和室について / 自然の「観賞」と「観照」の違い、文化・宗教と建築の歴史を通して

和室と市中の山居

自由で平等な場であった書院/会所の空間は、鎌倉仏教が育んだ隠遁僧たちの思想が育んだ文化によって成熟していきます。その建築スタイルは侘茶の「茶室」と禅庭の「塔頭」として結晶したのではないかと思います。その二つに共通しているのは「草庵」「枯山水」という自然の持つ美しさを志向する芸術でありながらも、都市という非常に人工的社会的な場所に埋め込まれたもの=「市中の山居」であるということです。

村田珠光によって創始された侘茶は堺商人たちの手によって成熟させられていきます。当時の堺は自由自治の商業都市で中国やポルトガルとの貿易とそこから発達した鉄砲生産で栄え、その財力と軍事力を軸に環濠という堀を回して周囲から自治を守っていました。同じ時代に商業都市国家として栄華を極めたヴェネツィアのような街でした。限られた土地のなかにたくさんの商家がひしめき合って生きる。身分に捉われず自由に生きる、そんな堺商人たちの拠り所が鎌倉仏教の一つである禅でした。

お茶と禅の関係は前に書かせて頂いた通りで、茶礼という喫茶の習慣・茶畑の造園を広め、接待の場として政治経済の道具として利用されました。当時の経済界の中枢である堺商人がそんな道具を利用しないはずがありません。しかし堺は先ほどの銀閣のような自然と都市の境界に位置するような緑あふれた環境でもないですし、将軍の御殿という広大な広さの土地があるわけでもありません。しかし環濠で囲まれた限られた環境のなかにひしめき合って生きる、そんな都市が鎌倉仏教の隠遁僧たちが育んできた侘び寂びの文化・禅の思想と実は相性がよかったようです。

世阿弥の「冷えたる曲」の記述のなかで見えるように、心/内に秘めたるもの、そこから自ずと湧き出てくる感情や情景というものが重要視されていました。能は演劇/歌舞劇ですから本来目の前になり世界を観客の前に演者がつくりだす芸能です。鎌倉仏教はそれまで仏教がもっていた自然/世界を理解するための「知識」を踊りや念仏/歌を通して「体感」するものへと改変させました。能はそれを参加して体感するものから「観照」するものへと改変させます。抽象的であった「知識」が「体感」する具体的なものになった上で、改めて情景をイメージさせる「観照」するものへと抽象化したのです。連歌は能が抽象化したものを詞としてさらに抽象化させて「想像」させるものへと純化させました。

世俗を断つ 露地・庭園

様々な身分のものが集い勝負事・応接の場であった会所は、塀で囲われた外と隔離された庭園の敷地内に建てられました。庭園は鎌倉仏教から生まれた枯山水を特徴とした禅宗式庭園でした。塀によって囲われた庭園空間は世俗から隔離された自由と平等の場を表現していました。慈照寺銀閣に行かれたかたは庭園に入るまでの高い植木と折れ曲がったアプローチが別世界へと切り替わる舞台装置の役割を果たしていたことを記憶されている方もいらっしゃるのではないかと思います。

慈照寺銀閣 アプローチ
慈照寺境内図 左下がアプローチ
茶室の路地 突き当りを曲がった土間庇に躙り口がある
茶室露地平面図 左の露地を通り南の土間庇に躙り口

この世俗と内部を分けるアプローチの考え方は茶室や塔頭にも引き継がれていきます。茶室では「露地」という飛び石のアプローチがつくられます。茶室は会所のように広い敷地ではなく、そのため広い庭園もありません。そのためこの露地が会所の庭園の役割も果たします。露地は世俗と内部を分けるアプローチであると同時に主人と客とあいだの応接の場にもなります。蹲に生けられた花や待合に掛けられた掛軸は主人から客へのメッセージです。また人をはじめ動物は刺激をゆっくりと変化させられると気づくことが出来ず、音の変化、光の変化、熱の変化に自分のスケールを合わせてしまうと言います。露地の飛び石の石組みはこれから入る茶室に最適な音や光や大きさのスケールに客を合わせられるように主人が調整した場所のようにも思えます。

このようにして都市という世俗の象徴のような場所の中に、世俗から巧妙に隔離された「市中の山居」と呼びうる空間が生まれてきます。市中は都市の中、山居は茶室を指しています。この茶室が求めたものは鎌倉仏教の隠遁僧たちの自然と向き合うための草庵でした。

そこから慈照寺銀閣で見てきたような書院風の茶室と草庵風の茶室という二つの方向性が生まれます。侘茶が求めたのは後者の隠遁僧たちの草庵茶室でした。利休の頃の草庵茶室はほとんど外が見えません。見えるのは土壁で塗り込められた床の間と面皮の付いた丸太。そして小さくぼんやりと照らすことで部屋の奥行感を増す障子。自然を暗示させる要素が慎重に構成されます。茶室の平面は4畳半の正方形が基本としてありましたが利休の時代で既に3畳の茶室、2畳の茶室、1畳半の茶室と必ずしも正方形ではなくなりました。また天井もフラットではなく、平天井と傾斜天井の組合せや船底天井などと光や高さ、素材の表現で様々なものが現れます。

これは同じ侘び寂びの芸術である能における「演者と観客」のように「主と客」という非対称な関係が空間にも反映されていきます。この一方で、茶会という時間芸術は「主客一体」という考え方のもとで客もまた茶室という舞台の一人の演者であることが求められます。そのため、そこには会所の頃とは別の自由と平等の考え方が適用されています。

時代は新しい武士という存在を中心に平等な立場で勝負事をはじめていた時代からそれぞれの主のもとに集い大名たちがしのぎを削る戦国の時代へと移っていました。島国日本では勝者も敗者も戦国の世をかたちづくりピースに過ぎず、それを激しくし、また鎮めるための役割を果たす、そのような仏教的な世界観だったのではと思います。「主客一体」は主も客もともに茶会という時間を最高のものとするために適切な受答え/問答を行い役目を果たす、主は客であり、客は主である、という禅のような世界観です。

草庵茶室の面白いところは、草庵という自然を感じさせることを目指した一方で閉じて自然を直接的には見せない人工的に間接的にそれらを想像させていくこと、そしてそうすることで人と自然との距離を縮めることだと思います。そこに「主客一体」が被さってくることで、人(相手)もまた世界を構成するピースの一つに過ぎないそこにある「自然」と同じ存在であることを五感で感じ取らせる、その時間を共に自分も構成するという一連の流れを体感することだと理解しています。そうすることで自然は観賞する対象から観照するものごとへと変わっていきます。

禅宗の塔頭寺院もまた観照に重きをおいた場でした。塔頭とは大寺院のトップや高僧が引退する時や亡くなった時に隠居所や弟子たちが墓を守るための小庵です。小庵ですので大寺院のように座禅をする僧堂があるわけでも、修行道場があるわけでもありません。そこで座禅をする場所として選ばれたのが枯山水の南庭に面した広縁ではなかったかと言われています。枯山水のことを天龍寺をはじめ数々の庭を中世に作庭した夢窓疎石の言葉をみると

高く聳えた山には、わずかな塵一つない。谷川の瀑流には、水のしたたりもない。一時風が吹けば、明月の夜となる。仏法の道理を知った人は、その道理のなかに遊ぶ。
夢想疎石「仮山水韻」

白砂と石組みで作られた枯山水、仏法の道理を知った人なら、その枯山水をきっかけとして目の前の姿に捉われずに、自然を想像し遊ぶことが出来る、といった感じでしょうか。草庵茶室が閉じて自然を人工的に取り扱ったように、枯山水でも人工的に抽象化して扱うことで、人が想像をする「余白」「間」をつくりだします。

塔頭広縁イメージ
塔頭平面図イメージ
1平等な世界を表現した座敷 2お茶と禅と和室 3和室と市中の山居・露地 4塔頭 生活の場と観照の場の両立

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