生き方 を あらわすための メディアとしての建築

メディアとしての布

日本の江戸文学・江戸文化研究家の田中優子さんの著作に「布のちから」という本がある。そのなかに、「メディアとしての布」という文章がある。

そこではインド独立の父、マハトマ・ガンディーのカーディという手織りの布地が取り上げられている。南アフリカからインドに戻ったガンディーはアーマダバードにアシュラムとインドでは呼ばれる日本で言うと僧院/学校のようなものを作り、そこで糸紡ぎをするようになる。当時のインドはイギリスの植民地であり、イギリスの紡績業で大量生産された衣服をはじめとした綿製品の消費地であった。原材料である綿花が安くイギリスへ輸出されて、大量生産の低価格の綿製品がインドへと輸入される。これによりインドの綿織物産業は衰退し、綿花のモノカルチャー的農業が進展し、貧困から逃れられなくなっていた。

糸車を廻すガンディー。 wikipediaより

ガンディーのアシュラムは、そうした搾取をはねのける拠点とされた。そして、ガンディーは自ら糸紡ぎを実践し、工場製の服やズボンを脱ぎ捨て、手紡ぎ手織りの布を身体に巻きつけて、人々に仕舞ってある紡ぎ車を持ち出して自ら紡ぐように、と呼び掛けたのである。
これはイギリス製品へのボイコット運動と合わせて行われ、自国での生産によるインドの復興、ヒンディーとイスラムの対立を乗り越え、そして独立に向かって連帯する力の源泉となったのである。
(布のちから p.28 編集)

歴史の偶然なのかもしれないが、ここで手織りの布を中心に世界は動いていた。現代の私たちですら、ガンディーと言われて思い浮かべるのは、白い布をまいた姿だろう。そして、その布にはガンディーの人生の歩みとともに様々な情報が染み込んで深みを与えていった。白い手織りの布は象徴/サインとなり、いくつものメッセージを取り纏め、発信するメディアとなった。

衣服はメッセージを発している。人々は非常にこのことに自覚的だ。制服は○○学校の生徒であることを示す。ユニフォームはチームのメンバーであることを示す。和服は日本文化に興味を持っていることを示し、ハイブランドのオートクチュールはお金持ちが極度のファッションマニアであることを示すかもしれない。
もちろんこれは衣服に限らない。身につけているものはなんだって、極端に言えばお化粧や表情や話方だって、なにかしらのメッセージを発している。しかしそれがメディアである、とは思っているだろうか?

ガンディーはイギリスのテレビカメラの前で「国王と会う時もその恰好ですか」と問われ、「もちろんです。他の格好をしたら失礼です。自分を偽ることになりますから」と答えている。「社会において衣類とは何か」の答えの一つが、ここにある。衣類は世界・社会の中での自分の位置と思想を示す媒体/メディアであり、本来そうあるべきだ、という考え方だ。
(布のちから p.31)

布のちからの中で、田中優子さんは”ブランド物追随を代表とする「みせびらかし」もまた衣類のメディア性の一側面であり、一般に「ファッション」とか「装飾性」と呼ばれる。近代で一般的になったこの衣類観は、「他の格好をしたら失礼です。自分を偽ることになりますから」という衣類観とは正反対だ。”と、ガンジーのスタンスと強く対比させる。
個人的には、この「ファッション」や「装飾性」をここまで否定的に扱うべきではない、と考えている。私が大学生時代に同級生から吉本ばななさんの「キッチン」という小説を勧められたことがある。そのなかで祖母を亡くした主人公がお世話になる家のお母さんである えり子さん という女装をした男がいる。同級生は女装のことをコスプレと言っていた。そして、それは仮面を付けて自分を使い分けることで生活を維持する精神安定剤のようなものなのだと、私に説明してくれた。そこでは「ファッション」「装飾性」が発信するものとしてのメディアから、受信するものとしてのメディアへと切り替わっていることに気づく。別のなにかになることで、なにかを得て、生きている。それは偽りというよりは、もう一人の自分なのだ。そういう意味で言うと、ガンディーにも布を纏う前のガンディーと纏った後のガンディーがそれぞれ存在する。
私はこの身の回りのものが持つメディア性は使い方の上手い下手はあるにせよ、「生き方を伝えるメディア」なのだと、この話を聞いてから考えるようになった。しかも双方向型のメディアである。
ガンジーの布使い方は非常に巧みであり、「生き方を伝えるメディア」という発信も受信もするメディア性を最大限に発揮させているように思える。そこには多様な出来事を一つにまとめる強い意志を感じる。そうであるからこそ、単なる扇動ではなく、運動へとつながったのだと。
このように私たちが身につける物は、メッセージを発し受け止めている。それを意識的であれ、無意識的にであれ。

建築のはじまり

建築の始原を問う本はいくつもある。そのなかで、「建築家なしの建築」という世界の様々な地域のヴァナキュラーな建物を取り扱ったニューヨーク近代美術館での展示と本を書いているバーナード・ルドフスキーは「驚異の工匠たち」という、アリや蜜蜂、ビーバーの巣から石窟、茅葺の民家、子どもの積み木遊び、トレーラーハウスに至るまで様々な建築・住居に関わる事例を横断して取り上げた書物のなかで、下記のような記述がある。

つつましい住宅は記念碑的建築に先行したのではなく、その後に従ったのだ。
衣服についても、これと同様なことがいえると思う。衣服が人間の身体を(より厳密にはさまざまの突出部分や有孔部分を)覆うために考え出された、という仮説は温和な風土―に住む人々にとっては、自明のことのように思えるだろう。しかし実はこの仮説は誤っている。自然条件が穏やかな地方ではたいていの場合、衣服の焦点は非実用的、遊戯的な衣装にある。言い換えれば、芸術のための芸術、建築のための建築、実用的な目的を持つ生産物より優先しているのである。いわゆる機能主義建築と機能的衣服の両者の数量上の優勢は、疑いなく、不安定な社会につきものの禁欲主義的傾向の現れなのだ。
(驚異の工匠たち p.105)

ナミビア共和国 原住民 ヒンバ族の村 自由大学より

人類は言語によって進歩を加速した。言語の発達によって協調行動が高度化し、新しい暮らしが生まれた。もともと衣服も、住居も必要ない環境で、必要ない動物として進化してきた存在が、衣服や住居に対して記念碑的なもの=メッセージ性のあるものを求めたことは想像にたやすい。もちろん機能=テクノロジーの存在を否定するわけではない。火を操る術が消化機能を外部化し、消化に使っていたエネルギーを脳で使えるようにヒトの生物学的な性質を変えていったように、衣服や住居の機能=テクノロジーとしての側面はヒトをより知的な協調活動=文化を育むことへと専念させるようにしていったはずだ。有史以来、協調はヒトの強力な道具であり、言語/コミュニケーションの発達と道具/テクノロジーの発達は共に歩みを進めてきた。そして環境に合わせて様々な文化(コミュニケーションとテクノロジーの組合せ)が進化してきた。

科学と物語が交わるところ

構造主義の祖として名高いフランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは著作「野生の思考」にて、アマゾンの熱帯雨林の原住民のような神話的思考の元に生きる=器用人と現代の科学的思考の元に生きる=科学者とを比較して次のように語る。

科学者が構造を用いて出来事を作るのに対し、器用人は出来事を用いて構造を作る。
(野生の思考 具体の科学 p.29)

これはヒトが持つ、二つの異なる知/情報へのアプローチである。現代における器用人は反対意見もあるかと思うが、政治家や芸術家だと考える。科学者は構造=法則・ルールを用いて、現象・行動を分解し、新しい出来事・差異つくっていくのに対して、現代の器用人=政治家・芸術家はそれまでに起こった出来事・差異を選び取り纏めて構造=新しい物語、世界の新しい解釈をつくっていく。科学は法によって現象を分解して無限に知識を広げていく、政治・芸術は物語によって出来事を統合していき、有限のリソースで解釈出来る内容に仕立て上げる。割り算と掛け算のように。
布(衣服)や建築では科学と物語が交差する。専門分化した様々な科学が自然の様々な物理現象に寄り添い一着の服を、一棟の建築を支える。衣服・建築は支える科学が明らかにした自然現象・行動を組合せ、分解して、物語を世界の解釈の仕方を示す。それはか弱い言葉かもしれないし、力強い言葉かもしれない。テクノロジーとは自然現象・自然の理に寄り添いながら、それを手繰り寄せ新しい世界/物語をつくるものである。

わたしたちの身の回りのものは様々なメッセージを発している。人々がそれに意識的、無意識的に関わらず。流行はメッセージを消費的に扱う。複製を繰り返した結果、最初の物語が持っていた世界観は劣化して気づかれないかもしれない(それが新しい世界観を産むかもしれない)。現代のテクノロジーはテクノロジーを複雑に組み合わせた結果、自然現象の組合せによってそれが成立していることを忘れているかもしれない(逆に強調して発見されるかもしれない)。
わたしたちは有限のリソースに寄り添って、無限に展開する知の体系を効率的に使って自然現象を手繰り寄せ、協調して世界をつくる。私たちはより末永く「自分に属していないものを食べ…同胞たちを掠めて生きている」(マハトマ・ガンディー/詩人タゴールへの言葉より)ために。

生き方をあわらすこと

再び田中優子さんのガンディーのはなしに戻りたい。

ガンディーはイギリスのテレビカメラの前で「国王と会う時もその恰好ですか」と問われ、「もちろんです。他の格好をしたら失礼です。自分を偽ることになりますから」と答えている。「社会において衣類とは何か」の答えの一つが、ここにある。衣類は世界・社会の中での自分の位置と思想を示す媒体/メディアであり、本来そうあるべきだ、という考え方だ。
(布のちから p.31)

「世界・社会の中での自分の位置」を示すとは、テクノロジー(衣類や建築)が科学と物語によって伝える自然と社会によって生み出された歴史を指し、ここでの「思想」とはそれを身につけた人が/そのメディアを使う人が未来へ向ける意志、だと解釈する。それは生き方の表明であり、衣服や建築はそのためのメディアとなることを示している。それはガンディーのような活動家に限らず、すべての人にとっての



風と火と農家住宅 秋の俯瞰図
風と火と農家住宅 南外観 日が暮れ始める
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私たちは「風と火と農家住宅」という愛媛県松山市郊外に一軒の農家住宅をつくった。それは高齢化によって担い手がいなくなりつつある地方都市のお米農家さんの仕事だった。クライアントは設計当時、旧松山市で唯一の30代の米農家であり、これから、この地でどのように農業を行っていくべきなのかを思案されていた。
私たちはこの話を聞いたとき、ガンディーの布のはなしを思い出していた。クライアントにとってのガンジーの布のようなものをつくれないか?と、

最後に田中優子さんの言葉をもう一度

布は人を包んで神のもとへ送るための媒体/メディアであり、神に祈りの言葉を届ける媒体/メディアであった。近現代の「手仕事」が、奢侈と手を切るべきだと言いながら結局奢侈になり、ついには差異化するためのファッションアイテムに成り下がってしまう理由はそこにある。神や自然(つまり人間を超える力)とつながる媒体の拠点としての共同体をもたない我々は、何を作っても人とつながることしかできず、人とつながるために貨幣を介在するしかないからである。手仕事は一秒一秒、金銭に換算されることになる。
(布のちから p.40)

神が死んで、物語の中心は人に移った近現代。神は蘇られないが、科学は自然との対話をする準備を進めている。物語の中心は人から環境へと移りつつあるように感じる。

参考資料

   

関連作品

風と火と農家住宅/Farm house of wind and fire

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