、遺伝子を介さずに、より柔軟に(遺伝子よりも低コストで素早く)脳というハードを変更し、次世代へ物質的情報を伝えていくことができます。
予測・概念の統計的学習(個体群思考)と言葉
概念の構築、予測の構築のところで見たように、広範囲に広がるより大きなニューロン群とそれらが形成するより多くの結合によってもたらされる洗練された多感覚性の要約が、私たちの予測可能な世界観の維持と身体予算の最適化を支援します。
生まれたばかりの乳児とおとなの脳の違いの一つは、この洗練された多感覚性の要約の有無です。乳児は感覚入力にもとづいて要約(概念)を構築し、予測をおこない、現実との符号チェック・エラー検出をし、再び要約を再構築し、洗練させ、脳の配線を最適化させていきます。
たとえば乳児は言語のいかなる音でも区別できる能力をもって生まれてきて、周囲の人々が話す言語の音を少しずつ区別していきます。こうした音を区別する能力は一歳になる頃には周囲の人々が話している言語に含まれる音しか識別できなくなると言われます。何度も周囲の人々が話す言語の音を聞いて、その類似性を統計的に学習し(文法などの定性的なメカニズムを教わるのではなく、異なるメンバーから構成される個体群を統計的に集団・集合レベルで把握する)、母語向けに脳を配線していきます。
こうした統計的学習や予測は単細胞生物でさえ行うと言われますが、人間の乳児は他の動物以上に社会的現実(周りの人々の心の内部に存在するもの)を迅速に学んでいきます。この社会的現実を学ぶ上で大きな役割を果たしているのが言葉です。言葉によって物質的な外観を超えた類似性を予測し、心的接着剤として利用し、概念を効率的に学習し、洗練化させていきます。
本質主義・還元主義・確実性 と 構成主義的情動理論
本書ではたびあるごとにこれまでの情動理論や法制度といった従来の考えを批判する姿勢をみせます。その対象となっているのが本質主義・還元主義と呼ばれる理想とされる基準・ステレオタイプを規定し、そこへの一致を求める態度です。これらが目指すのはシステムを固定化し、使用者側がそれに合わせることで、変化ではなく平等・同一性が重んじられ正確性・確実性が重要な価値観となります。それに対して構成主義的情動理論は変化を基本とし差異・個別性を重視し、予測可能性が重要な価値観になります。
こうした姿勢は脳の機能の局在性に対しての批判にも通底しており、ブローカー野や扁桃体・辺縁系のような脳の機能の局在という考え方は過去のものであり、縮重によるさまざまな部位の組み合わせによって同一の結果が得られるということ、脳の部位の多くが複数の目的に寄与しているということを挙げ、一つの部位に機能を還元する考えを否定します。
この議論のなかで確実性と予測可能性の違いはやや分かりにくい部分であると思います。予測可能性の精度を追求していくと、いずれは確実性と予測可能性のあいだの違いはほとんどなくなります。本書でも指摘されていますが両者が重なり、構成主義的情動理論のなかにも本質主義や還元主義が入り込む可能性が十分あるところになります。
そうなったとき両者の違いは、その確実性/予測可能性の構築の仕方の違いとなって明確化されます。本質主義のように固定された理想像(世界観)に従うのか?極端な構成主義的情動理論のようにその都度、状況に応じた世界観を構築し続けるのか?およそ現実にはその両極のあいだのグラデーションが存在し、概念の連鎖(カスケード)で見たように高度な要約から低度な要約=詳細で個別的・具体的な情報まで、さまざまなバリエーションの可能性があり得るでしょう。
概念の構築・多感覚性の要約の生成には多大なエネルギーが必要となります。それが社会的現実に大きな影響を及ぼすものであればなおのことです。その都度、すべての予測を0から組み上げるのは非現実的です。それに対して固定された理想像があれば、そうしたエネルギーが節約可能です。代わりに理想像と現実との不一致には対応が難しく、歪みが生じます。
こうした観点から考えたとき、身体的現実・社会的現実・世界観の調和のさせ方によって、さまざまなバリエーションが生まれることを意味するものと考えます。
身体予算(body budgeting)・気分(affect)・ストレス(stress)・情動(emotion)・概念(conceput)
本書の言葉で躓きやすいのは気分(affect)と情動(emotion)の違いではないかと思います。これは訳者あとがきで翻訳上の用語の定義も行っているので、不安な場合はそちらから読んだ方がわかりやすいかもしれません。
内受容の説明で書いたように気分とは、体内の器官や組織、血中ホルモン、免疫系から発せられるあらゆる感情情報の表象(representation)で身体予算管理の基礎情報の継続的なプロセスによって生じるもので、人生のあらゆる瞬間を通じて川のように滾々と流れているものです。
それに対して情動とは、世界観と同じように、こうした内受容などの感覚入力や気分といった身体的現実・社会的現実とのあいだで身体予算の最適化という目的に向かって概念の構築がおこなわれることで認知・意識されるものです。内受容や気分の継続的なプロセスに対して適切なラベルを貼ることで、現在の状況を自他に対してわかりやすく整理していると言えるかもしれません。
本書では気分の記述について心理学者ジェイムズ・ラッセル氏が考案した感情円環図を紹介しています。快・不快の感情価と覚醒の高低の掛け合わせによって、気分を記述する方法です。連続的に変化していく感情価(快・不快)と覚醒状況に応じて、気分がどのように変化していくのかを直観的に把握することができます。本書では特に言及はありませんが覚醒状況は情動生成へも影響を与える指標でもあると思われます。
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情動はこうしてつくられる 著:リサ・フェルドマン・バレット p.129 図4.5 より作成
気分と情動に対して似たようなものとしてストレスがあります。個人的には構成主義的情動理論では気分と情動の中間のようなもので、気分よりは認知的だが、情動よりは認知的ではないという印象を持っています。概念の連鎖(カスケード)の図のように、感覚入力が概念へと要約されていく・構築されていくなかで生じる階層と、こうした気分、ストレス、情動のような階層は重なり合う部分が出てくるように思えます。ゆえに気分、ストレス、情動という言葉で区別していますが、それらのあいだには連続的なグラデーションが存在するものと捉えた方が現実即しているように思えます。
情動を細かく分類する能力を情動粒度という概念で、著者は説明をしていますが(虹を七色の帯びと見るのか?グラデーションと見るのか?はその人の色に対しての解像度によることを、情動の識別に当てはめて説明しています)、それはこうしたグラデーションを見分ける能力だと言えるのかもしれません。
本書のなかでマラソンの例を引き合いに出して説明されますが、気分やストレス、情動は身体予算の最適化という目的に向けられていますが、必ずしも身体予算を正確に反映・説明してくれるわけではない、ということは、気分・ストレス・情動が予測にもとづくものであるということ、世界観というものが予測の最適化に対してどのように相互作用しているのかを教えてくれるように思えます。
マラソンでは身体予算が支払い可能な状態であっても、身体状況の急激な変化(競技前から競技開始への移行)によって競技の前半から疲労を感じはじめ、気分・ストレス・情動が支払い不可能になると過剰な警告を発します。脳の身体予算管理領域が急激な変化に追いついて予測の訂正ができず、適切な予測ができていない状態にあると説明されます。
マラソンランナーはそのことを理解し、警告を無視し、不快感が消え去るまで(脳の予測の訂正が追いついて、予測と現実が符合するのを待ちながら・警告に耐えながら)走り続けます。そうした無視できるという経験・多感覚性の要約・概念/世界観がマラソンランナーの意思決定を支えます。ゆえにこのような気分を無視する例を出しながらも著者は「脳は、身体予算に耳を傾けるように配線されている。ハンドルを握っているのは気分であり、理性は乗客なのだ。」と述べることができます。
情動概念の地域性、文化的変容
おのおのの言語のなかには他言語へ翻訳不可能な情動語が存在します。こうした情動語の存在は情動というものに地域ごとの特性があることを明らかにしてくれます。本書では言及されていませんが、方言なんかも、そうした情動に輪郭を与えてくれる情動概念の一つだと推測できます。
自分がそれまで暮らしてきた文化を離れて、異なる文化のなかで暮らし始めると、相手との意思疎通が上手くいかなくなることがあります。人は、乳児が親から文化を吸収して、世界観を構築していくように、時と共に、新しい環境の文化に合った新たな概念を構築していきます。世界観とはこのように固定的なものではなく、変化するものです。このような変化の過程は「情動の文化的変容」と呼ばれています。
文化的変容のプロセスは身体予算に大きな負荷を掛けます。自分がもっている世界観と新しい環境の社会的現実のあいだにズレがあり、予測がうまく働かずに、身体的負荷が掛かり、時には身体予算のバランスを崩してしまいます。そして変容のプロセスは新たに参入する側にも、参入される側にも生じます。通常は参入される側の方がマジョリティで影響力が強く安定していますが、極端な例で言えば植民地時代の現地文化の変容のように、参入される側でも起こり得ることです。著者は情動の普遍性を掲げる古典情動理論に批判的な態度を取り(著者の本質主義・還元主義への批判のひとつ)、情動概念の多様性の尊重を重要視します。
身体予算と情動概念がつながりがあることを考えると、情動概念の多様性の維持は、遺伝子の多様性の維持と同じく、環境の変化に対しての抵抗力を高めると言える可能性があると推定できるように思えます。
関連情報
著者がネット上で公開している notes 。原注や補足説明が掲載されているので英語を翻訳する手間は生じるが参考になる。
https://how-emotions-are-made.com/notes/Home
脳科学で解く心の病 著:エリック・R・カンデル 訳:大岩(須田)ゆり、医学監修:須田年生
脳機能の局所性に否定的なバレットとは意見の対立がありそうな気がしますが、解剖学的な見地からの心の病を通して見た脳のはたらきをノーベル生理学・医学賞受賞者が紹介した一冊。新しい人間像の必要性を訴えるという点では両者は一致をみています。
https://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/ISBN978-4-8067-1664-8.html
動物が幸せを感じるとき 新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド
著:テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン 訳:中尾ゆかり
情動の観点を取り入れて動物の行動を考察した一冊。バレットのような動的モデルをもとにした情動論ではないので、内容の趣きは大きく異なるが、環境と心身の相互作用という点を考える上でイメージを膨らませてくれる。

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