情報の器:条理と古代伊予の国より

今治の条理とその背景

大化の改新(645-701年)以後に制定される日本の律令制度の中で、今の県のような行政区は「国府」と呼ばれ、愛媛県=伊予の国府 は 今の今治にあったと言われております。
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう-931年 – 938年頃)に編集された辞書には、伊予の国の国府は「国府越智郡在」と記載されております。越智郡の名前の由来は、この地域の有力者の一人であった越智氏から来ているのだと推定されます。越智氏は大化の改新以前、律令制の敷かれる以前の行政単位の一つである国造にも任命されており、古くからのこの地域の有力者であったことがわかります。
越智氏の祖先は、日本が朝鮮へ出兵した白村江の戦い(663年)にも伊予の水軍を率いて参加しているといわれます。白村江の戦いでは日本は大敗して帰ってきてますので、今治の統治を継続する上で、寺院を建立したり、中国や朝鮮からの新しい先進的な外来文化を積極的に取り入れることで地域をまとめるための様々な政策を行っていきます。

条理区画の設定

この律令制の定められた頃に、条理は制定されていきます。以前は、「班田収授制」という租税を取り立てるための仕組みのために、田んぼを均等に分けていったと言われていましたが、現在では この仕組みと条理区画の制定は別の流れで行われたことが濃厚になっています。具体的になにが原因となっているのかは、まだ議論されているようですが、そこに各地の有力者が関わっていたことは濃厚であるというのが、大方の見方のようです。
この条理の区画は東西南北にきっちりと向いていることが理想とされていました。これは京都や奈良などの広い平野の田の区画や街の街区割を見ていくと良くわかります。

この方位を当時どのように調べて、大地に線を引いていたのか?
これは日本に中国や朝鮮などの大陸から伝わった暦や天文書をベースにして行われたと考えられます。

そのなかの「周礼」の「考工記」と呼ばれる中国最古の技術書(紀元前の書物?)に、地上に竿を立てて、その点を中心に円を描き、日の出と日の入の影が円と交わる点をプロットして、その2点を結ぶことで、まず東西の軸を導き、その線の中点と円の中心を結ぶことで南北の軸を導く方法が記されています。

もう一つの「周髀算経」という中国最古の数学書(紀元前)には、冬至の早朝6時頃と夜18時頃に北極星を見て、星と地上に立てた竿の先端を結んだ線が地上と交わる2点をプロットして、「考工記」と同じようにその2点を結ぶことで東西軸を導き、その線の中点と竿を結ぶことで南北軸を導いています。

古代中国の数学者の一人である劉徽が著した「海島算経」という数学書には、測量などの数学を実用的に応用するための方法について記されおり、導かれた東西南北軸を田の地割を刻むために使われたと推定されます。

京都や奈良のような広い平野では、東西南北にきっちり向きますが、四国のような傾斜地の多い土地では、土地の傾斜に合わせて微調整をしていっています。

例えば今治の越智国府の条理では、海から山への傾斜の向きに従って、45度角度が振れています。

 出典:国土地理院ウェブサイトより作成  
地形の軸に合わせて約45度角度が振れている今治の条理
出典:国土地理院ウェブサイトより作成
地形の軸に合わせて約45度角度が振れている今治の条理

条理の基本単位は約109mの正方形で、この約109mという中途半端な数値は1町という単位になります。1町は60歩 で、1歩は6尺、1尺は0.303mになりますので、360尺=約109mとなる計算です。この1町四方からなる単位を「坪」または「坊」と言われていたそうです。(この坪は、建物の面積で使われる坪とは異なります。)

今治の条理をズームアップして見てみます。

 出典:国土地理院ウェブサイトより作成  約109m角のグリッドが見えてくる
 出典:国土地理院ウェブサイトより作成  約109m角のグリッドが見えてくる
出典:国土地理院ウェブサイトより作成  約109m角のグリッドが見えてくる

今治の条理でも約109mの基本単位が見えてきます。古代の区画割が、現在にも残っていることが確認できます。

この区画割は当時はさらに10等分されて、その一つは段と呼ばれていたそうです。段の分け方には、大きく二つの方法があり、一つは長地型、もう一つは半折型と呼ばれます。

条理の区画割
左:長地型(短冊形)、右:半折型 どちらも10等分の同じ面積を単位としている。
左:長地型(短冊形)、右:半折型 どちらも10等分の同じ面積を単位としている。

今治の現状の地割を見てみると、横幅は異なりますが基本単位を短冊状に切っていることが見えてきます。ここから、今治では長地型の選択がなされていたであろうということが見えてきます。この短冊状のかたちは農地転用されたと思われる宅地の形状にも引き継がれていることがわかります。生物が遺伝子セットという過去の来歴を受け渡して進化を続けるように、土地もまた真っ新な状態で引き継がれていくのではなく、過去の来歴を引き継いでいっていることが見て取れます。

 出典:国土地理院ウェブサイトより作成
今治の条理、109mグリッドが連続していることが見えてくる。
出典:国土地理院ウェブサイトより作成
今治の条理、109mグリッドが連続していることが見えてくる。

愛媛には条理の区割りが比較的きれいに残っている地域が多いようです。これらは古代の比較的早い時期から発展し、大陸と中央を結ぶ航路となる瀬戸内海に属していたことが大きく起因しているのだと思われます。

北条の条理

ほかの愛媛の条理も見ていってみましょう。例えば、風早国造があったと推定される北条の八反地の國津比古命神社周辺を見てみます。

出典:国土地理院ウェブサイトより作成
松山市北条の条理、今治よりも東西南北に近いグリッド
出典:国土地理院ウェブサイトより作成
松山市北条の条理、今治よりも東西南北に近いグリッド

こちらは、地形の影響を受けていますが今治よりも東西南北に沿った条理が形成されていることがわかります。ズームアップして近寄ってみます。

出典:国土地理院ウェブサイトより作成
松山市北条の条理、109m角の区画割が見えてくる
出典:国土地理院ウェブサイトより作成
松山市北条の条理、109m角の区画割が見えてくる
出典:国土地理院ウェブサイトより作成
松山市北条の条理、109m角の区画割が見えてくる

今治の条理と同じように 約109mの正方形の区画割がなされていることが見て取れます。

出典:国土地理院ウェブサイトより作成 
松山市北条の条理、109m角のグリッドが浮かび上がる
出典:国土地理院ウェブサイトより作成
松山市北条の条理、109m角のグリッドが浮かび上がる

今度は今治の時の長地型ではなく、正方形を半分に分けてさらに区分けをしているので、もともと半折型で区画割がなされていた名残りなのではと推定できると思います。

次は律令制成立前後の遺跡である久米官衙遺跡群に近い松山平野の久米のあたりを見てみます。今度は東西向きの広い谷底平野に位置するため、ほぼ東西南北になっています。そして、同じように約109mの正方形グリッドのラインが見えてきます。

松山市久米の条理、ほぼ東西南北の軸線
松山市久米の条理、ほぼ東西南北の軸線
松山市久米の条理、109m角のグリッドが浮かび上がる
松山市久米の条理、109m角のグリッドが浮かび上がる
松山市久米の条理、109m角のグリッドが浮かび上がる
松山市久米の条理、109m角のグリッドが浮かび上がる
出典:国土地理院ウェブサイトより作成
愛媛県松山市久米の条理、109m角のグリッド
出典:国土地理院ウェブサイトより作成
松山市久米の条理、109m角のグリッド

最後に伊予の国造に由来があるとされる伊予神社の周辺

伊予の条理、ほぼ東西南北の軸線
伊予の条理、ほぼ東西南北の軸線
伊予の条理、109m角のグリッド
伊予の条理、109m角のグリッド
伊予の条理、109m角のグリッド
伊予の条理、109m角のグリッド
出典:国土地理院ウェブサイトより作成 
伊予の条理、連続する109m角のグリッド
出典:国土地理院ウェブサイトより作成
伊予の条理、連続する109m角のグリッド

このように、農家の担い手が少なくなってきていると悲鳴が聞こえる現代においても、古代の農業開発で区分けされた土地の区画が今に残り、さらにはそれが宅地化された街区のかたちにも反映されています。土地とは、単なる白キャンパスのような真っ新な存在ではなく、過去からの来歴を刻み込まれた、情報の器なのです。

条理が確認できない南予

このように条理が確認出来る瀬戸内海の主要航路に面する中予、東予とは違い、南予地域においては、はっきりとした形が認められません。これは南予のリアス式の入り組んだ地形の影響により、条理のような大きな整形区画での分割が難しいために行われていないのか?それとも統治者の違いによる政治的な側面から生まれているものなのか?その両方なのか?
理由ははっきりしませんが、事実として、条理のような整形のかたちではなく、地形に沿った棚田、段々畑のかたちを基本的に取っています。同じことは必然的に集落の形態へも影響してきます。条理の地域では、集落もまた条理のグリッドの中に納められて形成されていましたが、条理の外では、地形への呼応性が増します。

伊予市南方の区割り

伊豫岡八幡宮周辺の地割
出典:国土地理院ウェブサイトより作成
伊予岡八幡宮周辺の地割 、グリッドが条理の109mではなく、約150mが採用されている
伊予稲荷神社周辺の地割 、グリッドが条理の109mではなく、約150mの区割りが採用されている
出典:国土地理院ウェブサイトより作成
伊予稲荷神社周辺の地割 、グリッドが条理の109mではなく、約150mが採用されている

伊予国造の伊予神社から少し南に下がると、古墳時代につくられた伊予岡八幡宮がある伊予岡古墳がある。その周囲の田んぼの地割は条理でつかわれる109mのグリッドではなく、150mほどの割が基準となっています。
これは、さらに南へ下った郡中駅、伊予ICに近い、伊予稲荷神社の周辺。伊予稲荷神社は平安時代初期に建立されたとされる古社で米湊は江戸時代に埋め立てられて郡中の湊町が生まれたため、今は海に面していませんがそれまでは海に面して、伏見稲荷大社の荘園として周囲から収穫される米を中央へと運び出していたことが想像されます。その田の地割も地形に沿って、変形しており、割も109mに必ずしもなっていません。
この二つから、郡中に近いエリアでは条理を使っていた中央の王朝のネットワークとは別のネットワークがこの地域の統治を行っていたことが想像されます。稲荷大社に所縁が深い「秦氏」は中国の秦王朝の末裔とも、朝鮮からの渡来人とも言われ、当時の大陸からの最先端の技術を日本に持ち込んだ一族だと言われております。伊予稲荷神社周辺は「稲荷」という地名が与えられており、古くは稲荷大社の荘園でした。このように地割の違い(土地の利用法の違い)から地域社会の仕組みの違いが想像されることは面白いことだと思います。

大洲の地割

大洲もまた平野が開けた有名な米どころとして古くから有名であるが、ここもまた条理のグリッドから外れている。正方形の区画が行えそうな広い平野部においても長方形を1単位として、109mとは別の寸法が基準寸法として選ばれている。

卯之町の地割

肱川の上流部にあたり、清流とおいしい米どころと知られる卯之町、ここまた比較的開けた平野部をもったエリアである。109mに近い、115mが基準寸法として採用され、他の南予の地域に比べるとグリッドが優先された条理に近い体系の地割がなされている。

宇和島の地割

宇和島は江戸時代の宇和島城・城下町の築城まで大規模な地割が行われてはいなかったと推定される。そして、城下で採用されたグリッドもまた条理とは関係のない寸法が採用されている。宇和島はもともと田んぼとは無縁で米は山間部の三間の方で行われて、海洋監視の砦と漁村としての機能の方が優先されていたことがうかがえる。

情報の器:条理と古代伊予の国より” に対して1件のコメントがあります。

  1. Good post. I learn something new and challenging on sites I stumbleupon everyday. Michell Harland Beebe

    1. colife3 より:

      Thank you for your comment ! it motivates me !

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