和室について / 自然の「観賞」と「観照」  Japanese Room

「和室」という言葉はいつ生まれたのか?なぜ生まれたのか?

「和室」という言葉は、その言葉の響きから連想出来るように洋室という西洋のスタイルが明治時代に入ってきてから生まれたものです。「和室学」という本の中で大分大学の鈴木義弘教授が明らかにしているところによると、具体的に「和室」という言葉が現れ始めたのは昭和に入ってからだと言われます。しかしそれでも普及したというにはほど遠く、世間に「和室」という言葉が定着しはじめたのは、どうも戦後のライフスタイルの欧米化によってテーブルやベッドが生活のなかに取り込まれて、生活の中心から畳がなくなって以降であるようです。それまではいくつもの和室がくっついて家を構成していましたから、和室と室名を表記してもなんのことだかわかりません。居室、居間であったり、茶の間、食事室などと用途が関わった室名をされています。

明治大正期の中廊下型の住宅

設計をやる感覚、それをお施主様へ説明する感覚で考えると、当たり前のことのように思えますが、「和室」という言葉の存在自体が自分たちの生活から「和」が外部化されていることを示すようで寂しくも思います。

「和室」の歴史

和室という言葉が実はものすごく最近生まれた言葉であることを確認した上で、では現在「和室」と呼ばれている空間はいつ頃から日本に生まれていたのか?を探っていきたいと思います。

自由な場としての座敷

一般に「和室」の原型と考えられているのは「書院造り」という中世鎌倉時代の武士の住宅様式だと言われます。最近の学校教育の歴史では変わってきているのかもしれないですが、中世や近世というと貴族社会や封建制で身分がはっきり分断されていて閉鎖的な印象を持ちますが中世歴史学者の網野善彦さんの本などを読んでいると、必ずしもそうではない「ケとハレ」のような分断されている日常の世界と同時に自由で平等な非日常の世界が共存していたことが見えてきます。そしてこの「書院」とは非日常の「ハレ」の舞台としての機能も果たします。

この書院の基本要素の一つである「座敷」という言葉があります。温泉地などを「奥座敷」と言ったりしますが、これはまだ生活の中心が畳だった頃の応接の場である客間=表座敷に対して奥にあるプライベートな空間を「奥座敷」と呼んでいたことに起因しています。現在では和室というと畳が敷き詰められている様子をイメージしますが、中世の和室は寝殿造りから継承している板間があって、人が座るところに敷物=畳を敷くというスタイルでした。大河ドラマなどで板間がメインとなっているのは、そのような時代背景を反映しているものです。この敷物を敷いて座って集まる場が座敷の起源になります。

ここまでですと敷いて座って集まれば座敷だ、となるのですが、中世という時代がここで重要な意味を持ってきます。寝殿造りによる貴族社会においては、身分の違いを建築においても示すことが行われていました。現代で言うと富裕層のゲーテッドコミュニティ(gated community)のようなかたちでセキュリティゾーンが違うという感じになるのだと思うのですが、身分によって入れる場所、座れる場所が異なりました。低い身分のものは中にすら入れず、入れたとしても外の縁側まで、といった感じで建築によって序列がはっきりしていました。江戸時代の身分社会でも見られますが、床の高さが違うとか、畳の種類が違うとか、色々なところで差をつけて身分を表していました。これは寺院建築にも同じような発想が見られ内陣と外陣といって仏のいる場所と参拝者のいる場所が別に分けられるスタイルをとっています。

ところがこれが武家が台頭して武家社会が鎌倉で進展していくと、貴族たちやお坊さんが武家の家に来るというようなことが起こってきます。座敷はこのような身分の異なるものを迎える自由で平等な場として生まれてきます。これは出居(デイ)呼ばれる寝殿造りの主人の居室から発展した武家住宅の客間/宴会場から発展していきます。武家社会のデイは九間と呼ばれる、3間×3間の正方形の平面を基本としていました。この正方形というのが役に立ちました。どの辺も同じなので、現代でも接待などで言う上座、下座といった上下を規定する要素がなくなり平等な関係性が生まれます。畳もみな同じで全員が輪になって座り、分け隔てなく座れるようになりました。平等の精神は天井にも反映されます。寝殿造りでは天井が張られてなく、高いところや低いところが空間のなかにありました。これが身分を表すツールとして利用されていました。座敷では水平の天井が張られることでこの差をなくし、どこでも平等なスタイルをつくりました。法の下に平等な暮らしをしている現在ですと、逆に天井や床に差をつけることを要望頂いたりしますが、平等でない暮らしをしていた当時の人びとにとって正方形の水平な天井の空間は革新的で、象徴的な場所であったことが想像できます。

「慕帰絵々詞」より 異なる身分のものが輪になって座り連歌に勤しむ風景。

文化の中心だった和室

この客間としての座敷で宴会が行われたわけですが、そこでは武家社会らしい文化である「勝負事」、簡単にいうとお酒の席でのゲームが行われていました。そこは隠遁者や遊芸者も同席する、まさに貴賤同席の平等の場になっていました。のちに茶の湯の文化に発展する「闘茶」や和歌をリレーしていく「連歌」や、双六や博打といったお馴染みのゲームも行われていました。「和室学」の本の中で中世建築史家の奈良女子大学の藤田盟児教授が「吾妻鏡」(鎌倉時代の歴史書)の中の記述を紹介して、当時のこの座敷の使われ方、平等ということがどういうことだったかを説明しています。

座敷で先生に採点してもらう和歌の会が行われていました。会では採点の順位に従って席順が決まる仕組みだったようです。当然ながら色んな身分のものが集っています。その中にはこれから将軍になろうという北条政村もいましたが、政村は三番手でした。その政村が二番手の低い身分の若者に席を交代させようとしたところ、先生が咎めて、ちゃんと順番通りに座らせようとします。将軍になろうという人と和歌の先生に板挟みになった若者はびびってしまいその場から逃げだすのですが、政村は使いのものを出して連れ戻し順番通りに座らせ、褒美を取らせます。さらに採点で点が入らなかったものは縁側に座り、畜生のように箸を使わず食事をする罰ゲームを先生から与えられ、参加者一同が大笑いしていたようです。

このように本気で身分の差を超えた平等な場が成立していたようです。同じような話が網野善彦さんの本でも宮島の嚴島神社で行われた「連歌」の会でも語られています。このようにハレとケの二つの世界が中世では並存していたのです。これは近世の江戸時代の封建制の身分社会にも引き継がれていたことが江戸文化研究者の田中優子さんの著作などからも見て取ることが出来ます。嚴島神社の連歌が行われたのは現在の天神社、海に浮かぶ能楽堂に対して回廊を挟んで向かい側の目立たないところにあります。この連歌堂は座敷のもとであった出居(デイ)の3間×3間の正方形平面に水平の天井という基本形を守った形式をしており、平等の精神という目で見ると面白いです。もともとは連歌堂として1556年に造営されています。当時は毎月連歌の会が行われ、京都から名人が来たりと今でいうポップミュージックみたいな文化の中心の一つだったようです。水墨画で有名な雪舟も来たとか?このように文化的重要度を増した座敷は、この連歌堂もそうですが次第に独立して「会所」という建物の名前が与えられるようになります。今でいう「集会所」という感じですが、そこにアムステルダムのコーヒーショップやイングランドのパブのような文化と政治経済のニュアンスがかなり入り込んでるイメージでしょうか?

嚴島神社 天神社

お茶 と 和室

現代でもオリンピックなどを見ると変わらない感じがしますが、当時も文化は政治経済の重要な要素となっていました。特にお酒の接待の場として役割が「勝負事」のゲームにはありましたから余計です。特に「闘茶」はその影響力が強かったようです。「闘茶」は簡単に言うと、どの茶葉のお茶かを飲んで当てるゲーム、当時のお茶は高級品なのでゲーム店賭け事の場であると同時に、知識・教養の高さを示す場でもあったのだと思います。

お茶は平安時代には中国から日本に入ってきていたと言われます。チョコレートなどと同じように「薬」としての側面が強かったみたいです。本格的に広まったのは鎌倉時代以降のようです。その中心にいたのは禅宗の僧侶たちでした。禅宗の作法の中に茶礼という喫茶の作法があります。そのため習慣的にお茶を飲む文化があり、茶畑も禅の広がりとともに全国に広がっていきます。禅は当時の一大文化で単なる宗教の一宗派というより、絵画であったり、工芸品であったり、様々なものとセットで入ってきます。仏教の作法は非常に日本人の行動様式において大きな影響を与えているようで、神社の参拝の形式なども神仏習合の頃に仏教側からの影響で形式化した部分が多いと聞きます。簡単に考えると当時の流行の最先端のものが海外から入ってきて、一気に全国に広がっていきます。それが鎌倉時代以降の貴族社会から武家社会への移行に伴い、貴族以外の階層へも茶礼というお茶を飲む作法が広がっていた。そして接待の場での利用が増すことで「たしなみ」として政治経済のなかで重要なポジションを築いていった。ということが、お茶の普及の背景にあります。

「闘茶」はバサラと呼ばれる派手な服装や「唐物=中国からの輸入品」を好む文化のなかで特に発展し、建築でいうと時代としても鹿苑寺の金閣などがイメージとしては合うのではないかと思います。バサラは実力主義的でのちの下剋上という発想の下地になったものとも言われます。そんな闘茶はあまりに流行り過ぎて、土地や財産まで賭けるようになって一時は禁止令が出るほどでした。そんな闘茶も時代と共に廃れていきます。一番大きかったのは「侘茶」の登場のようです。その発展に大きく寄与していたのが銀閣で有名な慈照寺、足利義政が隠居所として造営した東山殿だと言われます。現存する最古の書院造である「東求堂」もここにあります。東求堂は持仏堂、要するに仏間として作った建物ですが南の一番良いところに仏堂に対して北東角に同仁斉という四畳半の座敷があります。書院造りの「書院」とは付書院という部屋から出っ張ったところで、明り障子が付いた書き物をする棚板が付いているものです。今でいうと書斎のような使われ方をしたところです。同時にここはお茶の接待を行う場所でもあり、その後に展開していく四畳半茶室の原型の一つになったと言われます。平面が九間と同じ正方形であるところに面白さを感じます。付け書院の横の違い棚には茶道具が飾られていたようです。現存しませんが会所も別で存在し、お茶をはじめ様々な催しが行われ、会所にはやはり九間の座敷があったようです。またこの頃には畳は敷くものから床仕上げとして設えるものへと変わり、敷居の高さに畳が納まるようになります。大体14世紀ごろと言われます。会所や書院の大広間のような大きな場所で畳の敷き詰めが行われたのは足利義政も関わった応仁の乱後で、その後に隠居所として東山御殿は作られていますから、そういう意味でも転換期の建築であると言えます。

慈照寺 銀閣
東求堂 付書院と違い棚
東求堂 平面図

ようやく書院造の座敷が登場して和室の原型というものが見えてきました。貴族社会から武家社会への移行によって変わった身分に対しての考えかた、海外から新しく入ってきた文化によって求められた新しい空間像が「座敷」「書院」という日本独自の空間を形成することに影響を及ぼしていることがわかりました。

侘茶は村田珠光という浄土宗の遁世僧によって創始され、のちに堺の商人で連歌師で禅僧だった武野紹鴎や千利休に引き継がれて完成されたと言われています。村田珠光は浄土宗の僧ですが禅の教えにも精通しており、「茶禅一味」、禅と茶の一致を唱えています。平安時代までの貴族社会の国を守るための仏教から鎌倉時代はこれまで見てきた通り、自由と平等が拡張した社会であり個人救済が新しい宗教への需要として生まれていました。それに応えたのが法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、道元の曹洞宗、栄西の臨済宗、一遍上人の時宗、日蓮上人の法華宗の鎌倉仏教でした。仏教学者の鈴木大拙は「日本的霊性」において鎌倉時代をその起点としていますが、それは日本の大地に根付いて暮らす人々へ理解出来るようにと目指して改編されていった仏教の姿でした。この鎌倉仏教/遁世僧の思想に影響されて芽生えていったのが「能」でした。鎌倉仏教の一つである踊念仏/時宗の法名を持つ特殊技能階級である賤民/猿楽師の観阿弥・世阿弥が大成しました。当時は仏教を根拠として血・ケガレや聖なるものを扱う人たちが賤民として扱われ、座というお寺や貴族の庇護のもとで生業をする集団がありました。見方によれば特殊技能を権力者が保持するための仕組みとして仏教や賤民や座が使われたと見れます。観阿弥・世阿弥の猿楽は背景として仏教との関りが深いものでした。観阿弥・世阿弥はその背景を猿楽自信に取り入れて昇華させていきます。世阿弥の「冷えたる曲」「無心の能」「無文の能」

 心より出でくる能とは、無上の上手の、申楽に物数ののち、二曲も物まねも儀理(=筋のこと)もさしてなき能の、さびさびとしたる中に、何とやらん感心のある所なり。是を、冷たる曲と申す也。…これはただ、無上の上手の得たる瑞風かと覚えたり。これを、心より出来る能とも云う、無心の能とも、又は無文の能とも申すなり。
(著:世阿弥 花鏡より)

は「色即是空、空即是色」のような考え方があって理解出来るものだと思いますし、「初心忘るべからず」は禅語の「一期一会」を前提とした世界観でしょう。実際に時宗だけでなく禅僧のもとに出入りしていたと言われています。それまでの猿楽や田楽が持っていた激しい舞から能の禅のように様々なものを削ぎ落していった侘しい寂しい舞に生まれた感覚は連歌師の心敬にも引き継がれます。

氷ばかり艶なるはなし。刈田の原などの朝の薄氷、ふりたる檜皮の軒などの氷柱、枯野の草木など露霜の閉ぢたる風情、おもしろくも艶にもはべらずや。(心敬『ひとりごと』)

「氷ばかり艶なるはなし=氷ほど美しく、氷ほど艷やかで、余情のあるものはない。」鎌倉仏教がもっていた隠遁僧の世界は氷りが持つ「冷え、枯れ、凍み」として自然が生み出す侘しさの美へと結実していきます。和歌が万葉集の時代から捉えていた日本の自然観が鎌倉仏教の隠遁僧たちが築き上げた自然観が連歌師のなかで混じり合っていきます。そしてこれが連歌師とも関わりの深かった村田珠光、連歌師でもあった武野紹鴎、そしてその弟子とされる千利休へと引き継がれていきます。

和室と市中の山居 茶室/塔頭

自由で平等な場であった書院/会所の空間は、鎌倉仏教が育んだ隠遁僧たちの思想が育んだ文化によって成熟していきます。その建築スタイルは侘茶の「茶室」と禅庭の「塔頭」として結晶したのではないかと思います。その二つに共通しているのは「草庵」「枯山水」という自然の持つ美しさを志向する芸術でありながらも、都市という非常に人工的社会的な場所に埋め込まれたもの=「市中の山居」であるということです。

村田珠光によって創始された侘茶は堺商人たちの手によって成熟させられていきます。当時の堺は自由自治の商業都市で中国やポルトガルとの貿易とそこから発達した鉄砲生産で栄え、その財力と軍事力を軸に環濠という堀を回して周囲から自治を守っていました。同じ時代に商業都市国家として栄華を極めたヴェネツィアのような街でした。限られた土地のなかにたくさんの商家がひしめき合って生きる。身分に捉われず自由に生きる、そんな堺商人たちの拠り所が鎌倉仏教の一つである禅でした。お茶と禅の関係は前に書かせて頂いた通りで、茶礼という喫茶の習慣・茶畑の造園を広め、接待の場として政治経済の道具として利用されました。当時の経済界の中枢である堺商人がそんな道具を利用しないはずがありません。しかし堺は先ほどの銀閣のような自然と都市の境界に位置するような緑あふれた環境でもないですし、将軍の御殿という広大な広さの土地があるわけでもありません。しかし環濠で囲まれた限られた環境のなかにひしめき合って生きる、そんな都市が鎌倉仏教の隠遁僧たちが育んできた侘び寂びの文化・禅の思想と実は相性がよかったようです。

世阿弥の「冷えたる曲」の記述のなかで見えるように、心/内に秘めたるもの、そこから自ずと湧き出てくる感情や情景というものが重要視されていました。能は演劇/歌舞劇ですから本来目の前になり世界を観客の前に演者がつくりだす芸能です。鎌倉仏教はそれまで仏教がもっていた自然/世界を理解するための「知識」を踊りや念仏/歌を通して「体感」するものへと改変させました。能はそれを参加して体感するものから「観照」するものへと改変させます。抽象的であった「知識」が「体感」する具体的なものになった上で、改めて情景をイメージさせる「観照」するものへと抽象化したのです。連歌は能が抽象化したものを詞としてさらに抽象化させて「想像」させるものへと純化させました。

様々な身分のものが集い勝負事・応接の場であった会所は、塀で囲われた外と隔離された庭園の敷地内に建てられました。庭園は鎌倉仏教から生まれた枯山水を特徴とした禅宗式庭園でした。塀と庭園によって囲われた空間は世俗から隔離された自由と平等の場を表現していました。慈照寺銀閣に行かれたかたは庭園に入るまでの高い植木と折れ曲がったアプローチが別世界へと切り替わる舞台装置の役割を果たしていたことを記憶されている方もいらっしゃるのではないかと思います。

慈照寺銀閣 アプローチ
慈照寺境内図 左下がアプローチ
茶室の路地 突き当りを曲がった土間庇に躙り口がある
茶室露地平面図 左の露地を通り南の土間庇に躙り口

この世俗と内部を分けるアプローチの考え方は茶室や塔頭にも引き継がれていきます。茶室では「露地」という飛び石のアプローチがつくられます。茶室は会所のように広い敷地ではなく、そのため広い庭園もありません。そのためこの露地が会所の庭園の役割も果たします。露地は世俗と内部を分けるアプローチであると同時に主人と客とあいだの応接の場にもなります。蹲に生けられた花や待合に掛けられた掛軸は主人から客へのメッセージです。また人をはじめ動物は刺激をゆっくりと変化させられると気づくことが出来ず、音の変化、光の変化、熱の変化に自分のスケールを合わせてしまうと言います。露地の飛び石の石組みはこれから入る茶室に最適な音や光や大きさのスケールに客を合わせられるように主人が調整した場所のようにも思えます。

このようにして都市という世俗の象徴のような場所の中に、世俗から巧妙に隔離された「市中の山居」と呼びうる空間が生まれてきます。市中は都市の中、山居は茶室を指しています。この茶室が求めたものは鎌倉仏教の隠遁僧たちの自然と向き合うための草庵でした。そこから慈照寺銀閣で見てきたような書院風の茶室と草庵風の茶室という二つの方向性が生まれます。侘茶が求めたのは後者の隠遁僧たちの草庵茶室でした。利休の頃の草庵茶室はほとんど外が見えません。見えるのは土壁で塗り込められた床の間と面皮の付いた丸太。そして小さくぼんやりと照らすことで部屋の奥行感を増す障子。自然を暗示させる要素が慎重に構成されます。茶室の平面は4畳半の正方形が基本としてありましたが利休の時代で既に3畳の茶室、2畳の茶室、1畳半の茶室と必ずしも正方形ではなくなりました。また天井もフラットではなく、平天井と傾斜天井の組合せや船底天井などと光や高さ、素材の表現で様々なものが現れます。これは同じ侘び寂びの芸術である能における「演者と観客」のように「主と客」という非対称な関係が空間にも反映されていきます。この一方で、茶会という時間芸術は「主客一体」という考え方のもとで客もまた茶室という舞台の一人の演者であることが求められます。そのため、そこには会所の頃とは別の自由と平等の考え方が適用されています。時代は新しい武士という存在を中心に平等な立場で勝負事をはじめていた時代からそれぞれの主のもとに集い大名たちがしのぎを削る戦国の時代へと移っていました。島国日本では勝者も敗者も戦国の世をかたちづくりピースに過ぎず、それを激しくし、また鎮めるための役割を果たす、そのような仏教的な世界観だったのではと思います。「主客一体」は主も客もともに茶会という時間を最高のものとするために適切な受答え/問答を行い役目を果たす、主は客であり、客は主である、という禅のような世界観です。草庵茶室の面白いところは、草庵という自然を感じさせることを目指した一方で閉じて自然を直接的には見せない人工的に間接的にそれらを想像させていくこと、そしてそうすることで人と自然との距離を縮めることだと思います。そこに「主客一体」が被さってくることで、人(相手)もまた世界を構成するピースの一つに過ぎないそこにある「自然」と同じ存在であることを五感で感じ取らせる、その時間を共に自分も構成するという一連の流れを体感することだと理解しています。そうすることで自然は観賞する対象から観照するものごとへと変わっていきます。

禅宗の塔頭寺院もまた観照に重きをおいた場でした。塔頭とは大寺院のトップや高僧が引退する時や亡くなった時に隠居所や弟子たちが墓を守るための小庵です。小庵ですので大寺院のように座禅をする僧堂があるわけでも、修行道場があるわけでもありません。そこで座禅をする場所として選ばれたのが枯山水の南庭に面した広縁ではなかったかと言われています。枯山水のことを天龍寺をはじめ数々の庭を中世に作庭した夢窓疎石の言葉をみると

高く聳えた山には、わずかな塵一つない。谷川の瀑流には、水のしたたりもない。一時風が吹けば、明月の夜となる。仏法の道理を知った人は、その道理のなかに遊ぶ。
夢想疎石「仮山水韻」

白砂と石組みで作られた枯山水、仏法の道理を知った人なら、その枯山水をきっかけとして目の前の姿に捉われずに、自然を想像し遊ぶことが出来る、といった感じでしょうか。草庵茶室が閉じて自然を人工的に取り扱ったように、枯山水でも人工的に抽象化して扱うことで、人が想像をする「余白」「間」をつくりだします。

塔頭広縁イメージ
塔頭平面図イメージ

塔頭は高僧の隠居所という住居としての機能を持っています。南の枯山水の観照の庭と別で北にも庭を持つことが多いです。この平面図では北庭も枯山水ですが、石庭で有名な龍安寺の北庭のように緑と池で彩られた庭を持つことも珍しくありません。これは平面図を上下に分ける線がありますが、この線を境に上側/北側がプライベート空間/生活の場=ケの場所、下側/南側がパブリック空間/応接の場=ハレの場所と、塀と庭によって世俗から隔離した上でさらにここで二つを分けています。なので北は高僧たちがくつろぐための観照の場として設えられていました。

禅宗の庭は龍安寺の石庭もそうですが南がメインで北がサブという扱いで庭が構成されるイメージを持ちますが、最初に禅宗の庭として発展したのは北庭の方だったようです。理由としては南側が一つは禅宗のなかで儀式などに使う場所として利用されていたこと、もうひとつは観賞の庭として合理的だったことです。北側に緑が配置されると人は南から北を見ますから光を受けた緑をみることが出来ます。これに対して南側に緑が配置されると逆光になってしまう。さらに緑は太陽の方を正面に成長していきますから北側に配置している場合は正面を向けて成長しますが、南側の場合は背を向けて成長してしまい庭としての維持が難しい。鎌倉仏教が生まれて禅庭が発達するまでは寝殿造りの南の池泉式庭園が主流で、それは南に水が吉と風水で決められたもの。鎌倉仏教による価値観の変革があってはじめて北庭に緑や池が配置されるようになったようです。

このように二つの異なる空間・庭が南北に存在する中で、南庭の広縁を修行/座禅の場として選び高僧たちは最終的に空間を仕立てていきます。高僧たちは枯山水の南庭の広縁での座禅を通じて「自他一体」、この場合は庭と自分が一体となる、庭が自分で、自分が庭である状態を目指します。これは草庵茶室の「主客一体」と同じです。庭と自分が一体となることを通して、そこから自然、世界の理と一体となる=悟りの境地を目指します。

慈照寺銀閣の書院造の東求堂も同じように北側がプライベート、南側がパブリックな場、さらに時代が下って寝殿造りの住まいも北側がプライベートな場で、南側がパブリックな場になっています。このように日本ではこの南北のハレとケの使い分けがなされ、江戸時代の民家建築や最近の住宅メーカーの間取りなどにも見られると変わらない伝統だと思います。

江戸時代になると幕府は仏教の権力を削ぎつつ自分たちの中に取り込む方向で動きます。江戸時代に入る前から織田信長による延暦寺焼き討ちや本願寺の解体など仏教の弾圧によって多くの力は削がれていたところに、高野山をはじめとした寺院に対して法度を出して統制を強めています。そして檀家制度によって庶民を監視統制する機関の一部となります。平和の時代が訪れて仏教の役割も大きく変わっていきます。茶室もまた大名たちのたしなみとなり、求められる姿が変わっていきました。

京都臨済宗大徳寺の塔頭である高桐院は江戸時代がまさに始まろうとする慶長7年(1602年)に利休七哲の1人である細川三斎によって建立されます。ある年代の方にはJRの京都のCMでお馴染みでしょうか。枯山水の庭を持つ塔頭がひしめく大徳寺境内にあって、緑に囲われて苔むした青々とした空間は塔頭全体が隠遁僧のための草庵茶室の一部であるような雰囲気を持ちます。規模も形式も違いますが後の桂離宮で行われた寝殿造りの回遊式庭園の素地に対して茶室の露地が持つ感覚を調整する誘いの空間が敷地内に慎重に配す発想の源は既にこの頃から現れていたように感じます。

同じく大徳寺の塔頭である孤篷庵も茶室と塔頭とを統合した空間の例だと言えると思います。孤篷庵は高桐院とは違い書院茶室として、塔頭のなかに茶室が入り込んでいきます。小堀遠州によって1612年に建立されています。小堀遠州は利休七哲の1人である古田織部の弟子にあたり、利休にとっては孫弟子のような位置でしょうか。きれい寂びと呼ばれるデザイン性に富んだ構成はのちの時代に大きな影響を与えました。孤篷庵はそれまでの塔頭のように南に応接の場、北に生活の場というかたちを取っていますが、北側に茶室が入り込むことで書院は応接メインの場となり、生活の場は別棟へと逃がされます。南庭は枯山水ですが白砂利ではなく赤土が用いられ、.茶室への露地の一部となっています。高僧の修行の場としての広縁の役割よりも茶室の役割が重視されていることが見て取れます。茶室もまた草庵茶室のような閉じた場ではなく、外部と内部がつながったような表現がなされています。書院という日常の延長の中に茶道という非日常的な要素をスケールや立面・平面構成、素材の使い分けによって組み入れていくことで、それまで切り離されていた世俗を茶室に引き入れることで、茶礼を通して世俗と自然との調和をめざしているように感じます。

このような世俗への視線は寛永年間には既に現れ始める浮世絵をはじめとした町民文化、そして世俗生活の倫理規範となる儒教の発展にも見て取れます。中世の武士社会によって開かれた文化は、江戸時代の近世に入ってまた別の方向へと開いていきます。

孤篷庵 境内図
孤篷庵 茶室/忘筌
孤篷庵 方丈 平面図

間取りについて」でも書かせて頂きましたが、日本という一つの国で、ここまでの統一規格寸法によって建物が建てられる文化が浸透したのは、江戸時代以降と言われます。それまでは大工は平安時代には宮廷につかえる官僚組織であり、平安末期からは国家事業を貴族が負担するようになり彼ら雇われる職業集団。それが江戸時代になり平和が訪れ、城や邸宅などの需要が減り一部の権力者に仕える業態から都市の町家や裕福な豪農の民家と裾野を広げて、全国津々浦々に大工技術が行き渡ったと言われています。その裏には江戸時代の人口の急増や狭い国土に高密度で住むことによって生じる火災などの災害に対しての対処、都市の人口の流動化に伴う中古市場の活性化など、様々な要因が重なり合っているように思えます。江戸時代の町民文化を下支えしたのはこの規格化された設計・施工システムだったと言えます。

間取りの基本単位である畳も大工と同じような経過を辿って日本中に浸透していきます。奈良時代には畳職人というものが出現し、鎌倉から室町時代に職人としての地位が確立されていきます。14世紀には寺院の畳の需要拡大によって専属の畳職人が寺院に置かれるようになります。戦国大名たちも畳職人を抱えて「畳町」や「畳屋町」といった町名が生まれます。さらにそれが江戸時代になって町民の畳需要が増すことで各町内へと分散して畳の供給・メンテナンス体制が築かれていきました。

建築における近代化をコンクリートや鉄に限定するのであれば、それは明治以降の西洋化の過程で行われたことだと言えますが、大量生産や規格化や大衆化という観点から考えるのであれば江戸時代に日本における建築の近代化は始まっていたと考えられるのではないか?と個人的には思っています。

この大衆文化による木材需要の急増は日本人と山林との関係を大きく変えていきます。日本の森林の通史を書いたコンラッド・タットマンは明治期までの日本の森林と人とのあいだに二つの危機があったと記します。一つは飛鳥時代・奈良時代の大陸から建築技術が輸入され東大寺をはじめとする(現存の東大寺は江戸時代で当時は数倍大きかった)大規模建築の建立のために大径材の伐り出しとその跡地の焼畑化による森林の変化。次が江戸時代初期に起こった人口増に伴う開墾と山林資源の需要の急増です。今でこそ保安林や植林をするという林業のスタイルが当たり前になっていますが、それが本格的に行われるようになったのも、この江戸時代からです。これは世界的に見てもかなり早い時代から行われており、江戸時代の森林が国際的に高い評価を得ている理由ともなっています。

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