プロジェクト:三津浜 三世代食堂 こども食堂を通した古い商店街の結び目づくり

敷地は松山市三津。江戸時代には松山藩の藩港が置かれ、物流の中心地として栄えました。その後、港の主要機能は他へ移転していきましたが、戦前には商店街機能が整備され、1970年代あたりまでは活発に商工機能が維持されました。地域の燃料が石炭から石油へと切り替わり、スーパーマーケットの台頭、車社会化の進展とともに衰退が本格化し、人口流出に歯止めがかからず現在では松山市の中心地域のなかでも少子高齢化が進んでいる地域になります。
クライアントはこの地域で生まれ育ち、現在は改修をメインとした建設業。商店街の空き地が売りに出たのを機会に、本社機能を移転し、一部を古くからの知人が行っている子ども食堂として地域へ開き、地域貢献したい、というご要望からスタートしています。
プロジェクトをスタートして三津浜のことを調査して見えてきたのは、自然の地形を少しずつ人の手で改築を重ねていった歴史の上で、様々な時代が混然となった独自の世界とその各時代ごとにこの地に寄り集まった人々の営みが今なお引き継がれ続けることによって生じる豊かさと軋みの実態でした。そうした長所と短所に対して、偶然にも、こども食堂という用途は、その豊かさを継承しながら、軋みを正す一助となる可能性が高いように感じました。
子どもだけでなく、商店街にいる多様な世代や性格の人たちが、集い、交われる、そうした場所を目指してプロジェクトは進みました。それはクライアントが地域に対して足らないのではないか?と強く思っているところとも一致していました。

リサーチ:三津浜の歴史

中世:砂州の入り江の天然の良港として三津

古代から中世の三津浜
三津浜の地形分類(自然地形):国土地理院/地理院地図を編集

国土地理院の地理院地図で地形分類(自然地形)をみると、この地域はもともと宮前川と海との干渉によって南北に長く延びた砂州であったことがわかります。三津浜に対して、江戸時代以前から漁村集落があったとされる古三津の方は氾濫原に砂州が浮かぶかたちとなっており、古くは小さな内海をもった入り江の天然の良港が形成されていたことを想像させます。また宮前川が石手川を通じて道後平野までつながる主要ルートの一つとなっていた関係もあり、防衛上の重要な拠点として中世には三津浜の向かいの港山に山城が築かれていました。現在も三津浜に残る魚市場の起源はこの港山城の城下で行われていた米穀魚菜の市場とされており、こうした自然地形の恩恵によってその礎が築かれていたことが推定されます。

近世:藩港としての三津

三津_南海トラフ地震津波浸水想定マップ

そうした三津浜が大きく変わっていくきっかけとなるのが、松山城の築城です。古い古地図をみると鎖国の時にオランダと貿易をしていた長崎の出島のように、周囲から隔離された貿易エリアがあり、その周囲に船主や町民、船大工たちが住む町並みが形成されていたようです。南の現在の小学校のあたりには茶屋(藩主が船に乗る前に風待ちなどで泊まるところ)があり、砂州のあたりでも根本の方の水害の影響が少なそうで、井戸水が取れる場所が選ばれているのは、先人の知恵です。

砂地の大地に浸透した井戸水に支えられた港

水道が発達していなかった当時は井戸水が非常に重要でした。船旅の常備水としても綺麗な清水の方が持ちがよかったのでその点でも重宝されます。ちょうど小学校から北へ上がっていった先の商店街との交差点に現在も町井戸が残っています。川の流れと並行して砂州の下に地下水脈がゆっくりと流れていっていることが伺えます。

三津にもあった瀬戸内海の塩田 と 今も残る醤油蔵

三津浜の塩田の位置
明治末期の三津浜地区の塩田の位置
明治期の三津浜地区の製塩施設2
かん水を煮詰める釜屋:データベース『えひめの記憶』
明治期の三津浜地区の製塩施設
入浜式塩田の様子:データベース『えひめの記憶』

江戸時代の瀬戸内海といえば十州塩田と呼ばれた播磨,備前,備中,備後,安芸,周防,長門,阿波,讃岐,伊予の藩にあった塩田で、藩ごとの自給経済を基本とした当時において重要な外貨稼ぎの産品でした。瀬戸内海が塩田に向いていたのは晴れの国と言われる岡山県を筆頭にした少雨・晴天率と瀬戸内海の海面の干満差にありました。伊予=愛媛の塩田は伯方島などの島嶼部のイメージが強いですが(伯方の塩の影響でしょう)、沿岸部にはたくさんの塩田がありました。三津浜の塩田もその一つで、先ほどの茶屋の南側、そして伊予鉄道の三津駅と港山駅のあいだの低地帯は塩田だったようです。

この豊富な塩とキレイな井戸水が育んだのが醤油蔵でした。全国的に醤油蔵が増えた明治から大正にかけて、三津でも醤油蔵が増えていきました。三津にはこの小さなエリアに現在も4つの醤油蔵が存在しています。江戸時代は農村では味噌が調味料の中心でしたから、町民文化のなかで消費される文化的なものでした。そういう点でも物流の大動脈である瀬戸内海は醤油つくりには適した立地だったと言えるのでしょう。

瀬戸内海の醤油のつながり
国土地理院地理院地図を編集:瀬戸内海の醤油づくりネットワーク

近代:商店街の形成と港機能の分散から進む衰退・人口流出

明治になり松山市で最初の鉄道が松山-三津浜間で通ったことからもわかるように、三津浜は松山市のなかでも重要な地域の一つでした。しかし船舶の大型化とともに河川とつながった砂の堆積する浅い水深の港は十分に機能を果たすことが難しく、遠距離旅客機能、大型物流機能を外へ分散させていきます。1970年代まで石炭の積み下ろしが行われていたそうですが、それも石油燃料へと置き換えられていき、物流機能はほぼなくなります。この時期はスーパーマーケットの台頭の時代とも重なります。特に自家用車の普及とともに江戸時代からの古い町割りが残る三津の商店街は駐車場の確保も難しく、バス・鉄道利用者の減少、近距離旅客の近隣島しょ部の人口減少とともに商店街の衰退も深刻になっていきます。昔はアーケードがあり、映画館が複数あったと言われていますが、現在では多くがシャッターを下ろして、職住一体の多くの建物にはお年寄りの住まいが残るかたちとなり、少しずつ誰に継承されるわけでもなく空き地が増えていっています。

そうしたなか現役を続けている商店主の方、地元のUターンの方々、移住者の方、県内・市内の三津が好きな人たちと立場・かたちは違えど、三津浜を想う方々が職住一体のまちに入り込んで活動をはじめています。しかし課題はまだ多く残されています。少子高齢化・人口流出はまだ歯止めがかかっておらず、古い町並みが残る商店街は車社会への適合ができず、休日や花火大会などのイベント時こそ多くの人で賑わいますが、平日は人は疎らで、それぞれ独自の特定の曜日だけ開けている店や閉めている店も少なくありません。店舗だけでは経営が苦しいため、工場を兼ねてネット販売との複合経営に軸足をもっていく商店主も多いようです。

三津浜_人口年齢別

古い職住一体の商店街にあるこども食堂

商店街がもつ歩行者専用の街区という魅力

敷地は商店街の並びに対してT字に折れた通りにあります。ここは明治期には茶屋街であったようで、現在も小さく分割された元揚屋のような形式の建物が密集している街区が通りを挟んで立地しています。三津の商店街のなかでも特に、ショッピングモールのようなディベロッパーというプロデューサー/運営者のいる統一感のある空調の効いた商業エリアとは異なり地縁で寄り集まった良く言えば個性豊かで多様な、悪く言えば玉石混淆な、ごった煮のような地域です。

商店街のおもしろいところは歩行者が主であった時代の産物であり、その構造が今なお有効であるところにあると思います。これはどの商店街にも言えることで、特に三津のような古い街区が残っているではその傾向が顕著で、車社会に取り残されてしまったことは先に書いた通りです。東京のような都市公共交通機関の利用率の高い場所であれば各沿線の商店街のように賑わいのある場所となるのでしょうが、松山のような車社会では日常的に公共交通を利用している人数が少なく、中心部のターミナル駅が限界です。しかし見方を変えれば、車社会にとっては欠点ですが、これだけの歩行者優先もしくは歩行者専用エリアをまとまって保持しているのは、他の地域にはない魅力であり、利点の一つでもあります。そうした観点は行政側も意識しており、観光客へ対してのウォーカブルなまちづくりへの助成を行っています。

今回の計画のなかで大事なポイントの一つと感じたのが商店街のもっているこの歩行者専用という開放空間の魅力でした。

その魅力を住民目線で掘り起こし出来ないのか?というのが、計画のなかでの一つのテーマとなっていきました。

商店街という歩行者空間と、どのように向き合うか?

まず建設業の事務所スペースとこども食堂の二つの用途をすべて平屋で敷地に入れ込むには狭いため、2階建てとしてます。2階を事務所スペース、1階をこども食堂スペースとして整理し、地域に積極的に開いていけるようにしました。

南北断面図_座敷と砂の広場がつながり、様々な活動が行われる
南北断面図:1階にこども食堂、2階に事務所の断面構成。1階のこども食堂は駐車場兼用の広場が隣接し、一体利用も可能。

食堂と連続的に使える駐車場と兼用の広場

敷地は通りに対して奥に長い形状をしています。そのため事務所機能、こども食堂機能のスタッフや来客やこどもの送り迎えのための駐車・停車スペースをどこに設けるか?が通りとの関係を考える上で重要になりました。三つのパターンをまず考えました。

一つ目は通りに面して駐車・停車スペースを設けるかたちです。三津浜の商店街でも新築の住宅へ建て替えるケースが増えて、このような形式が商店街にも最近増えています。必要な駐車・停車台数を確保しながら、ストレスなく駐車をすることもできます。代わりに建物が奥に引っ込み、駐車してある車が邪魔になり、通りとの関係性も希薄になります。

二つ目は建物を長屋門のように通りに面して設けつつ、奥への出入り口を設けて、駐車スペースを奥に設けるかたちです。通りとの関係性は最大限に確保することができます。代わりに細い通路を通じて奥まで行かなければならない駐車時のストレスが高まります。

最終的に決めたのは三つ目の通りに対して直角に建物を配置するかたちでした。偶然ですが商店街側から見たとき、隣接する建物が通り側を駐車スペースとして奥に引っ込めた形の住宅が並んでいるため、長屋門のように全体を通りに面することをせずとも、しっかりとアイストップとしての役目を果たし、通りとの関係性も高めることができる関係にありました。そして奥に長い駐車スペースとすることで、常駐するスタッフは奥側に、来客のスペースは手前側にすることで、来客の駐車ストレスを軽減できます。さらに来客がない時間や商店街のイベント時には長いスペースは建物に隣接した広場として使うことが可能となります。

自由に使い分ける座敷

1階のこども食堂スペースも毎日運営されているわけではなく、週に1度になります。そのため1階はこども食堂専用の場所ではなく、家賃収入面を考慮しても、より多目的に、様々なひとへオープンにできるレンタルスペースとして考える必要がありました。現状決まっている範囲で飲食営業の店舗としての利用、こども塾の教室としての利用、イベントスペースとしての利用があり、場合によっては異なる用途が併用され、対象となる人も子どもから大人、お年寄りまで幅広い層に及んでいました。そこでそれぞれの用途に対応するために、分割して利用できるように工夫することを考えました。

イベント利用時、舞台として利用

間口、搬入・バックスペースとの関係からこども食堂のキッチンスペースは通りからみて奥側へ配置し、手前側の自由度を高めるようにします。出入口を通り側に二つ設け、中央、南北に座敷の島が三つある平面計画とし、暖簾をかけることで島と通路の分割を行い、複数の用途の同時使用を可能にしました。

暖簾は地域の漁船が掲げている大漁旗や明治期に松山で活況を呈し三津でも生産されていた伊予絣を使うことで、地域学習やそうした産業・生業を知るきっかけになればと考えています。

座敷と広場との一体感・連続感への工夫

広場に面する北側の座敷は縁側のように建物側、広場側から使え一体的に利用できないかと考えました。一体的に利用する可能性がある時期を考えたとき、春や秋などの過ごしやすいシーズンや花火大会などのイベントのある夏の可能性が高いと推定されました。そのため解決策として内外を分ける建具を雨戸と網戸として必要なときは戸袋に引込めるように考えました。これによって4間(7.280)幅を開放して座敷と広場を一体利用することを可能にしています。建具を雨戸として芯に断熱材を充填することでガラス戸よりも断熱性を高める工夫をしています。

主要構造を木造としていたので中央の座敷に余計な耐力壁が出てこないように、座敷の範囲には外周部の柱に控えを設けて構造耐力を補うかたちとしました。この構造補強方法は明治期の三津浜にあった木造の青空魚市場を参考にして考えています。

南外観_砂の広場で遊ぶ子供たち
北外観:駐車場広場から建物を見る。雨戸を開け放して、広場と一体的につながる。
洗い出しの土間
内観:自然空調期の網戸を設置した様子。南側の座敷は延焼を考慮し敷地境界から距離を取っているため、太陽光が十分に差し込み、日向ぼっこに最適。

南北の座敷はこの控えの部分と重なります。雨戸は垂直の柱に、網戸は控えの斜めの柱に取付けるかたちとして、南北の座敷は季節限定の半屋外席とすることにしました。雨戸は内外を隔てる境界になるので木製として芯に断熱補強を施しトリプルガラスの断熱サッシ以上の断熱性を担保させています。但しサッシほどの水密性を施すにはコストが掛かるため、軒を深く出すことで雨戸への雨掛かりを抑えて、水密性の低さを補うかたちにしています。深い軒は内部への採光を遮るので、軒天は白として反射効率を高め、基材をケイカル板として古い街区の木造密集地での防火性を担保するかたちとしています。木製雨戸は軽量化のため板厚をあまり大きくすることが難しかったため延焼の恐れのある範囲外になるように南側にも庭を設けるかたちとしています。

砂地がつくった三津浜の文化

水害から町を守ってきた砂

古くは砂州の上で行われた城下の青空市場に起源がある三津浜はこの砂によって守られてきた町でもありました。南海トラフの津波浸水シミュレーションのハザードマップを確認するとその様子がわかります。大きく突き出した砂州のエリアは浸水0mもしくは30㎝程度の軽微な浸水で済んでおり、より内陸側の宮前川の氾濫原であった古三津の元田園地帯や塩田地帯の方が浸水被害が大きくなる予想となっています。古三津の地域も古い集落の地域あたりまでくると被害は小さくなる予想で、このあたりも自然地形は砂州・砂丘です。

敷地はちょうど砂州と埋立地の際のあたりに立地しているため30㎝ほどの浸水が予想されてましたので、盛土で建物部分をかさ上げし、駐車場は奥に向かって緩やかなスロープとすることで浸水に対応するかたちとしています。盛土には真砂土を使用することで、駐車場・広場は砂の広場として整えることを考えています。

急峻な日本の地形では河川によって山から供給される土砂・岩石が時間をかけて細かくなることで大量の砂が供給されています。日本の数少ない自給資源の一つが砂であり、建築でも木造住宅のコンクリート基礎をはじめRC造以外でもモルタルやガラスなど、砂が使われる場面は多く、目に見えないところで社会を支えています。今後のアジアやアフリカの人口増加に対して供給されるであろう近代的なコンクリート建造物によって世界で砂戦争が起こるという話しもあり、水と同様に日本にいるとその感覚が麻痺する素材です。愛媛では以前は海砂を採掘していましたが、環境配慮と建材としての品質との関係で山砂や県外から供給される砂に頼るようになっています。

こうした砂との関係に触れてもらうために座敷スペースのコンクリート土間・1階の耐力壁は花崗岩の砕石による洗い出し仕上げとして砂の広場と建物との視覚的連続性を高め、一体感を出しています。

三津浜のいくつもの時間の堆積した町並み

三津浜_江戸期の建物
2階のない江戸期の建物(河野家住宅)
明治大正期
モルタル塗りの防火仕様が広がる大正・昭和の建物
空き地が増え、壁面がトタン補修されている
三津浜_倉庫・工場
商店街の外側に広がる中小の工場・倉庫群

松山市の中心部は戦時の空襲によって焼野原となり、戦後になって古い骨格も維持しつつも区画整理されて生まれ変わっていますが、道後や三津浜は空襲を逃れたため古い街区が現在まで残っています。そのため江戸や明治・大正の建物もあります。大正10年までは松山電気軌道という会社がフェリー乗り場側の江ノ口まで路面電車を走らせていたので(三津と道後を繋いでいました)、商いの中心も今よりも奥側にありました。この地域は江戸時代の町民の居住地であったので歴史はその頃からで、古い建物も奥側に集中しています。その路面電車が伊予鉄道に吸収合併されることで、フェリー側の駅がなくなり、現在の伊予鉄道の三津駅がフェリーや市場への玄関口となることで、現在の商店街の骨格が出来上がっていきます。戦後(1948/昭和23年)に地区の商店を統合し三津浜商店連合会が組織され、現在の商店街が本格的に整備されていきました(データベース『えひめの記憶』)。こうした戦後の商店街振興は国政策(補助金)とも関係しており、全国的にアーケードなどのハード面の整備が進んだのはこの時期です。振興政策とともに進められたのが防火対策でした。昭和の商店街としてイメージされるモルタル塗りの木造建築は、闇市の木造密集建築群に対しての不燃化からはじまります。1952年の耐火建築促進法、1961年の防災建築街区造成法と都市の不燃化を目指した政策(補助金投入)が行われ、都市の防火建築帯(延焼を食い止める防火帯)として商店街が選ばれたのでした(商店街の1950年代の地域不燃化)。現在の三津浜商店街の雰囲気をかたちづくっているのは、こうした戦後の防火対策で生まれてきたモルタル塗りの木造建築群で、DIYで継ぎ足したような波板の小屋や物干し場が昭和な香りが漂う町並みをつくっています。埋立ての拡張が本格化したのもこの頃で中小の工場や倉庫群が古い町並みの外側に広がりました。そうした1950年代60年代に生まれた建物も60-70年の月日が過ぎ去り、店主も高齢化をして、産業も衰退し倉庫や工場も空きが目立ち、少しずつ空き地が増え、ここでも応急処置的に波板で隣り合っていた壁面を抑えた、古く新しい空白の空間が出現しているところです。

通り側の立面
東立面図
南外観_旧青空魚市を引き継ぐ木造架構の子ども食堂と戦後の防火建築帯の考えを踏襲した事務所
南立面図
裏側の立面
西立面図

建物の外観は、重要伝統的建造物群保存地区や大都市のオフィス街のような統一感のあるものではなく、そうした新旧の要素が混じり合った三津浜のごった煮の町並みに合った、馴染んだ、もしくは表した、外観にしたいと考えました。1階のこども食堂は深い軒をもち、明治期の青空市場のように木架構を前面に出した設えにする一方で、2階は戦後以降の防火建築帯としての設えを取り入れるため金属波板の大壁構造としています。これは2階の方が延焼のおそれのある範囲が広いため、1階以上に防火性能を高めるためでもあります。モルタル塗りで下地に使われる窯業系サイディングよりも廃棄時のリサイクル率が高い点が決め手となりました。

多様な人が集う三津浜

町の歴史が示すように、三津浜には年代・職業・生い立ちが多様な人たちが混在した都市的な雰囲気があります。しかし時代の経過とともに変わった広域を含めた社会構造の変化から取り残され続けているため、そうした特性を活かし切れず、空き地になり、住宅に建て替えられ、周囲と変わらない住宅地へと少しずつ埋没していっているように感じます。

これまで三津浜が持っていた強い経済誘因要素であった主要港としての立場であったり、物流機能といったものは、現在の社会構造上、再び取り戻すことは難しいものです。代替となる軸が求められています。ワークライフバランスを大事にした職住一体の暮らし、ネット販売を主軸にした店舗や副業としての店舗などのこれまでの商店街にはない形式の店舗経営のスタイルの登場は、この場所が商業を行うためだけではない場所として生まれ変わりつつあることを示唆しているようです。

こども食堂を主軸としたレンタルスペースは、そうした新しい取り組みのスタートアップを支えるための場所でもあります。こども食堂が地域の子供たちだけでなく、その両親や、お年寄りたちにも開かれていくことで、これまで商店街の店舗が担っていた地域情報の吸い上げ効果を再定着させることにもつながり、そうした情報がスタートアップを目指す人たちの大事な戦略上の情報源となっていきます。1階の三世代食堂はそうした活動の結び目=ハブとしての役割を担います。

2階の事務所機能は建設業を主体としていますがその中に不動産事業、Web・アプリ開発事業と抱えています。「将来の展望が見えていない空き家を見つけ取引をする」「空き家を診断し新しい町の顔として作り直す」「店舗・地域に足らないサービスを構築する」ことを一貫して行える地域へ包括的にアプローチするポテンシャルを持っています。1階で実験した成果を町へと展開していきます。

三世代食堂を通して地域に正の循環が生まれることを目指しています。

夏の花火大会の風景
1三津浜三世代食堂/設計概要 23Dモデル・プレゼンボード

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