雨の少ない愛媛と香川の水の知恵とランドスケープデザイン

雨の少なさが生む麦の文化

うどん
讃岐うどん:DELISH KITCHEN
小麦「さぬきの夢」
麦:讃岐の食

香川といえば、讃岐うどん、うどん県と全国的に有名です。そして、うどんの原料は小麦。「日本めん食文化の一三〇〇年、著:奥村彪生」によると、日本に小麦が入ってきたのは縄文時代中期以後とされています。大昔は都のあった奈良や京都などの関西が小麦の産地の中心でした。この頃に食べられていたのは手延べそうめんで、奈良県三輪のそうめんは今でも有名です。鎌倉時代になると中国から庖丁切りのめんが伝わってきます。当時の中国は技術発展で人口増加が著しく、より効率的に生産・調理可能な手法として「庖丁切りのめん」が発達して、禅などの鎌倉仏教などともに伝来し、これが冷や麦やうどん、そばへと発展・分化していきます。そうした歴史的経緯もあり、うどんもまた新仏教が定着している都市部を中心に酒の肴として食されていました。

つけ汁に薬味は水がキレイな日本独自の食べ方

こうした傾向が変わってきたのが江戸時代で、中期になると水田稲作に不利な水利の悪い地域が小麦の産地となっていきます。讃岐や伊予が小麦の産地として確立されていくのがこの頃です。釜揚げうどんのように茹でたうどんを桶に入れて、それをつけ汁に薬味を合わせて食べていたようです。こうした食べ方は中国の「庖丁切りのめん」にはなかったようで、日本で独自に発達したもので、そうめんの食べ方を真似たものと考えられています。こうした食文化が小麦の産地である讃岐で金毘羅さんという多くの参詣者で溢れる門前町で発達していきます。

江戸はつけ汁式、大阪はかけ汁式 違いは水のキレイさ

江戸ではつけ汁式のうどんが、大阪ではかけ汁式のうどんが発達していきます。江戸でつけ汁式が発達した理由は、そばが人気であったこと、そして谷戸地形からの冷たいキレイな清水が入手しやすかったことが関連していると言われます。それに対して大阪は河口の三角州に広がる街であるため清水に乏しく、衛生上の観点から、熱いかけ汁で食していたと考えられます。麺類は水との関りが深い食品です。

農村で食べられた味噌煮込みうどん

都市部から農山村へ石臼が普及するのも江戸中期頃と言われています。これによって百姓の労働食としてもうどんが浸透していきます。この頃は醤油は農山村では高級品でしたので味噌煮込みうどんのようなかたちのうどんが農山村では主流だったようです。うどん以外の粉食(そば、団子、饅頭、煎餅など)が農山村に普及するのも、このタイミングだったようです。

ため池がもたらすタンパク源 どじょう鍋

奥村彪生さんが本の中で、讃岐のうどんとして大きく取り上げているうどんの一つに、綾南町の「どじょう煮込みうどん」があります。どじょうはため池・ため池とため池、ため池と田んぼをつなぐ用水路に生息する、田んぼ・米づくりと密接に結びついた魚です。(先日、松山でも近所の田んぼの用水路で子供がどじょうを採って喜んでいました。)どじょうは川魚でありながら、臭みがないため、全国の水田農山村地帯で食べられていただけでなく、中国・韓国・ベトナムといった東アジアの食文化でもあるのです。どじょうを入れたうどんは関東、相模、東海、信州、中京でも見られます。やはり讃岐の綾南町と似て、内陸にあり、水資源が豊富ではない環境で大切な水を大事に使う、麦の文化と米の文化が重なりあった場所でした。

少雨の気候が育んだ麦味噌

愛媛県、広島県、山口県、の瀬戸内麦味噌、そして九州一帯の九州麦味噌と、通常の米麹ではなく、麹に麦をつかった独特の風味の味噌が、今でも調理に使われています。特に愛媛県の麦味噌は麦の使用する割合が高いようで、より甘い味噌に仕上がっています。個人的感覚では南予の方が麦味噌を好んで使っている割合が高いように感じます。

家庭でつくられていた田舎みそ、麦味噌

米でなくて、麦を利用している理由は、米の裏作で麦がたくさん作られる地域、焼畑農業で麦がたくさん作られる地域だったからだと言われています。春に県外から帰ってくると黄金色に輝く麦畑に目が奪われます。現在ではスーパーなどで味噌を購入するのが一般的だと思いますが、昔は「買った味噌を食べるのは家(嫁)の恥」とか「味噌作りができなければ一人前の嫁だとはいえない。」、また「味噌を作る女を嫁にもらえ。」ということが言われていたようですので(データベース『えひめの記憶』より)、多くの家庭で独自の麦味噌がつくられていたことを思い浮かべると、それだけ愛媛では麦は身近な存在である、ということを感じます。

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