7000万年の時間に触れる東温市山之内のものがたり/ 旧酒樽村プロジェクトリサーチ
建築の設計をはじめるにはまず最初にその建築が立つ敷地のリサーチ(調査)を行います。その地域の自然特性や歴史、経済特性や社会特性などを洗い出した上で、クライアント(建築主)にとって最適な提案がなにかを見極めていきます。今回は愛媛県東温市の山之内地区の旧酒樽村で行った調査内容をまとめてみました。プロジェクトの場所は松山中心部から車で45分程度と都市近郊にありながら道後平野を流れる重信川の源流域の一つで自然あふれる環境です。近年ではその立地特性と自然豊かな環境を求めて、キャンプやサイクリングを目的に訪れる方も多いスポットです。

山之内の歴史
7000万年前の恐竜の時代の波の化石から

山之内の歴史は化石時代からはじまります。旧酒樽村からさらに西条側へ抜ける道を上っていくと、漣痕化石と呼ばれる約7000万年前の波の痕跡が岩肌に刻まれています。木々が生い茂って道路からはほとんど、その様子を見ることができないですが、こんな山奥が海だったと考えると驚きます。約7000万年前は地質時代では白亜紀(約1億4,500万年前から6,600万年前)に当たり、白亜紀の末期は3/4の生物が絶滅した大量絶滅が発生した時代で恐竜が衰退して鳥類が残っていてく頃、哺乳類の母乳と子育ての生存戦略が過酷な環境で有利に働き、私たちヒトも属する霊長類がネズミの仲間から分岐して原猿類(キツネザルなど)の祖先へと分化した頃に相当します。
日本はまだ大陸の一部で、まだ日本海すら存在しなかった時代なので、このあたりが海岸に属する場所だったことが伺えます。3000年前~2000年前から大陸からの分裂をはじめて日本海の原型で生まれはじめて、火山で陸が広がったり、海が広がったり、海面が上昇したり低下したりします。すぐ近くの石鎚山の地質が第三紀中新世(約2300万年前~500万年前)に属していて1500万年前までは火山活動をおこなっていました。山之内の白亜紀の地質がいかに古いかがわかります。

縄文時代と道後平野 と 海面の上昇(縄文海進)
人類が誕生するのが500年前、石鎚山が今のようなそそり立つ岩稜の山になるのが2万年前、日本列島が今のようなかたちになるのが約1万年前、縄文時代に大陸から日本列島のある領域へ人類がやっと辿り着きます。久万高原の上黒岩岩陰遺跡が約1万4500年前から約1万年ほど人が住み続けたと推定されています。縄文初期に久万高原のような立地が定住地として選ばれた理由の一つとして洞穴・岩陰ができやすい地質(石灰岩地質)を含む環境であったことが推定されています。松山市と砥部町の境にある平野部に隣接する河岸段丘上にある土壇原Ⅱ縄文遺跡も縄文初期のもので、竪穴式住居跡が見つかっており、洞穴・岩陰以外の環境での定住跡が道後平野に確認されています。土壇原の遺跡は弥生・古墳時代の出土品もあり、長らくこの場所が集落として拠点となっていたことを物語っています。
縄文海進と呼ばれる氷河期が終わった後の温暖化(現在のような人類の影響ではない温暖化)によって海面上昇が起こります。片方で氷河や極地の氷が融ける影響での海面の上昇ともう一方で降雨量の増加にともなう土砂の堆積速度の上昇があり、沈降や隆起などの地質的な変化も加わり、地域ごとで影響は異なったようです。

栃木、群馬のすぐ手前まで海面が入り込んでいた。茨城の平野部はほとんど海。

京都のあたりまで海面が上昇し、奈良には奈良湖が形成されていた。

岡山平野はほぼ海に浸かり、児島半島は島だった。
道後平野では全体として海面が4-5mほど高くなっていました(松山空港周辺から松前から伊予市にかけては56号線のあたりまで)。愛媛をはじめ四国は道後平野のように平野部があまり大きくなく地表面の傾斜が平野部にしてはきついため、関東や大阪や岡山のように奥の方まで海面が浸入することはなかったようです。温暖化による降雨の増加と急峻な四国の地形が土砂の堆積を促し、低湿地帯から扇状地性の堆積地へと平野部を変えていった、海面の変化に対しての地形と環境の影響が見て取れます。

水色までの濃い二つの青が他の地域の海進の標高から推定される範囲
東温市はその狭い範囲のなかに地質的に変化が富んでおり、平野部にも中央構造線の断層も含みます。この東温市の平野部から松前町へ向けての筋は南海トラフや伊予灘地震などの大型地震の際に震度が高くなる傾向があります(特に海側の松山市や松前町の重信川河口域、このあたりは地盤も緩いので特に注意を)。建築予定や土地選びの際には頭に入れて進めるのをお勧めします。
石器や銅器から見えてくる広域の交流の姿
縄文時代や弥生時代の石器や土器や銅鐸・銅剣などをみると、愛媛が九州や山口、そして岡山や近畿(中央)の影響をこの時代から受けていることがわかります。縄文時代には既に九州の石器(黒曜石など)が豊後水道を渡って愛媛に入ってきたようです。こうした周辺諸国との関係と地形の制約から弥生時代後期の土器の特徴で既に中央から影響が強い東予、北九州・山口・広島からの影響を受けつつ独自性を持つ中予、東九州から影響を強く受け独自の文化を育む南予と、地域間の文化的違いが既に芽生えていたようです。大陸からの文化の玄関口であった九州側との強い結びつきは縄文晩期から弥生時代前期の人口灌漑(水路)を必要としない天然の地形を利用した稲作の普及とも関連し、段丘上から低湿地帯への集落の進出が加速していきます。
交通の要衝・道後平野の玄関口だった古代の山之内
現在では山之内を経由して松山と西条・新居浜とを行き来することはほとんどないと思いますが、江戸時代に桜三里が開通するまでは主要な街道となっていました。現在は松山市が県庁所在地なので感覚がズレますが、古代では道前・道後と松山側が後ろになっている名前の通り、京都へ近い方が表に属していましたので、この時代の伊予の政治の中心は今治側にあり、道後平野は穀倉地帯としての役割を担っていました。そのため、瀬戸内海側から道後平野への山之内や東温市の地域は玄関口の一つ、という立場がありました。古代の東温市を考えるときにこの感覚は大事なのではないかと思います。「昔は山之内には西条側だけでなく今治側へと抜ける道(車ではなく徒歩でのルート)もあった」とも地域の人が話をしていました。北にある東三方ヶ森は重信川の水源であると同時に、今治の主要河川である蒼社川や頓田川の水源の一つになっています。

石手寺よりも古くからお寺が建立されていた東温市・山之内
そうした痕跡の一つは山奥にあるお寺の福見寺という創建698年(奈良時代の前の飛鳥時代)の古刹です。 石手寺の創建が728年と言われているのでそれよりも早いです。東温市にはほかにも山之内の南の北方にある医王寺も創建702年と石手寺よりも古いお寺です。川上神社の裏にある川上神社古墳は福見寺と同じ7世紀、重信川を挟んで対岸の樋口の三嶋神社(当初は岩伽羅山上に鎮座していたとされている)も創建728年で、このあたりが文化的にも重要な拠点であったことが伺えます。
日本全体の歴史の姿が、古刹の建立時期から見えてくる 古墳から仏教寺院へ
このあたりは弥生中期には集落が形成され、水が溜まる低湿地帯ではなく扇状地ですから、この頃から稲作のための灌漑施設が整えられていっていたようです。そうした集約的な労働力が組織され、6世紀(古墳時代後期)には重信川を挟んでそれぞれにたくさんの古墳が築造されています。こうした地質・治水の安定した暮らしの積み重ねが文化を育んだわけです。こうした特徴は中央構造線を共有する徳島や、和歌山、そして伊勢でも見られます。
道後平野ははじめ伊予市側が中央・大陸との接触がはかられ発展し、次第にその中心を北へずらして久米などの平野の中央部へと移します。朝鮮への出兵(白村江の戦い/663年)に向けて中央との結びつきが強まりますが、その失敗、中央の政策の転換、伊予の国府は今治に置かれることで政治の中心性を失っていきます(大宝令制定/701年)。
大化の改新(645年)以後は中央から薄葬令により古墳造営を禁止(646年)されたこともあり、古墳から寺院建設へと権力者の文化事業の方向性が全国的に変わっていき、ちょうどそのタイミングで朝鮮への出兵(663年)があったことは伊予に仏教の輸入の絶好の機会となっていました(道後平野は法隆寺(創建607年)の荘園があり、仏教を通した様々な文化・技術が輸入されたと考えられる)。7世紀には平野部を中心に古代寺院が数多く建立されました。朝鮮への出兵の原因は中国の唐(618-907年)の朝鮮半島への進出にありました。東はその唐と西はイスラム帝国がアフリカ・ヨーロッパまでのシルクロードをつなぐ開かれたグローバルな文化が東アジアに広く影響を与えていた時代でした。
国の史跡名勝に指定されている久米の来住廃寺をはじめ、上市の内代廃寺、祝谷の湯之町廃寺、朝生田廃寺、中村町の中村廃寺、高井町の千軒廃寺、上野町の上野廃寺などがある。福見寺(創建698年)や医王寺(創建702年)がこの場所にあること、それはそうした古代の時代の様子を今に伝えてくれます。

防御拠点としての山城が築かれた中世の山之内
中世になると地域内・地域間での領土争いが盛んになっていきます。人の往来の要衝であった山之内は敵軍の進入の重要な要衝にもなってきます。そうした時代に山之内の街道沿いの山頂には山城が築かれていきました。豊臣秀吉による四国平定(1585年)まで、こうした山城が重要な役割を果たしました。
瀬戸内海側からの侵入に睨みを利かせる山之内の山城たち
樋口の三嶋神社が岩伽羅山から現在の場所へ移られたのも、山頂に岩伽羅城(1185年)を築城する時です、これは河野氏が源頼朝・源氏の動きに呼応して平家への反乱を伊予の国から起こしていた時期に重なります。当時は瀬戸内海側の東予地域は平家家人の新居氏が支配していましたので、その防衛・睨みの役割があったのだと考えられます。(参考:城郭放浪記、このサイトは全国の山城のことが詳しいのでおすすめです)
京の動乱による河野一族の盛衰と東温市の山城
また河野氏はこの後、伊予で支配を広げますが承久の乱(1221年)で京方に味方したことで鎌倉幕府方によって滅ぼされて、母方が幕府と縁があり幕府方に味方した通久のみを残して一度没落しています。
承久の乱後は全国的に古い豪族たちの支配から幕府の守護地頭による支配へと切り替わっていきます。河野氏一族はその後、元寇(1274年,1281年)の戦いに四国から参戦(ほとんどは九州の武士が参戦していた)して活躍することで、所領を回復させます。
後醍醐天皇の倒幕運動によって鎌倉幕府が倒壊後(1333年)は、幕府方と京方のあいだでの内乱期に入り、伊予の国も巻き込まれていきます。幕府方の河野氏(道久)が北条から道後に湯築城を築造(1335年頃)して拠点を移し活動をはじめるのはこのタイミングで、京方について京・鎌倉へ武士たちが出払っていた隙をついて領土を拡大させていきます。
足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権へ反旗を翻した建武の乱では河野氏は尊氏方について参戦し、室町幕府が成立すると、伊予の守護職に任じられます。その後、幕府と近い関係のあり阿波・讃岐を拠点としていた細川氏が伊予守護職に任じられ、細川氏の支配が強まりますが、三代将軍義満の時代には補佐役として京都での仕事が多くなり、伊予を離れ、最終的には幕府の仲介を得て、河野氏の道後平野の守護職・領地の回復に至ります(1379・1380年、守護職に関しては1365年に南朝から任命を受けたものを改めて北朝から認められたかたち)。
伊予の国の守護職を河野氏が任命されていましたが、実際には中予を河野氏、東予(西条以東)を細川氏、南予を公家衆の西園寺氏(宇和)と幕府方の宇都宮氏(喜多郡)と青蓮院門跡領御荘(愛南町御荘)の御荘氏というように、地域ごとに分割されていました。西園寺氏と宇都宮氏は鎌倉期からこの地を支配して、それは戦国期に引き継がれ、江戸時代、そして現在の愛媛県内の地域間の違いにまで繋がっているように思います(参考:データベース『えひめの記憶』愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行))。
東温市の山城たちは、このような動乱の時代に築造されていったのです。

秀吉の四国平定、重信川の治水工事 と 道後平野の新田開発
四国平定(1585年)の際は伊予は東予から攻められて、海側をぐるっと新居浜、西条、小松、今治、北条と進み、道後平野へと進軍してきたので、東温市側の山城は本格的に活躍は見られませんでした。16世紀の築造の山城が多数みられるところからも当時の緊張感を感じられます。海側が選ばれた理由は、平定軍がこのような進路を取ったのも大軍が通るには不適な隘路と山城の組合せを避けたかたちとも言えるのかもしれません。東温市の山城を守っていた城主たちは湯築城へ集められて、交戦しましたが、降伏勧告を受けて申し入れ、落城します。こうして河野氏の支配も終わり、道後平野も秀吉の統一政権の支配下に入ります。
重信川の名前の由来になった足立重信による改修工事が着手されます。下流の松前町や垣生のあたりでは氾濫の多かったこの川を、霞堤や鎌投という水制などの工法を用い、堤防を強化して、巧みに氾濫を食い止めることで、周辺に農民たちは新田を増すことができました。この重信の功績を称え、伊予川を重信川と呼ぶようになったと言われています。
愛媛県史(近世編)によると、平安時代から室町時代までのあいだの500年間で日本全国で約84,000haの増加(平均170ha/年)だったのに対して、道後平野の重信川の改修だけで約300haという説があるくらい、戦国末期から江戸時代前期に、全国で急速な新田開発が進みました。重信川はそうした全国の動向を象徴する一つの例となっています。
街道が整備され宿場が栄え、山村では米作りのための雨乞いが盛んに行われた近世
江戸時代になると桜三里というバイパスが開通します。地域の立場が街道/要衝の役目を終えて山村へと変わっていきます。江戸時代に桜三里が選ばれた理由は、軍隊を引き連れて行くには適していなくても飛脚のような単独での走行のようなケースには適していたということでしょうか。googlemapで比較するとわかりますが、桜三里の方が道が険しい印象がありますが、標高差も小さく、距離も短いことがわかります。7000万年前の白亜紀に隆起した山之内側に対して、桜三里は日本の外帯と内帯がぶつかったまさに際を通り抜けるようになっており、西側は山之内と同じ和泉層群に対して、東側は石鎚山に属する三波川変成帯になります。外帯と内帯がぶつかりあっているところにあり、西条市側に下ったところには湯谷口露頭(地層や岩石が露出しているところ)と呼ばれる中央構造線の露頭が県の天然記念物に指定されています。同じように外帯と内帯がぶつかりあっているところの露頭に砥部の国の天然記念物「砥部衝上断層」があります。どちらも迫力ある岩石と川の流れが素晴らしい造形をつくりだしています。桜三里が交通の要衝であるということは震災・土砂水害をはじめとした防災の観点からすると心配しかない感じですが、当時は物流は海運がメインでしたからあまり心配はなかったのかもしれません。現在は松山道がトンネルを貫通させて通ることで、災害時の重要なバイパスの役目を担っています。
桜三里の入口として発達していく川内宿
桜三里が開通したことでその道後平野側からの入口である川内が宿場として栄え始めます。古墳時代から地域の中心的存在であり、利水・治水の面からも適地であったのだと想像できます。重信川を渡るための渡し船が横河原で重要性が増したため、こちらの集落も発達をはじめます。ただ横河原は利水面では川のすぐ近くなのですが、重信川が山之内からの土砂が堆積した扇状地となっており、川の水が地下に潜って、水が豊かな地域ではありませんでした。そのため現在栄えている横河原ではなく当時の地の利の高かった川内が宿場として選ばれたのではないかと思います。
川内の旧宿場町の雰囲気は国道11号から県道334号に入り、さらに古墳をご神体とする川上神社が面する道に入ると感じることができます。古い街道筋の集落によくあるように時代とともに外側へ外側へ新しい層が広がっていき、車が行き交う国道の内側に、北側の段丘からの水が用水路を流れ、古い民家も立ち並び、徒歩が基本の時代のゆっくりとした時間が流れています。
道後平野の水源地に発達する雨乞い場
お米の収量が重要な経済的指標であり、利水技術に対して人口が増加していった江戸時代には、雨量は大事な資源でした。道後平野に水を供給する重信川の水源地となる河之内や山之内では雨乞いの神事が盛んに行われています。
河之内では雨滝と名付けられた重信川沿いの滝が松山藩の公式の雨乞いの祈祷所として発達しました。もともと江戸時代より以前、河野一族の山城が築かれた際に雨滝のあたりに雨滝三嶋神社を勧請しており古くから神聖な場として大事にされていたことが伺えます。現在では雨滝三嶋神社は雨滝から道路のレベルまで上がった惣河内神社に合祀されています。
雨乞いの祈祷はもう一方の水源地である山之内側でも盛んに行われていました。こちらでも江戸時代より以前から山城が築かれた麓地区で伝承されている夏のお盆の行われる「麓の楽頭」の名称で県指定文化財にもなっている念仏踊りは旱ばつ時には雨乞い踊りとしても行われていました。麓地区にある五十八社大明神の雨乞い面は東温市の指定文化財になっています。その他にも雨滝の名を冠する雨滝龍神社の金幣も雨乞い神事に用いられていた神具として東温市の指定文化財になっています。別の谷筋の大野部落でも雨乞いが行われていたとされており、山之内全体で雨乞いの風習があったようです。
水源林として保護されていたのか雨滝龍神社の境内の社叢は市の指定文化財になるほどウラジロガシを中心とした照葉樹林の豊かな原生林として残っています。神社の近くには樹齢300年ほどのシラカシもあり、古くから大事にされてきたことが伺えます。これ以外にも向かいの烏ヶ嶽城跡や稲荷五社神社社叢の照葉樹林の原生林があり、道後平野の水と山林の大事な関係を知ることができます。東三方ヶ森を挟んで南の山之内、北の玉川町のそれぞれに木地という木工職人である木地師と所縁のありそうな地名も残っています。山と木と人の古くからのつながりがあった場所であることを実感します。

明治に入り、町村制が施行されて重信町のもとになった北吉井村、南吉井村、拝志村、川内町のもとになった川上村、三内村、桜樹村が生まれます。戦後に重信町、川内町となり、平成に合併し現在の東温市にまとまります。明治32年(1899年)には横河原まで伊予鉄道が延伸、戦後のモータリゼーションの発展とともに松山市の郊外としての特色を強めていきました。
戦後の木材需要から一転、オイルショックから自然とのふれあいを目指した酒樽村
山之内の奥地に今は営業を止めている酒樽村という施設があります。松山や東温の40代以上の方々に聞くと、小学校のころに学校の課外授業で行ったとか、吹奏楽部の合宿で使ったとか、社会人になって同僚と休日に行ったとか、意外と記憶に残っている方が多く、名前の由来となっている酒樽を模した空間で食事をしたり出来るようになっていて、川遊びをしたり、釣りをしたり、BQQをしたりして楽しんでいた様子です。
酒樽村が誕生する以前の、戦後すぐは日本全国の他の山間部の地域と似て戦後復興の林業需要がここまで伸びてきていたようです。林業従事者向けの民宿があったほど、人の出入りがあり、賑わいを見せていたそうですが、1960年代に木材が輸入材へと転換が図られていくなかで、そうした賑わいも陰りを見せていきます。伐採された山林には次の活気へ向けて植林されたまま放置された木々が今も植えられたままとなっています。
そうした中、自然と触れ合う場をつくりたいという思いから、酒樽村の土地を購入し、それまでの経験を活かして重機を使って一人で山を切り開いていったようです。最初に現在の広場の対岸にあるコテージ群の建設にはじまり、資料が残っていないので具体的にどのような工程で行われたのかはわからないですが、古い航空写真を見る限り、1970年代から1980年代あたりに小さな山と棚田であった現在の広場の敷地の開拓をされていったようです。
酒樽村に行くと驚くのはこれだけ街に近い立地にも関わらず感じられる水のきれいさです。それもそのはず、重信川の源流域ですから、ここより奥には民家もない、奥山です。鉄骨建屋の前には釣り堀で使われていたプールがあり、今も水が満たされています。この水は対岸の農家さんの棚田の水としても使われており(川を水路が横断しているので、ぜひ探してみてください)、この関係から推定すると、山だった頃の棚田の水を使っているのかもしれません。この水は北側の阿歌古渓谷の山水を取水して引いています。

岩山を切り開いてできた酒樽村
敷地を訪れたことがある方なら、周囲を山に囲まれた広い広場のある場所、という印象が強いのではないかと思いますが、実は現在見る広場は山を削った跡で、昔はこうした広場はなかったようです。
酒樽村へ行く途中にある山砂や砕石の採石場があります。地質図を見ると、酒樽村のあたりと採石場のあたりは似た花崗岩の岩盤であることがわかります。コンクリートなどの原料となる砂や砕石は日々、日本中の山から都市へと運び込まれています。こうした砂や砕石もまた石油などと同じように非持続可能資源であり、どのような付き合い方をしていくのか?考えなければいけない対象の一つです。
現在の広場の敷地は北側からと東側からの二つの川の合流地点にあり、東側の川は敷地にぶつかったあと大きく南に折れて、敷地外周をなぞるように流れています。これは敷地が硬い岩盤のかたまりで真っすぐに抜けることが出来なかったことを示しています。広場に立つと北側に大きな岩肌が見え、南には鉄骨の建屋がへばりつく様に立っている横にも岩山が見えます。航空写真と見比べると、この二つが昔のまだ開拓前の山だった頃の敷地の痕跡で、現在の広場の部分はすべて山だったことが推定されます。これだけの山を、自然との触れ合いの場をつくりだすために、一人の人間が重機でコツコツと開拓をしていった、そんな時代がこの場所にはあったということです。


この岩盤から得られた砂や砕石が、愛媛の農山村に財をもたらした明治期のみかん山や戦後復興の木材のように、高度成長期の埋立て需要や都市のコンクリート需要によって、酒樽村が生まれる経済的資源になったのか?否か?はわかりませんが、こうして生まれた広場を中心に、さまざまな施設が展開し、重信川の源流部が人を迎い入れる場所へと再び変化していきました。