Book review: 動物が幸せを感じるとき 新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド 著:テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン 訳:中尾ゆかり

動物が幸せを感じるとき

動物が幸せを感じるとき 新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド 
著:テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン 訳:中尾ゆかり
原著:2009年 翻訳:2011年 出版:NHK出版

動物学博士にて、幾多の動物の処理施設を設計・監査するコロラド州立大学教授、そして自閉症の当事者にして、その啓蒙活動に従事するテンプル・グランディンの動物と人との関係を見つめ直すための本。

自伝映画である「テンプル・グランディン」を見ると、その経歴の特異さがより実感できる。

本書は動物の「情動」と「行動」の関係を軸に、動物と人との関係のあり方を問うていく。翻訳版は原著と章立てが異なっているらしいが、翻訳版では以下のように、最初に動物の情動と行動の関係から動物な幸せな常態とはなにか?を整理し、ペットとしても親しい犬・猫から動物ごとの違いを軽く触れて、野生動物と動物園という対比的な環境、そして家畜動物たちの状況と、さまざまな種類、また立場にある動物たちの現在を見ていく。

目次
1 動物の幸せ
2 犬
3 猫
4 野生動物
5 動物園
6 馬
7 牛
8 豚
9 ニワトリ

動物がもつべき5つの権利

動物の幸せを考える基礎として、イギリス家畜福祉の諮問委員会ブランベル委員会の集約畜産に関する報告書にて、動物がもつべき5つの権利が定義されている。一昔前だと、これが人に対する権利として課題となっていたような内容とも言えるかもしれない。

・飢えや渇きにさらされない権利
・不快な環境におかれない権利
・痛み、怪我、病気の苦しみにさらされない権利
・自然な行動をする権利
・恐怖や苦悩にさらされない権利

私たちは言葉を通して、動物たちとコミュニケーションを取ることができない。ゆえに、その行動を通して、彼らがどのような状態にあるのか?またなにを欲しているのか?を理解していく必要がある。そのときに助けになるのが、「行動」と「情動」の関係である。

この「行動」と「情動」の関係は90年代からの脳科学の分野の研究から人の認知や意識的な思考のプロセスに至るまで、「情動」が重要な役割を果たしていることがわかっている。こうした考え方を動物にも当てはめて考えられるということは、ヒトと他の動物との共通の基盤としての脳の構造を、他の動物から連続的に進化してきた脳の存在を、強く意識させる。

ヒトを含めた動物たちの基本的な情動

まずワシントン州立大学神経科学者ジャーク・パンクセップ博士の定義に従い基本的な4つの情動と3つの特定の目的をもつ情動を見ていく。

・探索 自分の身の回りを探検し、調べ、理解したいという基本的な衝動
・怒り 捕食者に捕まったときに爆発的なエネルギーを与える衝動
・恐怖 身体、精神、社会的な生存をおびやかされたときに感じる衝動
・パニック 身体的苦痛から進化した社会的な関係に伴い感じる衝動
・欲情 セックスと性欲をつかさどる衝動
・保護 母性愛や慈愛の感情に関わる衝動
・遊び 幼い時期、成長の同じ段階ではしゃぎまわる行動を起こさせる衝動

「怒り」、「恐怖」、「パニック」のシステムをなるべく刺激することなく、「探索」と「遊び」のシステムを刺激すること、動物が活発になり、自然な行動をする(常同行動と呼ばれる不自然な反復行動をしないような)環境をつくることが目指される。本書で「環境エンリッチメントを高める」という言葉は、そのようなことを指して使われる。

動物種によって異なる情動と行動

犬と猫の比較は、非常に示唆に富んでいる。犬にサイズや形状などが異なる多様な品種がいるのに対して、猫はだいたい同じような形状やサイズである。これは猫の方が野生に近いからだと言われる。また犬は人と同じように表情で感情を表すので感情を掴みやすいが、猫は表情に乏しいため仕草から読みとる必要があり感情を掴むのにコツがいる。というように、同じペットとして飼われる犬、猫のあいだでもさまざまな違いが見られる。動物を擬人化した板垣巴留さんのマンガ「BEASTARS」で描かれるように、実際の動物たちにも、それぞれの動物種に独自の特徴があり、文化があり、それぞれの動物に個性がある。

グループに分かれて暮らすイルカは、グループごとに方言や、子育てや遊びの行動が違うという。チンパンジーは道具を使い狩りをして、ジャングルの先住民のように、ジャングルに生える植物の二百種類の違いがわかる。カケスはエピソード記憶と呼ばれる、過去の特定の「出来事」を記憶することができる。というように、人と同じような文化や能力がある動物、人を超える能力を持つ動物がいる。

アメリカでの人食いピューマの話しは、日本のクマの話しのようで、人口減少が進む過疎地から隣接する住宅地での野生動物の出没がなにを意味するのか?ちゃんと考える必要があると、改めて実感する。

川から有機物を山へ運ぶクマ、糞によって平原の緑を維持し砂漠化を防ぐヌーやバイソン、動物たちはかき乱し環境を破壊もするが、環境を創りもする。(被脆弱性の土地には一年中湿気があるのに対して、脆弱性の土地には乾期があること。総降水量の相違ではない。 … こうした土地を休牧地にしておく―草食動物をすべて追い出す―とどうなるだろうか。アラン・セイヴァリーの発見によると、被脆弱性の土地は森に戻るが、脆弱性の土地は砂漠になる。p.151)

こうした環境を維持するための動物の一員として、人間もまた存在している。ゆえに人間の動物としての生きものとしての特性を理解し、その環境の中に組み込むことが大事となる。「動物を救うのも傷つけるのも、経済的利益の有無にかかっている」という言葉は、非常に残念な言葉であるが、現実を直視した言葉だと思う。「野生動物を密漁する代わりに、動物と生息地を保護する経済的誘引を生み出さなければならない。人間の本性に反する法律を制定しても何にもならない。そんなことをしたら、苦しむのは動物だ。p.163-164」

探索と恐怖という基本的な情動

情動の重要さはそれぞれの動物で異なる、特に捕食種と被食種で大きく違う。捕食種では「探索」が、被食種では「恐怖」が重要であり、動物園などでの動物の環境を整える上でどの情動をどうやって刺激したり緩和したりすべきかをよく考える必要がある。

霊長類は夜寝るところが高いところでないと、身をさらしているようで恐怖を感じるという指摘は、やはりヒトにも当てはまるのだろうか?当てはまる気がする。間取り上の問題もあるが、2階に寝室を持っていく住宅は多い。

異常を察知したときの定位反応=判断までの待機の状態 を上手く把握し、恐怖にまで情動を持っていかないようにする飼育員のスキルは、情動が相転移のようにある閾値を超えないようにコントロールする術を持つべきであることを実感させられる。それは自分自身へも、相手に対しても、

情動の記憶が映像や音のかたちで貯えられる、というのは非常に大切なことだ。特に恐怖は死ぬまでのあいだに多種多様なものが蓄積されて、特殊化していく。老人が偏屈になるのも、そうした特性にもよっているのだろう。そして記憶はPCのようにフォルダ分類されていくらしい。恐怖の記憶に対抗するには、楽しい記憶で拮抗(忘れないので、上書きではなく、拮抗)させるしかない。はじめて自転車に乗れるようになるまでの過程を例に説明している。こうした記憶の特性はトラウマ記憶や依存症・習慣の記憶にも言え、情動が意思決定や行動に影響を与え、それが日々の中で繰り返されることを考えると、いかに大事なことかを実感できるのではないだろうか?

動物園という特殊な環境から見えてくる動物と環境の関係

放浪する動物は動物園のような狭い環境に閉じ込められると常道行動=不自然な反復行動を起こしやすいというのは、人もまた一つの場所に閉じ込められるのは良くないということだろう。但し、人の場合はwebなど単純に物理環境だけの閉鎖性を指すわけではないと思うが

動物園で生まれ育った動物は、野生で生きていく術を身につけていないので、野生に返すことができない、という事実は、ややずれるのだろうが、ヒトと同じように学習性のスキルが存在するということであり、ある種の文化がそこにはあると言えるのだろう。

動物も働いて手に入れた餌を好む傾向があるらしい。食事に探索が加わり、満足が増すということか?同じようなことで、コントロールでは基礎となる情動ではないので、環境を整えるときの土台とすると、退屈な環境を作り出すことになりかねないという、なかなか難しい。

マーティン・セリグマンの学習性無力感の犬の実験について、ショックをコントロール出来ずに学習性無力感を感じた犬は「恐怖」のみを感じていたのに対して、ショックを止めることができた犬は「探索」と「恐怖」の両方を感じることが出来たと分析している、「探索」の過剰な抑制が抑鬱状態をもたらしたということだ。「探索」は「恐怖」を抑制する。「探索」の機会を減らすと、「恐怖」に敏感になり、やがて無力感に囚われてしまう。

子育てにも通じる情動による正の強化、負の強化の違い

家畜の調教における、負の強化と正の強化の関係も非常に重要。

負の強化とは「いやな」ことが止まった時や起こらなくなった時の原因となったと思われる行動が、強化されることを指す。例えば子どもがいたずらをするという「いやな」ことを、親が怒鳴ることでいたずらを止めることで、怒鳴るという行動が強化される=もっとするようになる。子どものいたずらと怒鳴るが結びつき、いたずらすると怒鳴る、怒鳴るに子供が慣れれ止めなくなればもっと強く怒鳴る、負のスパイラルがはじまる。

それに対して正の強化とは正しい行動をしたらご褒美を与えることで、その行動をしたくなる=強化する、というもの。動物はこの学び方を学習すると、自発的に学習を繰り返すようになり、人間に調教されているのではなく、自分が人間を調教しているような気分になってくると言う。たしかに、子供がおもちゃのために勉強をするという行為は、やらされているのではなく親が買うように仕向けるという意味で似ている気がする。

こうした違いは脳科学の研究からも主体性のある行動と主体性のない行動(受動的な行動)では、その結果によって生じる成果に対しての脳内でのホルモン分泌・神経伝達物質の放出が異なり、主体性のある行動の方が喜びや幸せを感じるように仕組まれていることがわかっている。聞こえが悪いかもしれないが負の強化ではそうした喜びや幸せを感じることが出来ないため、実体的な報酬を調教側がバランスを取りながら与え続けなくてはならないが、正の強化では一度喜びや幸せを感じる回路がセットされてしまえば、調教側の手を離れて主体的に自動的に行動を繰り返すようになる、ということである。

アニマルウェルネスからみる環境の価値、情動の価値

著者から見ると、調べるものや、頭を使ってすることが何もない=探索が刺激されない現代の牛房を、ルームサービス付きの高級ホテルと形容する生産者と著者のあいだには、大きな隔たりがある。

しかし、例えば乳牛の場合、放牧される乳牛も牛房に閉じ込められる乳牛も、牛乳の質はあまり変わらないらしく、それが不健康な管理を続けさせることにつながっている。同じような話しでニワトリの場合、産卵鶏の一匹当たりの面積を狭めると卵を産む数は減るが、トータルでの数は増えるので、ぎゅうぎゅう詰めの鶏舎はなくならない。生産性・経済性に結びつかない動物の待遇を改善することは非常に難しい。

また人の動物の扱い方(行動や管理の仕方)を変えるという意識よりも、設備を変えて対応するという意識が強いため、改善されるべき乱暴な振舞いが野放しになり、結果、設備もうまく使いこなせないということにもつながる。すべての工程を自動化するか、人の振る舞いの評価を自動化するか、私たちの機械依存の症候はかなり重度なところまできているように思う。

豚舎の設備へのロックインした現状もなかなか悩ましい。競争のために設備投資をすれば利益を上げるために飼育する豚の数は増え、そのため衛生環境の悪化や情動の環境の悪化によって、さらに設備投資が必要になり、結果、さらに豚の数を増やす必要が出てくる。そして豚の精神的幸せはどんどんないがしろになっていく。

このような問題は動物のことを考慮する必要がない業界と結びつくとさらに悪化する。畜舎の場合は建設会社という動物と無関係な業界と結びつき、その利益のために動物の福祉が犠牲になった。

遺伝子選択 と 食肉

家畜動物の遺伝子選択も深刻な問題となっている。動物たちの健康を犠牲にして、成長速度や大きなサイズを選択してきたため、まともに歩くことすらできない家畜たちがたくさんいる。さらに鶏ではごく少数の育種業者が世界中の商業用ブロイラーを供給しているため遺伝子の多様性が乏しくなっている。作物と似たような話しだが、育種選択前の伝統品種を存続させることで、遺伝子の多様性を保ち、貴重な遺伝的形質を持つ動物を守っていく必要が出てきている。

今では繁殖用のメスは、遺伝の問題をいくつも抱えているので、三回出産する程度しか生きることができない。遺伝の問題がなければ、長生きして、その倍は出産できるだろう。動物が狭い場所で飼われるときには、丈夫な足などの大切な形質を選択することが忘れられる。私はこれまでにも、動物の脚や踝の欠陥を見て、あきれている。踝が崩れてしまい偽蹄で歩いている若い豚もいる。偽蹄は蹄の上のふくらはぎにある小さな二つの節だ。このような豚がいるのも、育種家がひたらすら、成長が早く体重が多くなる遺伝子を選択してきたからだ。幸い、もっと豚の体全体に目を向けて育種に取り組む育種家もいて、ようやく、こうした深刻な欠陥をなくすために遺伝子を変えはじめている。
p.288

ゲージ飼いでも平飼いでも、雌鶏の骨折はかなり深刻な問題だ。卵をたくさん産むことだけを考えて品種改良された雌鶏は、カルシウムとミネラルをすべて卵殻の形成につぎこみ、自分自身の骨密度は減っていく。骨がとても弱いので、平飼いでは、止まり木から飛び降りただけで脚の骨が折れることがある。この問題を解決するには、骨が丈夫な雌鶏は産卵数がわずかに少ないという現実を、業界が受け入れるしかない。
p.327

今日では、ごく少数の育種業者が、商業用のブロイラーのすべてを世界中に供給しているため、遺伝子プールが極端に狭く(多様性が小さく)なっている。遺伝的に近い関係の動物は同じ病気にかかりやすいため、危険な状況が生み出されているのだ。そういえば、オーストラリアが、国産のブロイラーを段階的に減らしてアメリカのニワトリを輸入したら、結局、病気の問題が多くなったこともあった。
だからこそ、動物や鳥の育種選択前の種を保存することが大切だ。伝統的な品種を存続させるのは、遺伝子の多様性を保ち、貴重な遺伝的形質をもっている動物を守る唯一の方法だ。昔の品種は、早く成長するように改良された品種と比べると、肉が柔らかくて質が良く、身体も丈夫だ。おもに放し飼いや放牧を行う農場や有機農場で好ましい成果をあげている。美しい、独特の動物だ。商業育種のあおりを受けて絶滅されてはいけない。
p.332

野生環境 と 社会環境

処理工場にいる牛は、人間が繁殖させ、育てていなければ、一頭たりとも存在しなかっただろう。この世に生を受けることなど、全くなかったはずだ。人間は、自然がときに牙をむくことを忘れる。近代的な処理工場より、野生で死ぬ方が強い痛みと大きなストレスを感じることは、しばしばある。
p.350

私は西部のある牧場で、コヨーテに半身の皮をすっかりはがされた仔牛を見た。仔牛はまだ生きていて、牧場主は瀕死の状態から解放してやるために射殺しなければならなかった。もし選べるなら、生きたまま身を裂かれるよりは、きちんと操業されている近代的な処理工場に行く方が、まだましだと思う。
p.350

私が1990年から住んでいるコロラドでは、猛吹雪でシカやヘラジカや牛が何千頭も死んでいる。飢え死にする動物も少なくない。雪が五、六メートルも積もった時には、牛のいるところまで辿り着けない牧場主もいる。そんなときには、牛は州兵に空から干し草を落としてもらう。家畜は牧場主に何とかして救ってもらえるが、野生のシカは自力で生きて行かなければならない。自然の環境は、とても過酷な世界にもなるのだ。
p.350

食肉加工場を設計してきた著者の言葉は、客観的な現実を教えているように思える。そしてこうした言説は国家と暴力との関係の言説に非常に近く、自然状態からの保護、戦争状態からの保護と国家という関係と、近代的処理場は非常に近しい存在であるよう重なる。

私たちは近代的処理場という国家に囚われた家畜なのだとしたら、その近代的処理場が自然環境とのあいだに持続可能な関係を構築でき、そして自分たち自身との関係も遺伝的な将来への影響の側面も含めて持続可能なかたちを目指して、生を肯定する処理場のかたちを追求する必要があるように思える。自然状態で一人で生きていけるように人間という動物は作られていないのだから。