和室について / 自然の「観賞」と「観照」の違い、文化・宗教と建築の歴史を通して
塔頭 生活の場と観照の場の両立
塔頭は高僧の隠居所という住居としての機能を持っています。南の枯山水の観照の庭と別で北にも庭を持つことが多いです。この平面図では北庭も枯山水ですが、石庭で有名な龍安寺の北庭のように緑と池で彩られた庭を持つことも珍しくありません。これは平面図を上下に分ける線がありますが、この線を境に上側/北側がプライベート空間/生活の場=ケの場所、下側/南側がパブリック空間/応接の場=ハレの場所と、塀と庭によって世俗から隔離した上でさらにここで二つを分けています。なので北は高僧たちがくつろぐための観照の場として設えられていました。
禅宗の庭は龍安寺の石庭もそうですが南がメインで北がサブという扱いで庭が構成されるイメージを持ちますが、最初に禅宗の庭として発展したのは北庭の方だったようです。理由としては南側が一つは禅宗のなかで儀式などに使う場所として利用されていたこと、もうひとつは観賞の庭として合理的だったことです。
北側に緑が配置されると人は南から北を見ますから光を受けた緑をみることが出来ます。これに対して南側に緑が配置されると逆光になってしまう。さらに緑は太陽の方を正面に成長していきますから北側に配置している場合は正面を向けて成長しますが、南側の場合は背を向けて成長してしまい庭としての維持が難しい。鎌倉仏教が生まれて禅庭が発達するまでは寝殿造りの南の池泉式庭園が主流で、それは南に水が吉と風水で決められたもの。鎌倉仏教による価値観の変革があってはじめて北庭に緑や池が配置されるようになったようです。
このように二つの異なる空間・庭が南北に存在する中で、南庭の広縁を修行/座禅の場として選び高僧たちは最終的に空間を仕立てていきます。高僧たちは枯山水の南庭の広縁での座禅を通じて「自他一体」、この場合は庭と自分が一体となる、庭が自分で、自分が庭である状態を目指します。これは草庵茶室の「主客一体」と同じです。庭と自分が一体となることを通して、そこから自然、世界の理と一体となる=悟りの境地を目指します。
慈照寺銀閣の書院造の東求堂も同じように北側がプライベート、南側がパブリックな場、さらに時代が下って寝殿造りの住まいも北側がプライベートな場で、南側がパブリックな場になっています。このように日本ではこの南北のハレとケの使い分けがなされ、江戸時代の民家建築や最近の住宅メーカーの間取りなどにも見られると変わらない伝統だと思います。
江戸時代になると幕府は仏教の権力を削ぎつつ自分たちの中に取り込む方向で動きます。江戸時代に入る前から織田信長による延暦寺焼き討ちや本願寺の解体など仏教の弾圧によって多くの力は削がれていたところに、高野山をはじめとした寺院に対して法度を出して統制を強めています。そして檀家制度によって庶民を監視統制する機関の一部となります。平和の時代が訪れて仏教の役割も大きく変わっていきます。茶室もまた大名たちのたしなみとなり、求められる姿が変わっていきました。
京都臨済宗大徳寺の塔頭である高桐院は江戸時代がまさに始まろうとする慶長7年(1602年)に利休七哲の1人である細川三斎によって建立されます。ある年代の方にはJRの京都のCMでお馴染みでしょうか。枯山水の庭を持つ塔頭がひしめく大徳寺境内にあって、緑に囲われて苔むした青々とした空間は塔頭全体が隠遁僧のための草庵茶室の一部であるような雰囲気を持ちます。規模も形式も違いますが後の桂離宮で行われた寝殿造りの回遊式庭園の素地に対して茶室の露地が持つ感覚を調整する誘いの空間が敷地内に慎重に配す発想の源は既にこの頃から現れていたように感じます。
同じく大徳寺の塔頭である孤篷庵も茶室と塔頭とを統合した空間の例だと言えると思います。孤篷庵は高桐院とは違い書院茶室として、塔頭のなかに茶室が入り込んでいきます。小堀遠州によって1612年に建立されています。小堀遠州は利休七哲の1人である古田織部の弟子にあたり、利休にとっては孫弟子のような位置でしょうか。きれい寂びと呼ばれるデザイン性に富んだ構成はのちの時代に大きな影響を与えました。
孤篷庵はそれまでの塔頭のように南に応接の場、北に生活の場というかたちを取っていますが、北側に茶室が入り込むことで書院は応接メインの場となり、生活の場は別棟へと逃がされます。南庭は枯山水ですが白砂利ではなく赤土が用いられ、.茶室への露地の一部となっています。高僧の修行の場としての広縁の役割よりも茶室の役割が重視されていることが見て取れます。茶室もまた草庵茶室のような閉じた場ではなく、外部と内部がつながったような表現がなされています。書院という日常の延長の中に茶道という非日常的な要素をスケールや立面・平面構成、素材の使い分けによって組み入れていくことで、それまで切り離されていた世俗を茶室に引き入れることで、茶礼を通して世俗と自然との調和をめざしているように感じます。
このような世俗への視線は寛永年間には既に現れ始める浮世絵をはじめとした町民文化、そして世俗生活の倫理規範となる儒教の発展にも見て取れます。中世の武士社会によって開かれた文化は、江戸時代の近世に入ってまた別の方向へと開いていきます。
尺貫法
「間取りについて」でも書かせて頂きましたが、日本という一つの国で、ここまでの統一規格寸法によって建物が建てられる文化が浸透したのは、江戸時代以降と言われます。それまでは大工は平安時代には宮廷につかえる官僚組織であり、平安末期からは国家事業を貴族が負担するようになり彼ら雇われる職業集団。それが江戸時代になり平和が訪れ、城や邸宅などの需要が減り一部の権力者に仕える業態から都市の町家や裕福な豪農の民家と裾野を広げて、全国津々浦々に大工技術が行き渡ったと言われています。その裏には江戸時代の人口の急増や狭い国土に高密度で住むことによって生じる火災などの災害に対しての対処、都市の人口の流動化に伴う中古市場の活性化など、様々な要因が重なり合っているように思えます。江戸時代の町民文化を下支えしたのはこの規格化された設計・施工システムだったと言えます。
間取りの基本単位である畳も大工と同じような経過を辿って日本中に浸透していきます。奈良時代には畳職人というものが出現し、鎌倉から室町時代に職人としての地位が確立されていきます。14世紀には寺院の畳の需要拡大によって専属の畳職人が寺院に置かれるようになります。戦国大名たちも畳職人を抱えて「畳町」や「畳屋町」といった町名が生まれます。さらにそれが江戸時代になって町民の畳需要が増すことで各町内へと分散して畳の供給・メンテナンス体制が築かれていきました。
建築における近代化をコンクリートや鉄に限定するのであれば、それは明治以降の西洋化の過程で行われたことだと言えますが、大量生産や規格化や大衆化という観点から考えるのであれば江戸時代に日本における建築の近代化は始まっていたと考えられるのではないか?と個人的には思っています。
この大衆文化による木材需要の急増は日本人と山林との関係を大きく変えていきます。日本の森林の通史を書いたコンラッド・タットマンは明治期までの日本の森林と人とのあいだに二つの危機があったと記します。一つは飛鳥時代・奈良時代の大陸から建築技術が輸入され東大寺をはじめとする(現存の東大寺は江戸時代で当時は数倍大きかった)大規模建築の建立のために大径材の伐り出しとその跡地の焼畑化による森林の変化。次が江戸時代初期に起こった人口増に伴う開墾と山林資源の需要の急増です。今でこそ保安林や植林をするという林業のスタイルが当たり前になっていますが、それが本格的に行われるようになったのも、この江戸時代からです。これは世界的に見てもかなり早い時代から行われており、江戸時代の森林が国際的に高い評価を得ている理由ともなっています。

